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天才パンダのエッセイ※本物のミステリー!ゲームと脳科学 楽しい経済学  作者: ヘタレパンダ


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第1話 日本の子育ては荒行か!

第1話 日本の子育ては荒行か!


――親も子どもも、いつまで我慢大会をやらされるのか


日本の子育てというのは、いったいいつから修行になったんだろう。


それも普通の修行じゃない。


荒行である。


修行僧が滝に打たれて、どれだけ苦痛に耐えられるかを試されるようなものだ。


母親は子どものために我慢しなさい。


疲れていても頑張りなさい。


子どもが泣いたら、すぐにあやしなさい。


ご飯はちゃんと作りなさい。


家事もしなさい。


子どもを静かにさせなさい。


自分の楽しみは後回しにしなさい。


おい、ちょっと待て。


何のために子どもを産んだんだよ。


幸せになるためじゃないのか。


家族で楽しく暮らすためじゃないのか。


どうして子どもが生まれた途端に、母親が修行僧にならなきゃいけないんだ。


しかも、最悪なことに、修行を強いられるのは母親だけではない。


子どもまで一緒に修行させられるのである。


いい子になりなさい。


お行儀よくしなさい。


静かにしなさい。


怒ってはいけません。


友達と仲良くしなさい。


譲り合いなさい。


挨拶しなさい。


もう、うるせえよ。


私は昔から、こういう教育に疑問を持っていた。


もちろん、子どもに社会のルールを教えることが悪いと言っているわけではない。


しかし、ルールを守らせることばかり考えて、親も子どもも幸せじゃなくなっているとしたら、それは何かがおかしいだろう。


私は、そのおかしさを、自分の子育てを通して何度も経験してきた。


1 疲れたから保育園に預けたい。それがなぜ悪い?


私が子育てをしていた頃、保育園に子どもを預けるのは簡単なことではなかった。


仕事をしているとか、病気だとか、そういう特別な理由が必要だったのである。


私は、子育てに疲れたとき、保育園で少し預かってもらいたいと思った。


映画を見に行きたいと思ったこともある。


だから聞いてみた。


「疲れているので、子どもを預かってもらえませんか?」


すると、どう言われたか。


「そんな理由では預かれません」


病気などの理由なら預かれるけれど、疲れたとか、映画を見たいとか、そういう理由ではダメなのだと言われた。


私は思った。


お前、何言ってんだ?


疲れているから預けたいんだろうが。


疲れ切ってから病気になるのを待てっていうのか。


そもそも、映画を見ることがどうして悪いんだ。


親になったら映画も見ちゃいけないのか。


子どもが生まれたら、一人で買い物に行ったり、好きな本を読んだり、のんびりお茶を飲んだりする時間を持ってはいけないのか。


私はそうは思わない。


母親だって人間だ。


娯楽も必要だし、休息も必要だし、たまには子どもから離れて、自分一人の時間を楽しみたいことだってある。


それを認めないのは、いったい何のためなんだ。


昔の制度がどうしてそうなっていたのかはわかる。


保育所の数も、保育士も、十分ではなかったのだろう。


働かなければ生活できない家庭や、病気で子どもの世話が難しい家庭を優先する必要もあったのだろう。


しかし、それなら問題は保育サービスの不足であって、母親が休みたいと思うことではない。


足りないなら増やせばいい。


どうして「我慢してください」で問題を終わらせるんだよ。


私は以前から、こういう考え方が嫌いだった。


問題がある。


それを解決する方法を考える。


本来なら、それが人間のすることだろう。


ところが、日本では問題があると、なぜか「我慢しなさい」という答えが出てくることが多い。


我慢すれば解決する問題もあるだろう。


しかし、我慢しているだけでは何も解決しない問題だって山ほどある。


子育ての疲労なんて、その典型ではないか。


2 月10時間じゃ足りない。20時間にしたらどうだ?


