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天才パンダのエッセイ※本物のミステリー!ゲームと脳科学 楽しい経済学  作者: ヘタレパンダ


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第2話 頭のいい子ほどバツになる国語教育

第2話 頭のいい子ほどバツになる国語教育


――先生の機嫌を取るのが読解力なのか?


私は子どもの頃から、本を読むのが大好きだった。


作文を書くのも得意だった。


国語のテストの点数も良かった。


だから、母親は私のことを「国語が大好きな子だった」と思っていたらしい。


ところが、私は国語が大嫌いだった。


もう一度言う。


私は本を読むのが大好きだったが、国語という教科は大嫌いだった。


おかしな話だと思うだろうか。


私は、ちっともおかしいとは思わない。


本を読むことと、国語の授業を受けることは別だからだ。


本には、面白い物語がある。


知らなかった世界がある。


自分と違う考え方の人間が登場する。


登場人物が何かを考え、悩み、判断し、行動する。


私は、そういうものを読むのが好きだった。


ところが、学校の国語では何をやらされるのか。


漢字の書き順を守りなさい。


習っていない漢字は使わないようにしなさい。


先生の説明を聞きなさい。


作者の気持ちを考えなさい。


この文章で作者が言いたかったことを書きなさい。


そして、先生や出題者が用意した模範解答と違っていたら、バツをもらう。


私は昔から思っていた。


お前ら、本当に子どもの頭の中で何が起きているのかわかってんのか?


子どもは大人が思っているほど単純じゃない。


むしろ、妙なことまで考えてしまう子どもだっている。


ところが、出題する大人は、子どもがそんなことを考えるとは想定していない。


だから、答えが一つしかないような問題を作る。


そして、想定と違う答えが返ってくると、間違いだと言う。


おい。


ちょっと待て。


それ、本当に子どもが間違っているのか?


問題を作ったお前の方が間違っている可能性はないのか?


私は、そこから考え直した方がいいと思っている。


1 エビフライなのか、エビサラダなのか


私の息子が小さい頃、学校の問題でバツをもらったことがある。


絵を見て、そこに描かれているものの名前を書くという問題だった。


描かれていたのは、エビフライである。


ただし、問題があった。


絵は白黒だった。


しかも、エビフライだけが描かれていたわけではない。


周囲には野菜まで描かれていたのである。


息子はその絵を見て、こう書いた。


「エビサラダ」


バツだった。


模範解答は「エビフライ」だったのである。


私は思った。


ちょっと待てよ。


エビフライも5文字。


エビサラダも5文字。


文字数は合っている。


しかも野菜が描いてある。


だったら、エビサラダと解釈してもおかしくないじゃないか。


私は、息子が適当に答えたとは思わなかった。


ちゃんと絵を見て、自分なりに考えて答えを出したのだ。


もちろん、エビフライという料理の名称を覚えているかどうかを確認する問題なら、エビサラダは正解ではない。


しかし、そういう問題なら、何を答えさせたいのかが伝わる絵を用意するべきだ。


特に、小学校低学年の教材である。


大人が見れば「ああ、これはエビフライだな」と思うかもしれない。


しかし、子どもが見たら別の料理に見えることだってあるだろう。


だったら、どうしてそう答えたのか聞けばいい。


「どうしてエビサラダだと思ったの?」


「野菜が描いてあったから」


それなら、その子が絵のどこを見て、どう判断したのかがわかる。


私は、そこを評価してほしかった。


例えば、料理の名前は違っていても、絵を観察して言葉にする能力は発揮している。


文字数も合っている。


文字を書くこともできている。


だったら、その部分はできていると評価すればいい。


その上で「これはエビフライという料理なんだよ」と教えてやればいいではないか。


ところが、学校では模範解答と違うからバツ。


それで終わり。


おいおい。


子どもが何を考えたのか調べることこそ、教育じゃないのか?


