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天才パンダのエッセイ※本物のミステリー!考え過ぎて頭痛患者勃発!血液型分布図と民俗学。塩分と世界平和。ゲームと脳科学  作者: ヘタレパンダ


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SNS監視社会

いい子になれ、我慢しろ、黙ってろ。それで子どもが幸せになると思うか?


――いじめ、不登校、そしてSNS監視社会について


日本の子育てというのは、いったいいつから修行になったんだろう。


それも普通の修行じゃない。荒行である。


親は子どものために自分を犠牲にしなさい。子どもは親や先生の言うことを聞きなさい。お行儀よくしなさい。静かにしなさい。怒ってはいけません。みんなと仲良くしましょう。譲り合いましょう。


もう、うるせえよ。


いったい何のために生きてるんだ。


私は前から疑問だった。


日本では子どもが生まれた瞬間から、親も子どもも我慢大会に参加させられる。


母親は疲れていても休むな。父親はゴミを捨てれば「家事を手伝ってくれる優しい旦那さん」。母親は毎日ご飯を作って当たり前。


おい、誰の家のゴミなんだよ。


父親の家でもあるだろう。


かつて私が子育てしていた頃、保育園に「疲れたから少し休みたい」「映画を見に行きたい」と言っても、そんな理由では預かれないと言われた。


働いているとか、病気だとか、特別な理由が必要だった。


母親だって人間なんだよ。


映画くらい見たいだろ。昼寝だってしたいだろ。たまには一人でのんびりしたいだろ。


それを許さない社会で、どうして幸せな子育てができると思うんだ。


私は、保育サービスは仕事や病気だけのためにあるべきではないと思う。親が休息や娯楽のために利用できるようにすべきだし、利用できる時間ももっと増やした方がいい。


親が幸福であることも、子どもの幸福につながるのだから。


子どもだって荒行をさせられている


もっと問題なのは、子どもまで荒行をさせられていることだ。


「いい子になりなさい」


「お行儀よくしなさい」


「静かにしなさい」


「怒っちゃいけません」


いったい誰が決めたんだ、そんなこと。


大人だってカラオケに行けば大声で歌うじゃないか。スポーツ観戦に行けば歓声を上げる。面白ければ大笑いする。


それがどうして、子どもになるといけないんだ。


もちろん、静かにすべき場所はある。


葬式の最中に走り回られたら困る。


私は実際に、息子と娘を葬式に連れて行ったことがある。


二人ともずいぶん静かだったので、周囲から「なんてお行儀のいい子なの」と褒められた。


理由は簡単だ。


二人とも、ずっと3DSでゲームをしていたのである。


何のことはない。


子どもが退屈しないように工夫したら、自然に静かになっただけなのだ。


わざわざ「静かにしなさい」と怒鳴り続ける必要なんかない。


子どもを我慢させる前に、大人が頭を使えよ。


今ならiPadもある。


ただし、動画を延々と見せるだけでは、受け身になりやすい。ゲームをしたり、絵を描いたり、何かを作ったりする方が、子ども自身が考え、判断する機会を作れる。


道具は使い方次第なのだ。


噛みついた子が悪い。それで話は終わりか?


保育園や幼稚園でも、子どもが噛みついたり、友達を叩いたりすると、大人はすぐに怒る。


「噛んじゃダメ!」


そりゃ、噛んじゃダメだろう。


そんなことはわかっている。


私が聞きたいのは、その先だ。


なぜ、その子は噛みついたんだ?