現在は、昔に比べれば保育サービスの考え方も変わってきた。


保護者のリフレッシュを目的とした一時預かりもあるし、2026年には「こども誰でも通園制度」が全国で始まった。


保護者が働いているかどうかに関係なく、一定の条件の下で子どもが保育施設を利用できる制度である。


これは前進だと思う。


しかし、だからといって十分とは限らない。


こども誰でも通園制度の利用時間は、原則として月10時間という枠が設けられている。


私は、20時間程度に増やすことも考えた方がいいと思う。


月20時間なら、週に約5時間である。


5時間あれば、映画を1本見て、買い物をして、少し休んで帰ってくることもできる。


あるいは、その時間を全部睡眠に使ってもいい。


誰かとお茶を飲んでもいい。


美容院に行ってもいい。


何もしないで、ソファに寝っ転がっていてもいい。


それでいいじゃないか。


なんで、いちいち理由を説明しなきゃいけないんだ。


もちろん、制度を拡充するには保育士の確保や予算が必要である。


希望する人がどれくらいいるのか、どの年齢の子に必要なのか、地域ごとの受け入れ能力はどうなのか。


そういうデータを取ればいい。


必要なら自治体ごとに試験的に時間を増やして、保護者の満足度や子どもの様子、保育現場の負担を調べればいい。


それで問題が見つかったら改善すればいい。


私は、制度というのはそうやって作るものだと思っている。


それなのに、なぜ最初から「親なんだから我慢しなさい」という結論になるんだろう。


しかも、親が疲れていることは、子どもにだって関係する。


疲れ切って、眠くて、イライラしている親に育てられるのと、十分休んで気持ちに余裕のある親に育てられるのとでは、子どもとの接し方も変わる可能性がある。


1番良くないのは、育児を手伝う気のない夫、単身赴任の夫のどちらか。育児を手伝う気のない義理親、親、或いは親も義理親も遠くに住んでいる。或いは何故か母親が子育てを完璧にこなそうとする?褒められたい欲望を持つ嘘吐きの私頑張ってる母親アピールする馬鹿女である。


私頑張ってるアピール女は綺麗に片付いた子供部屋の写真をSNSに掲載して。子供の面倒そっちのけ?或いは睡眠時間を削って。部屋散らかってます。だめな母親です。もっと頑張らないとと文章を添える。


本人は褒めて欲しくて謙遜してるのだろうけれど。この写真を見た他の母親の心理?頭が悪すぎて想像できないだろうか?単純な人間は本気に受け取り、私ももっと頑張ろうと自分を追い込む。


親が休めるようにすることも、立派な子育て支援なのだが。綺麗に片付いている一瞬の写真をSNSに載せてイイねを稼ぎたいだけの承認欲求しかない馬鹿女に騙されて自分を責める女。そしてそんな余裕のない女に育てられる子供の心理をあなたは想像できないだろうか?


私はそう思う。


3 姑は孫を抱っこしてはいけないのか?


私には、子育てをしていた頃の忘れられない経験がある。


姑のことである。


私の子どもが泣いていた。


ところが、姑は抱っこしてくれない。


「ほら、泣いてるよ」


「お母さんが抱っこしてあげなきゃ」


そう言うのである。


私は疲れていた。


体力だって、そんなにある方ではない。


だから、できれば少し抱っこしてほしかった。


ところが、姑は抱っこしようとしない。


私はしばらく様子を見ていた。


いつになったら抱っこしてくれるんだろう。


そう思って、5分くらい待った。


それでも抱っこしてくれない。


結局、私が抱っこした。


私は言われた悪い母親と。


私は思った。


ああ、この人たちは、あまり面倒を見る気がないのかな。


ところが、ここで不思議なことがある。


姑は、自分の娘の子どもは散々抱っこしていたのである。


じゃあ、どうして私の子どもは抱っこしないんだ?


そう思って理由を聞いたことがある。


すると、


「悪いかなと思って」


という返事だった。


本当に遠慮していたのかもしれない。


それとも、面倒だったのかもしれない。


私の生んだ子が気に入らないのだろうか?