私は以前から、加点式の教育を提案してきた。


間違ったところばかり探すのではなく、できている部分を評価する。


例えば10点満点の問題でも、何ができて何ができなかったのか、項目を分けて採点すればいい。


そうすれば、最終的な答えが違っていても、観察力や思考の過程を評価できる。


それに、子どもだって納得しやすいだろう。


「エビサラダは違うけど、文字数は合っていたね。絵もしっかり見ていたね」


そう言われれば、次も自分で考えようと思うかもしれない。


しかし、ただバツをつけられたらどうなるか。


「自分で考えちゃいけないんだ」


「先生が考えた答えを書かなきゃいけないんだ」


そう思う子が出てきても不思議ではない。


そんなことを繰り返して、子どもの考える力が伸びると思うのか。


2 クマが落とした種は、なぜ花になったのか


もう一つ、子どもたちが理解できなかった問題がある。


昔のことなので、文章の細かい部分までは覚えていない。


ただ、大筋は覚えている。


あるクマが、種の入った袋をもらった。


その袋には穴が開いていて、クマが歩くたびに種がこぼれていった。


やがてクマは家に着いたが、袋の中には種がなくなっていた。


その後、花が咲いたというような話だった。


そして問題が出る。


「なぜ花が咲いたのでしょう?」


私の子どもたちは、この問題がわからなかった。


「ママ、わかんないよ」


そう言うので、私も読んでみた。


そして思った。


……わかんねえ。


いや、待て。


種が地面に落ちたことはわかる。


しかし、種が地面に落ちたからといって、すぐに花が咲くわけではない。


芽が出て、育って、花が咲くまでには時間がかかる。


普通に考えれば、当然のことである。


ところが、私が覚えている限り、その時間経過を理解するための説明が不十分だった。


だったら、何か特殊なことが起きたのか?


気候変動でもあったのか?


火山活動の影響で、突然暖かくなったのか?


私はいろいろ考えた。


もちろん、そんなことは文章に書いていない。


だから、それが正解だとも思わない。


しかし、そもそも文章に手がかりが足りないのだから、何が起きたのかわからないのである。


しょうがないので模範解答を見た。


「春が来たから」


……は?


春が来たから?


おい。


だったら、そう判断できる文章を書けよ。


「やがて春になりました」


これならわかる。


「寒い冬が終わって、暖かくなりました」


これでもわかる。


少なくとも、季節が変わったと推測できる描写を入れればいい。


子どもに読解力を要求するなら、問題を作る大人にも文章を書く能力が必要だろう。


私は、この手の問題が本当に嫌いだった。


なぜなら、子どもが文章をきちんと読んで、そこに書かれていないことまで勝手に決めつけなかった結果、答えがわからなくなる場合があるからだ。


ところが、出題者は「子どもなら、こういう童話の展開を素直に受け取るだろう」と考えているのかもしれない。


そういう物語の展開に慣れていて、春が来たのだろうと推測する子だっている。


その子が頭が悪いということではない。


しかし、文章の不足に気づいて疑問を持つ子どもだっているんだ。


そして、その疑問には理由がある。


答えがわからない子どもは、必ずしも文章を理解していないわけではない。


文章を理解したうえで、必要な情報が足りないと判断している場合だってある。


だったら、そこを区別しろよ。


私はそう思った。


3 「使者が来る」を「死者が来る」と書いた話


私自身にも、学校の国語で忘れられない経験がある。


「ししゃがくる」


これを漢字で書きなさい、という問題だった。


正解は「使者が来る」。


ところが、私は「使者」の漢字を忘れてしまった。


そこで、冗談で別の漢字を書いた。


「死者が来る」


どうだ。


いきなり怪談になったじゃないか。


私は、ちょっと面白いと思ったのである。


もちろん、指定された漢字としては不正解だ。


それはわかっている。


しかし、日本語としては成立している。


死者が来る。


なかなか恐ろしい文章ではないか。


ところが、先生はものすごく怒った。


そんなことを書くな、というようなことを言われた。


そのうえ、私は「宇宙人」とまで呼ばれ、しばらくそういう扱いを受けた。


私は思った。


おい。


冗談くらいわかれよ。


別に、私が本当に死者を呼び出したわけじゃないだろう。


漢字を忘れたから、同じ読み方の別の漢字を書いただけじゃないか。


しかも、ちゃんと意味の通る文章になっている。


だったら笑ってくれたっていいだろう。


「使者と死者じゃ意味が違うぞ」


そう言えば済む話である。


むしろ、同音異義語の勉強になるじゃないか。


「ししゃ」という音には、いくつもの漢字がある。


使者、死者、試写。


同じ読み方でも意味は違う。


そういう日本語の面白さを教えることだってできるだろう。


ところが、教師の想定と違う答えを書くと、怒られる。


子どもが冗談を言うことさえ許されない。


私は、こういうところが嫌いだった。


国語というのは、言葉の面白さを学ぶ教科じゃないのか?