おもちゃを取られたのかもしれない。嫌なことをされたのかもしれない。疲れていたのかもしれない。言葉でうまく伝えられなかったのかもしれない。


ストレスだけが原因とは限らないけれど、何らかの困りごとが隠れている可能性はある。


噛まれた子を守ることは当然だ。


しかし、噛んだ子を叱って終わりでは、原因が残ったままになる。


私は以前、テレビで、登園した子どもが親と一緒に短時間、鬼ごっこをする取り組みを見た記憶がある。


朝から走り回って、思い切り遊ぶ。


それで子どもが安心し、落ち着くという話だった。


もちろん、すべての子どもに同じ効果があるとは限らない。


それでも発想が面白い。


問題が起きた後に怒るのではなく、問題が起きにくい状態を先に作ろうとしているのだ。


こっちの方が、よほど合理的ではないか。


正解を知っている子どもが、バツをもらう


学校教育にも、昔から疑問が山ほどあった。


私自身、国語の成績は良かった。


本を読むのも好きだったし、作文も得意だった。


しかし、国語という教科は大嫌いだった。


特に、小学校低学年の問題である。


息子が小さい頃、白黒で描かれたエビフライの絵を見て、言葉を書かせる問題があった。


ところが、その絵には野菜も描いてあった。


息子は「エビサラダ」と書いた。


エビフライもエビサラダも5文字である。


しかし、バツだった。


私は思った。


おい、ちょっと待て。


野菜まで描いておいて、エビサラダと答えたらバツなのか。


ちゃんと絵を見て判断したんだろうが。


少なくとも、どうしてそう答えたのか聞いてやれよ。


別の問題では、クマが穴の開いた袋に入った種を運び、種がこぼれ、やがて花が咲くというような話があった。


ところが、私の記憶では時間が経過したことを示す説明が不十分だった。


それで「なぜ花が咲いたのでしょう」と聞く。


子どもはわからないと言う。


私も読んでわからなかった。


種がこぼれた直後に花が咲いたのなら、何か特別なことでも起きたのか?


気候変動か? 火山活動か?


ところが、模範解答は「春が来たから」。


ふざけんなよ。


それなら、春が来たことを推測できる文章を書けよ。


「やがて」の一言があるだけでも、時間の経過を想像しやすくなる。


子どもの読解力を試す前に、出題者の文章力を確認した方がいいんじゃないか。


しかも、書き順まで細かく採点される。


習っていない漢字を書いたらダメだと言われたこともあった。


自分で覚えた漢字を書いて、何が悪いんだ。


書き順を教えることには意味があるだろう。しかし、正しい漢字を読んだり書いたりできる能力と、筆順を覚えている能力は別である。


学校は子どもの能力を伸ばす場所なのか。


それとも、決められた順番で決められた答えを書く訓練所なのか。


私は以前から、間違いを探して減点するだけではなく、子どもができたことを評価する加点式教育を提案してきた。


子どもが自分で考えたことまで否定して、いったい何を育てたいんだ。


先生の言う「いい子」は、教室では嫌われる


さらに腹が立つのは、学校が教える道徳と、教室の現実が食い違っていることだ。


先生は言う。


「いい子になりなさい」


「真面目にしなさい」


「先生の言うことを聞きなさい」


ところが、私が子どもの頃には、真面目にしていると同級生から「いい子ぶってる」「調子に乗ってる」などと言われることがあった。


反対に、少し悪ぶっている子がかっこいいとされたりする。


何なんだ、この矛盾は。


先生の言うことを聞けば、クラスメイトから嫌われる。


クラスメイトに合わせれば、先生に怒られる。


いったい子どもは、どうすりゃいいんだよ。


こういう状況の中で、子どもが周囲の顔色ばかり見るようになっても不思議ではない。


本当に必要なのは、単に「いい子でいなさい」と教えることじゃない。


周囲と意見が違ったとき、どうすればいいのか。嫌なことをされたとき、どうやって自分を守ればいいのか。


そこを教えるべきではないか。


いじめは、なぜ起きるのか


私は、いじめた子を叱ること自体が間違いだとは思わない。


いじめられた子は守らなければいけない。


しかし、そこで話を終わらせるのはおかしい。


どういう環境でいじめが起きたのか。


子どもたちは何に不満を感じ、どんなストレスを抱えていたのか。


クラスの中で何が起きていたのか。


人を傷つける行為の責任は、その行為をした人にある。


ただし、原因を調べることと、加害行為を正当化することは違う。


原因を解決しなければ、また同じことが起きる可能性がある。


家庭でも学校でも、我慢しなさい、頑張りなさい、怒ってはいけませんと言われ続ける。


しかも、子ども自身が困っていることをうまく説明できない場合もある。


もちろん、すべてのいじめがストレスから生まれるわけではない。集団内の力関係、差別、周囲の同調、面白がって加担する行動など、いろいろな要因がある。


だからこそ、個別に原因を調べる必要がある。


悪い子を見つけることが、教育の最終目的じゃない。悪いことが起きにくい環境を作ることが目的だろう。


不登校になった子だけを問題にするな


では、子どもが学校へ行きたくなくなったら、どうするのか。


大人はすぐに「どうすれば学校へ戻れるか」と考えがちだ。


しかし、私はその前に聞きたい。


どうして学校へ行きたくなくなったんだ?