そこは本人にしかわからない。


しかし、私は思った。


だったら、一言聞けばいいじゃないか。


「抱っこしてもいい?」


それだけで済む話だろう。


私は喜んでお願いしたと思う。


ここで、最近のネットに見られる嫁姑論を思い出す。


姑は嫁に口を出すな。


手を出すな。


孫にも勝手に触るな。


しかし、お金は出せ。


そんな極端な理想の姑像を語る人がいる。


私は以前、ネットで「いい姑とは、嫁に月5万円のお小遣いを渡し、欲しいものは何でも買ってあげて、口も手も出さない人だ」というような話を見たことがある。


おいおい。


それ、姑じゃなくてスポンサーじゃねえか。


そんなに都合のいい人間が、どこにいるんだよ。


もちろん、姑に過剰に干渉されて困っている嫁もいるだろう。


勝手に子どもを抱っこされたくない親だっている。


それは尊重すればいい。


しかし、逆に手伝ってほしい親だっているんだよ。


私がそうだった。


なぜ、その違いを考えないんだ。


相手の希望を聞けば済む話じゃないか。


「抱っこしてもいい?」


「少し見ていようか?」


「疲れているなら休んでいていいよ」


その程度の会話で解決できることもある。


それなのに、嫁と姑を最初から敵同士にしてしまう。


そんな考え方を広めて、いったい誰が幸せになるんだろう。


私は、嫁姑問題を扱ったドラマや漫画にも、昔から疑問を持っていた。


特に、何かというと姑を悪者にして、嫁をかわいそうな被害者として描くような話である。


現実には、どちらが悪い場合もあるし、両方に問題がある場合もある。


単なる誤解である場合もある。


それなのに、最初から「姑は敵」と決めつけていたら、うまくいく関係まで壊してしまう可能性がある。


まあ義母が口の中で噛んだ肉じゃがを生後10ヶ月の娘の口の中に押し込まれた時は嫌な顔はしたが。それは流石に酷いと思う。


そもそも、家族というのは、お互いに助け合うためにあるんじゃないのか。


お金だけ出せ。


でも口を出すな。


孫にも触るな。


そんなものを理想的な人間関係と呼ぶなら、私はごめんだね。


4 夫がゴミを捨てると、なぜ褒められる?