文章を書くことを楽しんだり、違う言葉を使ってみたり、面白い表現を考えたりするのも、立派な国語の学習だろう。


それなのに、先生の考えたとおりに答えなければ怒られる。


それでは言葉が嫌いになる子だっているんじゃないか。


私は、本を読むのも作文を書くのも好きだった。


だから国語という教科が嫌いでも、文章を書くことまでは嫌いにならなかった。


しかし、ほかの子どもたちはどうだったんだろう。


国語の授業で間違いを指摘され続けて、文章を書くことまで嫌いになってしまった子はいなかったのだろうか。


私は、そちらの方が気になる。


4 書き順って、そんなに大事なのか?


私が子どもの頃も、そして私の子どもたちが学校に通っていた頃も、漢字の書き順にはずいぶん細かかった。


書き順が違うとバツをもらうことがあった。


私は、これにも腹を立てていた。


確かに、書き順には意味がある。


筆を使って文字を書くとき、一定の順番で書く方が整った文字になりやすい。


手書きの練習をするうえでも、覚えておいて損はないだろう。


しかし、私は聞きたい。


書き順が違ったら、その漢字は別の漢字になるのか?


正しく読めて、意味を理解していて、形も正しく書けている。


それでも、書き順が違うからバツ。


何の能力を測っているんだ、それは。


もし書き順を覚えているかどうかを確認するテストなら、書き順を採点すればいい。


しかし、漢字を読んだり書いたりできるかどうかを調べる問題なら、文字が正しく書けているかを評価すべきだろう。


そこを混同してはいけないと思う。


それに、世の中には字の汚い大人だっている。


医者の字なんて、読みづらいことで知られているじゃないか。


もちろん、医療の現場で読めない文字を書かれたら困る。


必要な情報が正確に伝わることは重要である。


しかし、それと書き順が美しいかどうかは、また別の問題だ。


私は、文字というものは情報を伝えるための道具だと思っている。


文字を美しく書くことに価値を感じる人もいる。


書道は芸術でもある。


それはそれで素晴らしい。


しかし、国語の勉強をする子ども全員に、書道家のような能力を要求する必要があるのか。


それよりも、読みやすい文字を書けるようにすること。


自分の考えを、相手に伝わる文章にすること。


そちらの方が重要じゃないか。


私は以前から、書き順の採点について行政にも文句を言ってきた。


子どもが漢字を知っていることと、書き順を覚えていることは違う。


だったら、別々に評価すればいい。


それだけのことなのに、なぜこんなに難しいんだろう。


5 習っていない漢字を書いたらバツ?


さらにおかしいと思ったのが、習っていない漢字の扱いである。


私の子どもたちの時代には、まだ学校で教わっていない漢字を使うと、問題にされることがあった。


私は、これが理解できなかった。


例えば、小学1年生の子どもが、学校ではまだ習っていない難しい漢字を自分で覚えたとする。


本を読んで覚えたのかもしれない。


親に教わったのかもしれない。


ゲームに出てきたのかもしれない。


あるいは、テレビで見て興味を持ったのかもしれない。


理由は何でもいい。


その子は、自分で学んだのだ。


だったら、どうして褒めてやらないんだ?


「まだ習っていないから使ってはいけません」


そんなことを言われたら、子どもはどう思うだろう。


え?


せっかく覚えたのに?


使っちゃダメなの?