いじめがあったのか。


先生が怖かったのか。


授業がつまらなかったのか。


友達に合わせ続けることに疲れたのか。


学校の環境が合わなかったのか。


あるいは、体調や学習上の困難など、別の事情があるのかもしれない。


理由は子どもによって違う。


なのに、とにかく学校へ戻すことを最優先にしてしまったら、問題のある環境に子どもを戻すだけになる可能性もある。


私は、学校に行けるようになることだけが目的ではないと思っている。


子どもが安全に学び、人と関わり、自分の能力を伸ばし、幸せに暮らせることが目的だ。


そのためには、学校の環境を改善することも必要だし、別の場所で学ぶ選択肢があってもいい。


子どもが学校へ行けないことだけを問題にするのではなく、学校がその子に合った教育を提供できているのかも考えるべきだ。


SNS監視社会という新しい問題


そして今は、昔にはなかった問題がある。


SNSだ。


私はこれを「SNS監視社会」と呼びたい。


電車の中で子どもが少し騒いだ。


親が注意しなかった。


誰かが気に食わないことを言った。


すると、ネットの中で「非常識だ」「マナー違反だ」「親のしつけが悪い」と騒ぎ始める人がいる。


中には、自分の好みで勝手にルールを作り、それを社会全体の常識であるかのように言う人までいる。


私は聞きたい。


それ、本当にルールなのか?


それとも、お前が気に食わないだけなのか?


もちろん、他人に迷惑をかけないための配慮は必要だ。


しかし、配慮と服従は違う。


誰かが不機嫌になるかもしれないから、いつも静かにして、笑うのも騒ぐのも我慢して、周囲の顔色をうかがって暮らす。


それで人生、楽しいのか。


しかも、SNSでは声の大きい人の意見が目立つ。


本当は多くの人が気にしていないことでも、激しく批判する投稿ばかりが目に入れば、みんながそう考えているように見えてしまう。


親は子どもを静かにさせることに必死になる。


子どもは怒られないように、周囲に合わせる。


大人も子どもも、ますます言いたいことが言えなくなる。


それでは、親子そろって監視社会の囚人じゃないか。


必要なのは、もっと幸せになるための教育だ


私は、子どもに何も教えなくていいと言っているわけではない。


挨拶も、譲り合いも、他人を大切にすることも、必要なことだ。


ただし、それを教える目的を忘れてはいけない。


人と気持ちよく暮らすために挨拶をする。


お互いが困らないように譲り合う。


誰かを傷つけないように、自分の怒りの扱い方を覚える。


そういう意味を教えればいい。


「これをする子がいい子だから」では、ただの服従訓練である。


そして、子どもの能力を過小評価してはいけない。


大人が考えている以上に、子どもは物事を観察しているし、矛盾にも気づいている。


私自身、子どもの頃からそうだった。


大人の求めている答えが理解できなかったんじゃない。


理解したうえで、「なんでそんな答えを書かなきゃいけないんだよ」と思っていたのだ。


学校が欲しがる答えを書く能力と、自分で考える能力は違う。


私は後者をもっと大切にしてほしい。


子どもは大人のために生きているわけではない。


先生の機嫌を取るためでもない。


親の期待に応えるためだけでもない。


SNSで知らない人から褒めてもらうためでもない。


自分の人生を生きるために成長しているのだ。


大人だって同じである。


子育ては修行ではない。


学校は服従訓練所ではない。


道徳は他人を監視するための武器ではない。


社会のルールだって、人間を幸せにするために存在しているはずだ。


それなのに、ルールを守らせることに夢中になって、人間の幸福を忘れてしまったら本末転倒だろう。


いい子を作ることより、幸せな子どもを育てろ。


我慢できる人間を褒めるより、我慢しなくても暮らせる方法を考えろ。


いじめた子を叱るだけでなく、いじめが起きる環境そのものを改善しろ。


そして、不登校の子どもに「学校へ行きなさい」と言う前に、学校が本当にその子にとって安心できる場所なのか、考えてみてほしい。


私はそう思う。


だって、人間は幸せになるために生きているんだから。


いつまで荒行やらせてんだよ。


いい加減、修行は卒業しようぜ。

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