もう一つ、昔から腹が立っていたことがある。


家事の分担である。


母親がご飯を作るのは当たり前。


洗濯するのも当たり前。


掃除するのも当たり前。


子どもの面倒を見るのも当たり前。


ところが、父親がゴミを捨てると、どうなるか。


「家事を手伝ってくれる優しい旦那さんですね」


なんて言われることがある。


おい、待て。


それ、お前の家のゴミだろ。


何を手伝ってるんだよ。


自分の家のことだろうが。


もちろん、ゴミ捨てだって立派な家事である。


お風呂を洗ってくれたら、ありがたい。


私は、やってくれたことに感謝するのが嫌だと言っているわけではない。


ただし、母親には「やって当たり前」と言い、父親には「やってくれてありがとう」という社会の評価の違いがおかしいと言っているのだ。


私の夫は、今では風呂掃除もほとんど手伝ってくれない。


料理についても、なかなか注文が多い。


私がしゃぶしゃぶを作ると、「またしゃぶしゃぶ?」と言うことがある。


カレーを作っても、翌日に同じカレーを食べたがらない。


四人前作ったのに、食べないと言われたら困るのは私である。


おい。


じゃあ、どうしろっていうんだ。


毎日違う献立を考えて、食材を買って、調理して、片づけて。


それを全部やる人間の負担を、少しは考えろよ。


料理は、単に包丁を持って鍋をかき回す作業ではない。


何を作るか考えるところから始まっている。


家族の好みを考え、栄養を考え、予算を考え、冷蔵庫の中身を確認して、買い物をして、調理する。


それだけの仕事をしている人に対して、出てきた料理に文句を言うのは簡単だ。


だったら、自分で作ってみればいい。


もちろん、家庭ごとに事情は違う。


仕事の時間も、体力も、得意なことも違う。


必ず家事を半分ずつにしろと言っているわけではない。


しかし、少なくとも、お互いが何をしているのか理解して、それぞれの負担を考える必要はあるだろう。


私は、家庭の問題も合理的に解決すればいいと思っている。


忙しい人がいるなら、時間に余裕のある人が手伝う。


料理が苦手なら、別の家事を担当する。


疲れているなら、買ってきた惣菜でもいい。


毎日手料理でなければならないという法律でもあるのか。


そんなものはない。


だったら、もっと楽に暮らせる方法を考えればいいじゃないか。


5 親だけでなく、子どもも修行僧になっている


そして、ここからが私の一番言いたいことである。


大人が子育てという荒行を強いられているなら、子どもはどうなのか。


子どもも同じように我慢を強いられている。


生まれて間もない頃から、静かにしなさい、お行儀よくしなさい、いい子になりなさいと言われる。


食事をするときも静かに。


電車に乗るときも静かに。


人が集まる場所でも静かに。


泣くな。


騒ぐな。


走るな。


何なんだ、その生活は。


子どもは遊びたいんだよ。


笑いたいんだよ。


嬉しかったら大声を出したいし、面白かったら飛び跳ねたいんだよ。


大人だってそうじゃないか。


カラオケに行って、好きな歌を思いっきり歌う。


スポーツ観戦で、大声を出して応援する。


遊園地でジェットコースターに乗って叫ぶ。


好きな芸能人のライブに行って歓声を上げる。


そんなことをして、気分がすっきりした経験のある人は多いだろう。


それなのに、子どもには「静かにしなさい」と言い続ける。


どうしてなんだ。


もちろん、いつでもどこでも騒いでいいという話ではない。


病院には具合の悪い人がいる。


葬儀には静かに故人を偲びたい人がいる。


電車にも、疲れて眠っている人がいるかもしれない。


そういう場所で周囲に配慮する必要はある。


しかし、だからといって、子どもが元気に遊ぶこと自体を悪いことにしてはいけない。


大事なのは、場所や状況によって行動を変えることを教えることだ。


「静かにする子はいい子です」と決めつけることではない。


静かな子が悪いわけでもない。


静かに過ごすことが好きな子もいる。


しかし、子どもが怖がって感情を押し殺しているなら、周囲の大人はその状態を褒める前に、何が起きているのか考えた方がいい。


大人にとって扱いやすい子どもが、必ずしも幸せな子どもとは限らない。


私はそう思っている。


6 うちの子どもがお行儀よかった理由


私は以前、息子と娘を葬儀に連れて行ったことがある。


すると、周囲の人から褒められた。


「まあ、なんて静かでお行儀のいい子たちなの」


私は、ちょっと笑ってしまった。


なぜなら、二人ともずっと3DSでゲームをしていたからである。


何のことはない。


子どもたちはゲームに夢中になっていただけなのだ。


退屈しない。


だから騒がない。


周囲の人も困らない。


それでいいじゃないか。


私は、この出来事が教育の本質を表していると思っている。


子どもに「静かにしなさい」と何十回も注意する。


言うことを聞かなければ叱る。


それを繰り返すより、子どもが静かに過ごせる方法を用意してやった方が簡単な場合もある。


私はゲームを利用した。


今ならiPadを利用する親も多いだろう。


しかし、ここで一つ考えてほしいことがある。


画面を使って自分で考えながら遊ぶことと、動画を延々と見続けることは同じではない。


例えばゲームなら、自分で判断して操作する。


うまくいかなければ別の方法を考える。


パズルなら、どうすれば解けるのか考える。


お絵描きなら、自分の頭の中にあるものを形にできる。


もちろん、動画にも学べることはある。


動物の生態を知ったり、料理の作り方を覚えたり、楽器の演奏を見たりするのもいい。


ただし、長時間ただ眺めているだけでなく、子どもが自分で何かをする機会も大切にしたい。


それに、どんなに面白いゲームでも、一日中そればかりというわけにはいかない。


身体を動かしたり、友達と遊んだり、親と会話したりする時間も必要だ。


結局、私が言いたいのは、子どもを無理やり静かにするのではなく、子ども自身が楽しく過ごせる方法を考えた方がいいということなのだ。


7 噛みついた子を叱る前に、原因を考えろ


子どもの行動について、私はもう一つ疑問を持っていた。


保育園などで、子どもが別の子に噛みつくことがある。


当然、噛まれた子は痛い。


怪我をしたら手当てが必要だ。


噛んではいけないことも教える必要がある。


しかし、そこで終わってしまっていいのか。


「噛んじゃダメ!」


それで原因がなくなるのか?