私は思う。


そんなこと言ってるから、勉強がつまらなくなるんじゃないのか。


もちろん、学年ごとに教える漢字を決めることには意味がある。


教科書を作るときにも、一定の順番が必要だろう。


しかし、それは学校が教える順番であって、子どもが学んでいい範囲を制限するものではないはずだ。


子どもの能力は一人ひとり違う。


小学1年生でも、難しい本を読める子がいる。


逆に、ひらがなを覚えるのに時間がかかる子もいる。


それでいいじゃないか。


同じ年齢だからといって、全員が同じ速度で学習するわけではない。


早く覚えた子には、もっと先を学ぶ機会を与えればいい。


時間がかかる子には、その子に合った方法で教えればいい。


それなのに、全員を同じ進度にそろえようとする。


何なんだ、その教育は。


私が学校でそういう扱いについて尋ねたとき、先生からは文部省の決まりだから仕方がないという趣旨の説明を受けたこともある。


私は、それなら制度の方を変えればいいと思った。


実際に、文部省にもいろいろ文句を言った。


後に指導の考え方が変わっていったことも知っている。


ただし、それが私の意見によって変わったのかどうかは、別に確認が必要だろう。


いずれにしても、私が言いたいことは変わらない。


子どもが自分から勉強しているのに、どうして大人が邪魔するんだよ。


それだけの話である。


6 頭のいい子ほど、余計なことを考える


ここで、一つ面白い話をしたい。


子どもの頭がいいというのは、必ずしも学校のテストで満点を取るという意味ではない。


私は、頭のいい子ほど、問題を複雑に考えてしまう場合があると思っている。


例えば、先ほどのクマと種の問題。


普通に物語の展開を受け取れば、「春になったから花が咲いた」と答えるかもしれない。


ところが、別の子どもは考える。


「春になったなんて、どこに書いてあるの?」


「種を落としてから、何日たったの?」


「どうして急に花が咲いたの?」


こういう疑問が出てくる。


そして答えがわからなくなる。


これは、単なる読解力不足なのだろうか。


私は、そうとは限らないと思う。


問題を解くときに、文章に書かれている情報だけを使おうとする。


書かれていないことは勝手に決めつけない。


それは、本来なら大切な考え方ではないか。


例えば、科学の研究で同じことをしたらどうだろう。


実験結果には書かれていないことを、研究者が勝手に補って結論を出した。


そんなことをしたら困るだろう。


政治でも経済でも同じだ。


数字を調べずに、何となくこうだろうと決めつけたら、間違った政策を作る可能性がある。


ところが、国語では物語の流れから「きっとこうだろう」と推測することが求められる場合がある。


もちろん、文脈から推測する力も重要である。


しかし、それなら何を根拠に推測したのかを確認すればいい。


文章に書かれている事実と、自分が推測したことを区別する。


これは、大人になってからも必要な能力だ。


私は、国語こそ、そういう考え方を教えた方がいいと思う。


ところが、模範解答と違っているとバツ。


それでは、考えた子どもの方が損をする。


おい。


本末転倒だろう。


7 『野の馬』を読んで思ったこと


私は昔、『野の馬』という小説を読んだことがある。


物語の中では、現実には起こりそうもない出来事が描かれていた。


子どもの想像力や、現実とは違う世界を感じさせるような作品だった。


私は、その作品を読んで、特に不思議には思わなかった。


「ああ、こういうことを表現したいんだな」


そう受け取ったのである。


もちろん、現実の出来事として考えれば、おかしな話ではある。


主人公が本当にそんな経験をしたと言われたら、別の解釈もできるだろう。


しかし、これは小説である。


作者が何を表現しようとしているのかを考える必要がある。


私は、そういうことも理解していた。


ところが、周囲には頭がいいと言われていた子どもたちもいて、彼らは別の感想を言っていた。


「こいつ、妄想癖があるんじゃないの?」


というようなものである。


私は、そこで思った。


なるほどね。面白い。


そういう解釈もできるわけだ。


現実の人間だったら、そのように判断する人がいても不思議ではない。


しかし、作者が物語で表現しようとしていることは、それだけではないだろう。


ここで重要なのは、周囲の子どもたちも、作者や出題者が何を求めているかは理解していたということである。


彼らは、テストになれば、それに合った答えを書く。


模範解答に近い文章を書く。


だから丸をもらう。


本音では違うことを考えていても、テストでは出題者が求めている答えを書くのである。


私は、それを見て思った。


なんでそんなに機嫌を取っているんだ?