私は、そうは思わない。


小さい子どもは、自分の感情をうまく説明できないことがある。


嫌なことをされた。


おもちゃを取られた。


怖かった。


疲れていた。


うまく言葉にできなかった。


もちろん、噛みつく原因はそれだけではない。発達段階や感覚的な要因など、さまざまな事情が関係することもある。


だからこそ、原因を調べる必要がある。


噛まれた子が悪いと言っているわけではない。


噛んだ子を無条件に許せと言っているわけでもない。


ただ、何か問題が起きたときに、悪い子を決めて終わりにするのはおかしいと言っているのだ。


もし、おもちゃの取り合いが原因なら、おもちゃの使い方や順番を教える方法がある。


言葉で気持ちを伝えられないなら、大人が代わりに言葉にして教えてもいい。


疲れやストレスがたまっているなら、休息や遊びの時間を見直せばいい。


問題を解決する方法はいくらでも考えられる。


私は以前、テレビで、子どもが登園したときに親と一緒に5分間ほど鬼ごっこをする取り組みを見た記憶がある。


親子で走り回って、思い切り遊ぶのである。


その後、子どもが安心して落ち着くという内容だったと思う。


もちろん、私の記憶による紹介だから、実際の研究結果や具体的な効果については確認が必要だ。


しかし、私はその発想が面白いと思った。


子どもを静かにさせるために、最初に思いっきり遊ばせるのである。


普通なら逆を考えるんじゃないか。


走り回る子どもを静かにさせようとする。


ところが、最初に身体を動かして楽しく遊ぶ時間を用意している。


しかも、親も一緒に遊ぶ。


親子で笑って、楽しむ。


私は、こういう方法をもっと研究してもいいと思う。


ただし、朝の忙しい親に毎日鬼ごっこを義務づけてしまったら、それこそ新しい荒行になってしまう。


家庭の事情に合わせて、保育士が一緒に遊んでもいいだろう。


重要なのは5分という数字そのものではない。


子どもを叱る前に、子どもが落ち着いて生活できる環境を作るという発想である。


8 「怒っちゃいけない」という教育のおかしさ


私は、「怒っちゃいけません」という教育にも疑問を持っている。


人間なんだから、怒ることくらいあるだろう。


子どもだって、嫌なことをされたら腹が立つ。


大人だって腹が立つ。


私なんか、昔から腹が立つことだらけだった。


だからと言って、何でも暴力で解決していいわけではない。


怒るという感情と、人を傷つける行動は別だからだ。


だったら、教えるべきことは「怒っちゃいけません」ではなく、怒ったときにどうすればいいのか、ではないか。


嫌なことをされたら、嫌だと言う。


困ったら助けを求める。


言い争いになりそうなら、少し離れる。


相手が間違っていると思ったら、理由を説明する。


そういう方法を教えればいい。


それなのに、怒りという感情そのものを悪いことにしてしまう。


それでは、嫌なことをされても我慢するしかなくなってしまう子どもだって出てくる。


私は、怒りという感情には意味があると思っている。


理不尽なことをされた。


自分の大切なものを傷つけられた。


不公平な扱いを受けた。


そういうときに怒りを感じるのは自然なことだ。


大切なのは、その感情をどう扱うかである。


そして、大人は子どもが何に怒っているのかを知ろうとする必要がある。


子どもが反抗したら、すぐに「悪い子」だと決めつける。


それで教育をしているつもりになってはいないだろうか。


また、落ち着きがない、言うことを聞かないというだけで、安易に発達障害の名前を持ち出すことにも注意が必要だと思う。


ADHDなどの発達特性は実際に存在するし、適切な診断や支援が必要な子どももいる。


しかし、大人の命令に従わないというだけで、その子に障害があると決めつけていいわけではない。


なぜ言うことを聞きたくないのか。


何が嫌なのか。


何に困っているのか。


まず、そこを考えた方がいい。


子どもは、大人に従うためだけに生きているわけではないのだから。


9 苦労することを美徳にするな


日本では、子育てに苦労している母親を褒めることがある。


子どものために自分を犠牲にしている。


毎日頑張っている。


休まず働いている。


立派なお母さんですね。


もちろん、努力している人を褒めること自体は悪くない。


しかし、私は思う。


そんなに苦労しているなら、誰か助けてやれよ。


なんで褒めるだけなんだ。


例えば、一人で家事も育児も抱え込んで、疲れ切っている母親がいる。


その人に「本当に偉いですね」と言う。


それで終わり。


おい。


手伝ってやれよ。


保育サービスを増やしてやれよ。


休める時間を作ってやれよ。


私は、苦労している人を褒めるより、苦労しなくても済む方法を考える方が好きだ。


だって、その方が合理的じゃないか。


子育ての目的は、母親がどれだけ苦労したかを競うことではない。


父親がどれだけ働いたかを自慢することでもない。


子どもがどれだけ我慢できるかを試すことでもない。


家族が幸せに暮らすことである。


もちろん、人生から苦労を完全になくすことはできない。


子どもは病気になることもあるし、思いどおりにいかないこともある。


家庭によっては経済的な事情もある。


それでも、減らせる苦労は減らせばいい。


利用できる道具は利用すればいい。


ゲームでも、便利な家電でも、保育サービスでも何でもいい。


大人が工夫して、生活を楽にすればいい。


ところが、世の中には苦労していること自体に価値を見いだす人がいる。


子どものために我慢することが親の愛情だ。


自分の時間を犠牲にすることが立派な母親だ。


そんなことを言う。


私は聞きたい。


それで、誰が得するんだ?