いや、作者が何を言いたいのかはわかるよ。


出題者がどう答えてほしいのかも、だいたいわかる。


しかし、自分は違う考えを持っている。


だったら、それを書いてもいいじゃないか。


ところが、違うことを書くとバツになる。


これでは、国語のテストというのは何なのだろう。


文章を理解する能力を測っているのか。


それとも、出題者の期待する答えを推測する能力を測っているのか。


私は、そこが昔から疑問だった。


8 作者の考えを理解することと、賛成することは違う


例えば、ある小説家が「自己犠牲は美しい」という物語を書いたとしよう。


主人公は自分を犠牲にして他人を助ける。


読者は感動する。


作者は、その行為を美しいものとして描いた。


ここまではいい。


私は、その意図を理解できる。


しかし、だからといって、私自身が自己犠牲を美しいと思う必要はないだろう。


私はむしろ、こう考えるかもしれない。


「なんで主人公だけが犠牲にならなきゃいけないんだ?」


「ほかに助ける方法はなかったのか?」


「みんなが助かる方法を考えた方がいいんじゃないか?」


これだって、立派な感想である。


作者の意図がわからないわけではない。


作者の意図を理解したうえで、違う結論を出しているのだ。


それなのに、学校で「作者は何を伝えたかったでしょう」と聞かれているときに、自分の反論だけを書けばバツになる。


それは、設問に答えていないからだ。


そこまでは理解できる。


しかし、だったら、設問を分ければいいじゃないか。


最初に、作者が何を表現しようとしているのかを答えさせる。


次に、その考えについて自分はどう思うかを書かせる。


さらに、別の解決方法があると思うなら、それを提案させてもいい。


これなら、理解力も批判的思考力も、文章力も評価できる。


私は、そういう国語教育があってもいいと思う。


ところが、私の受けてきた教育では、先生が期待する答えを書くことが重視されていたように感じた。


だから、私は国語が嫌いだった。


わかっていることと、納得していることは違う。


これを区別できない教育は、おかしいと思う。


9 作文がうまくても、賞を取れるとは限らない


私は、作文を書くのが得意だった。


周囲から文章がうまいと言われることもあった。


しかし、だからといって、作文の賞を次々にもらっていたわけではない。


私には、評価されやすい文章の書き方がわかっていた。


先生が感心しそうなことを書く。


道徳的な結論にする。


みんなと仲良くしましょう。


努力することは大切です。


先生の教えは正しかったです。


そういう文章である。


しかし、私はそんなことばかり書きたくなかった。


だって、現実には納得できないことがたくさんあったのだから。


努力したからといって、必ず報われるわけではない。


いい子にしていれば、必ず周囲から好かれるわけでもない。


先生が正しいとは限らない。


大人が間違えることだってある。


だったら、それを書いてもいいじゃないか。


私はそう思っていた。


昔、自分の書いた文章の独特な着眼点が、後になって注目されたと知ったこともある。


しかし、学校で評価されやすい文章と、独創的な文章は必ずしも一致しない。


私が問題にしているのは、そこなのだ。


例えば、ある子どもが作文にこう書いたとする。


「先生の言うことは間違っていると思います」


そして、なぜ間違っていると思うのかを、具体例を挙げて説明した。


論理も通っている。


文章もわかりやすい。


それなら、その作文は評価されるべきではないか。


先生への賛辞が書いていなくてもいい。


道徳的な結論になっていなくてもいい。


重要なのは、何を考え、どう説明したかだろう。


私は、作文にはもっと自由があっていいと思っている。


小説だって同じだ。


作者の考え方が読者と違っていてもいい。


登場人物が間違ったことをしてもいい。


その結果、何が起きるのかを描けばいい。


それが文学の面白さではないか。


それなのに、学校で道徳的な模範解答ばかり求めていたら、子どもは本音を書かなくなるかもしれない。


私は、それが非常にもったいないと思う。


10 子どもの知能を過小評価していないか?