母親は疲れる。


父親も家庭の中でどう役割を果たせばいいかわからなくなる。


子どもは親の期待に応えようとして我慢する。


家族全員が苦労して、何の意味があるんだ。


10 親子で幸せになる方法を考えろ


私は、日本の子育てをもっと楽しいものにできると思っている。


親が子どもと一緒に遊ぶ。


子どもが笑う。


親も笑う。


疲れたら休む。


困ったら助けてもらう。


できないことがあれば、誰かに頼る。


子どもが何かに夢中になっているなら、その興味を伸ばしてやる。


自分で考えたことがあるなら、話を聞いてやる。


そんな当たり前のことが、どうして難しいんだろう。


私は以前から、子どもを教育するときには、もっと本人の気持ちや能力を考えるべきだと思っている。


子どもは、大人が思っている以上にいろいろなことを考えている。


大人の言っていることが矛盾していれば、それにも気づく。


納得できないことがあれば、反抗したくなることもある。


それなのに、大人は「子どもだからわからない」と思っていることがある。


私は、そこにも問題があると思う。


子どもを育てるというのは、大人の都合のいい人間にすることではない。


自分で考え、判断し、人生を楽しめる人間に育てることではないか。


そして、そのためには、親自身が人生を楽しめる社会であることも重要なのだ。


疲れたから子どもを預ける。


映画を見に行く。


友達と会う。


ゲームをする。


本を読む。


何もしないで眠る。


そんなことをして、いったい何が悪いんだ。


親が元気になって、また子どもと楽しく過ごせるなら、それでいいじゃないか。


子どもも同じである。


遊びたいなら遊べばいい。


笑いたいなら笑えばいい。


走りたいなら、安全に走れる場所で思い切り走ればいい。


もちろん、社会で暮らす以上、他人への配慮は必要である。


しかし、他人に配慮することと、自分の感情を押し殺して生きることは違う。


私は、この区別をもっと大人たちに考えてほしい。


子育ては修行ではない。


親は修行僧ではない。


子どもも修行僧ではない。


家族は、誰が一番苦労しているかを競うために存在しているわけではない。


苦労を褒める前に、苦労を減らす方法を考えろ。


子どもを叱る前に、どうしてその行動をしたのか考えろ。


いい子にしようとする前に、その子が幸せかどうかを考えろ。


私はそう思う。


そして、ここから次の疑問が生まれる。


家庭で「いい子になりなさい」と言われた子どもは、学校に入るとどうなるのか。


学校では、さらに細かいルールが待っている。


書き順を守りなさい。


習った漢字を使いなさい。


模範解答どおりに答えなさい。


先生の言うことを聞きなさい。


私は、その教育にも昔から散々腹を立ててきた。


何しろ、私は国語の成績は良かったのに、国語という教科が大嫌いだったのである。


本を読むのは好きだった。


作文を書くのも得意だった。


それなのに国語が嫌いだった。


なぜか。


それは次回、じっくり書こうと思う。


第2話「頭のいい子ほどバツになる国語教育」へ続く。

単身赴任、少なくとも子供が小さい頃はさせてはいけないと思う。


これは法律で決めてもいいくらいだ。


私は小説に深雪と言う薬を飲んで女体化するイケメンの話を書いたが。


深雪が男性に甘える場面にコレわかるかもと何度か男性の読者に言われたのである。


深雪は父親のような包容力のある男性と性的な関係を持ち、頭を撫でられて喜ぶけれど。


深雪は実の父に捨てられた過去を持つ。


そして単身赴任で父親の愛を得られなかった子供や、離婚で父親が居なかった男の子も私は観察している。


彼等は母親に感謝していると口では言っているけれど。本音では父親の愛情も必要としていたと私は考えている。


まあ父親がいない男の子がゲイになると言う意味ではないけれど。父親の愛を欲しがる子供の心理も理解可能だ。

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