私は、教育者が子どもの能力を過小評価している場合があると思う。


子どもだから、簡単なことしか考えられない。


子どもだから、大人の言うことを素直に信じる。


子どもだから、複雑な問題は理解できない。


そんな前提で教材を作ってはいないだろうか。


もちろん、子どもの発達には個人差がある。


難しい文章を読むのが苦手な子どももいる。


言葉の意味を理解するのに時間がかかる子どももいる。


だから、やさしい言葉で説明することには意味がある。


しかし、やさしく説明することと、子どもをバカだと思って扱うことは違う。


私は、そこを混同してはいけないと思う。


例えば、簡単な漢字しか習っていない子どもでも、物語の複雑な人間関係を理解できることがある。


大人の言葉の矛盾に気づくこともある。


先生の説明が論理的におかしいと思うこともある。


ところが、それを言うと、反抗的な子どもだと思われる。


あるいは、変わった子どもだと思われる。


私は、自分自身の経験からも、そういうことがあると思っている。


何度も言うが、私は先生の求める答えが理解できなかったわけではない。


理解したうえで、それとは違うことを考えていた。


それを評価する仕組みが十分ではなかった。


もちろん、すべての先生がそうだったわけではないだろう。


子どもの独創的な発想を歓迎する先生もいる。


今でも、工夫した授業をしている先生はたくさんいると思う。


しかし、教育制度そのものが模範解答への一致ばかり評価するなら、個々の先生が努力しても限界がある。


だったら、制度を変えればいい。


11 どういう国語教育にすればいいのか


私は、国語教育には少なくとも五つの能力があると思っている。


第一に、文字を読んで意味を理解する能力。


第二に、文章に書かれている事実を正確に把握する能力。


第三に、書かれていないことを推測し、その根拠を説明する能力。


第四に、作者の考えを理解したうえで、自分なりに分析し、答える能力。


第五に、自分の考えを文章にして、他人に伝える能力。


これらは互いに関係しているけれど、まったく同じ能力ではない。


だったら、テストでも区別して評価すればいい。


例えば、物語を読ませる。


まず「この文章には何が書いてありますか」と聞く。


次に「主人公はどう考えていたと思いますか」と聞く。


そして「そう考えた理由を、文章のどこから読み取りましたか」と聞く。


最後に「あなたならどうしますか」と聞けばいい。


これなら、文章の理解と、自分の意見を区別できる。


さらに、作者の考えに反対する子どもがいたら、その理由を聞けばいい。


「どうしてそう思ったの?」


そこから議論が始まる。


私は、そういう授業の方が面白いと思う。


子どもが十人いれば、十通りの考えが出てくるかもしれない。


もちろん、根拠のない答えを全部正解にする必要はない。


文章に書かれていることと矛盾していたら、その点は指摘すればいい。


推測に根拠がなければ、どうしてそう考えたのか確認すればいい。


ただし、論理が通っていて、文章に根拠があるのなら、模範解答とは違う意見も評価するべきだ。


そして、採点方法も変えればいい。


できたところには点を与える。


考え方が正しければ、その部分を評価する。


答えが違ったとしても、どこまで理解できているのか確認する。


私は、そういう加点式の教育をもっと増やすべきだと思っている。


それなら、子どもも自分の得意なことや苦手なことを理解できる。


先生も、その子が何に困っているのかわかる。


ただバツをつけるだけの採点より、よほど教育的ではないか。


12 学校の正解と、人生の正解は違う


私は、学校という場所について、もう一つ大きな疑問を持っている。


学校では、先生が正解を知っている。


子どもは、その正解を覚える。


テストでは、正解を書けば丸をもらえる。


しかし、人生はそうなっていない。


社会に出たら、誰も正解を知らない問題が山ほどある。


どうすれば貧困がなくなるのか。


どうすればいじめを減らせるのか。


どうすれば戦争を防げるのか。


どうすれば人間がもっと幸せに暮らせるのか。


そんな問題には、最初から模範解答が用意されているわけではない。


だから、いろいろな方法を考える。


試してみる。


結果を調べる。


うまくいかなければ、別の方法を考える。


私は、それが本当の意味で問題を解くということだと思っている。


ところが、学校ではどうだろう。


子どもが模範解答と違う答えを書く。


先生がバツをつける。


子どもは「自分が間違っていた」と思う。


そして、次からは先生が望む答えを書くようになる。


酷い時は問題に答えを出さず、服従せよと習う。


それを繰り返しているうちに、正解を探すことは得意でも、自分で問題を解決する方法を考えることが苦手になってしまう子はいないだろうか。


私は、それが心配なのである。


もちろん、基礎知識を覚えることは必要だ。


漢字を覚えることも、文章の意味を理解することも大切だ。


しかし、そこで教育を終わらせてはいけない。


覚えた知識を使って、何ができるのか。


違う知識と組み合わせたら、何がわかるのか。


今まで誰も考えていなかった方法を思いつけるか。


私は、そういう能力こそ育ててほしい。


そのためにも、子どもが模範解答から外れたときに、すぐバツをつけるだけではいけないと思う。


場合によっては、その答えの方が面白いことだってある。


私が「死者が来る」と書いたように。


ちょっとした冗談かもしれない。


しかし、言葉を面白がる能力だって大切だろう。


それを全部否定して、何が国語教育だ。


13 「いい子になりなさい」という教育の矛盾


さて、ここまで国語教育について書いてきたが、私はもっと根本的な問題があると思っている。


それは「いい子になりなさい」という教育である。


私が子どもの頃、学校では真面目にしなさい、先生の言うことを聞きなさい、ルールを守りなさいと言われていた。


しかし、実際の教室ではどうだったか。


先生の言うことを聞いていると、同級生から「いい子ぶっている」と思われることがあった。


真面目にしていると、調子に乗っていると言われたりする。


反対に、先生に反抗したり、少し悪ぶったりする子が、かっこいいとされることもあった。


何なんだ、この矛盾は。


先生の言うことを聞けば、友達から嫌われる。


友達に合わせれば、先生から叱られる。


じゃあ、どうすりゃいいんだよ。


学校で教えている道徳と、実際の子ども社会のルールが違うのである。


私は、こういう矛盾を放置してはいけないと思う。


子どもに「いい子になりなさい」と言うだけでは、現実の人間関係に対応できない。


正しいことをしたつもりなのに、周囲から嫌われる場合だってある。


友達をかばったことで、自分がいじめられる場合だってある。


先生に本当のことを話したために、同級生から裏切り者扱いされることも考えられる。


だったら、そういうときにどうすればいいのかを教えるべきだろう。


「いい子にしていれば、みんなから好かれます」


そんな単純な話ではないのだから。


私は、道徳の授業でこそ、現実の矛盾を取り上げてほしい。


どうして、正しいことをした人が嫌われることがあるのか。


なぜ、人間は周囲に合わせようとするのか。


なぜ、誰か一人を悪者にしてしまうのか。


そして、そういう状況になったとき、どうやって自分や友達を守ればいいのか。


そこまで考えさせることが、本当の教育ではないか。


14 子どもに考える自由を返してやれ


私は、子どもに好き勝手なことをさせろと言っているわけではない。


必要な知識は教えればいい。


間違っていたら、間違っていると説明すればいい。


他人を傷つけたら、どうしていけないのかを教えればいい。


ただし、考え方まで大人の都合に合わせさせる必要はないと思っている。


子どもが疑問を持ったなら、話を聞けばいい。


大人と違う答えを出したなら、どうしてそう考えたのか聞けばいい。


先生の説明に納得できないなら、議論すればいい。


それで先生が自分の間違いに気づいたなら、訂正すればいい。


大人だって間違える。


教科書だって完璧ではない。


問題を作った人だって間違える。


そんな当たり前のことを、どうして子どもに認めてやれないんだろう。


私は思う。


子どもは、大人に褒められるためだけに勉強しているわけではない。


新しいことを知りたい。


面白いことを考えたい。


自分の力で何かを理解したい。


そういう気持ちを持っている子どももいる。


だったら、その気持ちを大切にしてやればいい。


私は、本を読むのが好きだった。


作文を書くのも好きだった。


だから、国語の授業が嫌いでも、文章を書くことをやめなかった。


しかし、もし学校での評価をそのまま信じて、自分の考え方が間違っているのだと思い込んでいたら、どうなっていただろう。


今のように小説やエッセイを書いていただろうか。


私は、子どもたちにそんな思いをさせたくない。


勉強は、本来面白いものだと思う。


自分の知らなかったことがわかる。


昨日まで解けなかった問題が解ける。


ほかの人の考え方を知る。


そこから、自分なりの答えを考える。


それが楽しいのだ。


なのに、学校のルールや採点方法が、その楽しさを奪ってしまったらどうするんだ。


私は最後に、教育者にこう言いたい。


子どもが間違えたと思ったら、まず、その子が何を考えたのか聞いてみろ。


模範解答と違うからといって、その子が何も理解していないと決めつけるな。


自分が作った問題の方に欠陥がある可能性も考えろ。


そして、子どもが自分から学ぼうとしているなら、邪魔をするな。


習っていない漢字を覚えたなら、褒めてやればいい。


面白い文章を書いたなら、面白いと言ってやればいい。


先生と違う意見を持っているなら、その理由を聞いてやればいい。


私は、そんな教育の方がずっと面白いと思う。


しかし、ここでさらに大きな問題がある。


国語のテストでは、先生の期待する答えを書かないとバツになる。


学校生活では、先生の言うことを聞かないと叱られる。


ところが、同級生の間では、いい子にしていると嫌われることがある。


子どもは、いったい誰の期待に応えて生きればいいのか。


そして、その矛盾に耐えられなくなった子どもは、どうなるのか。


私は、この問題がいじめや不登校にも関係していると思っている。


子どもに我慢させる前に、大人が学校という環境を見直す必要があるのではないか。


子どもを教育する前に、大人の方が勉強し直した方がいいんじゃないのか。


私はそう思う。


⸻


次回・第3話「いじめ、不登校、そしてSNS監視社会――いい子を強制する社会の矛盾」へ続く。

やべーあと1話!私が寝ないと皆んなが倒れるよね。

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