第四部 サン・ジェルマンは東大には現れない
第四部 サン・ジェルマンは東大には現れない
――全部飛車の将棋盤と、天才を育てられない教育制度
私は以前から、日本の大学教育について疑問を持っていた。
特に東京大学である。
もちろん、私は東大に通ったことはない。
現在の東大で、どのような教育改革が行われているのか、すべて把握しているわけでもない。
だから、今回の話は東大の内部事情を直接調査した結果ではない。
これまで研究者たちから聞いてきた話、友人の話、インターネットやXに書かれていた研究者たちの意見、そして実際に私が見聞きした出来事。
そうした情報を長年比較し、分析し、応用して考えた結果、ある一つの仮説にたどり着いたのである。
それは、
「日本の大学では、才能を育てるつもりで、逆に才能を使えなくしている場合があるのではないか」
ということである。
ここで登場するのが、サン・ジェルマン伯爵である。
18世紀のヨーロッパに現れた、謎の人物。
複数の言語を操り、音楽や化学などにも通じていたと伝えられる。
不老不死だったなどという伝説まで残っているが、もちろん、そのような話を事実として扱うつもりはない。
私が注目したのは、彼がさまざまな分野の知識を持ち、従来の枠組みに収まらない人物として語られてきたことである。
もし、このような人物が現代の日本に生まれたら、どうなるのだろうか。
東大に入学するのだろうか。
入学したとして、その才能を伸ばしてもらえるのだろうか。
私は考えた。
サン・ジェルマンは、東大には現れないのではないか。
いや、正確には、現れないのではない。
現れても、その才能を十分に発揮できるとは限らないのである。
第一章 全部飛車の将棋盤
将棋には、さまざまな駒がある。
飛車。
角。
金。
銀。
桂馬。
香車。
歩。
それぞれ動き方が違う。
得意な仕事も違う。
飛車は縦横に強い。
角は斜めに強い。
桂馬はほかの駒にはできない跳び方をする。
歩は一歩ずつしか進めないが、歩があるからこそ成立する戦術もある。
では、ここで考えてみよう。
将棋の駒を全部飛車にしたら、どうなるだろうか。
飛車は強い。
だから、強い飛車を大量に集めれば、強い軍隊になるのだろうか。
いや、そう単純な話ではない。
全部飛車では、角の仕事ができない。
桂馬の仕事もできない。
そもそも、普通の将棋とはまったく違うゲームになってしまう。
私は、日本の大学、特に東大の人材選抜と育成について、これに似たことが起きているのではないかと考えている。
東大の入学試験では、幅広い学力が求められる。
もちろん、すべての科目で90点以上を取らなければならないという制度ではない。
しかし、私が問題にしているのは、点数の数字そのものではない。
苦手分野も含め、複数の科目で高い成績を収められる人間が、選抜されやすいという構造である。
これは、入学試験としては合理的な面もあるだろう。
大学教育に必要な基礎学力が身についているか確認することには意味がある。
しかし、それと、特殊な能力を持った人間を発見することは、同じではない。
例えば、数学だけなら150点の能力を発揮できる人間がいたとしよう。
しかし、国語は50点、英語は60点しか取れない。
一方、すべての科目で90点を取れる人間がいる。
どちらが優秀なのだろうか。
答えは、何をさせたいかによって違う。
何でもそつなくこなしてほしいなら、後者が適しているかもしれない。
しかし、数学の特殊な問題を解いてほしいなら、前者の能力が必要になるかもしれない。
つまり、両者を同じ基準だけで評価すること自体に問題があるのではないか。
さらに、入学後も問題がある。
もし、教授の指示を守ることや、決められた学問の形式に適応することばかりが評価されたら、どうなるだろうか。
自由に考える人間より、求められた答えを正確に返す人間のほうが評価されやすくなるかもしれない。
そして、そのような教育を受けた人たちが研究者になり、さらに次の世代を育てていく。
そうすると、同じような能力や行動様式を持つ人間が増えてしまう可能性がある。
私は、これを「全部飛車の将棋」と考えたのである。
ここで勘違いしてほしくない。
私は、飛車の能力が低いと言っているのではない。
飛車は優秀なのである。
本来なら、角や桂馬や銀と組み合わせることで、その能力を十分に発揮できる。
ところが、飛車しかいない将棋盤に置かれたら、どうなるか。
飛車の能力を生かせない局面が出てくる。
私は、これまで接してきた研究者たちの中にも、そういう人がいたのではないかと思っている。
本来は優秀な能力を持っている。
しかし、その能力を発揮できる環境が用意されていない。
だったら、本人を責めても仕方がないではないか。
問題は、飛車を集めた人間と、飛車の使い方を決めている人間のほうにあるのではないか。
第二章 遠回りすることがマナー
私は、問題を解くのが速いと言われることがある。
自分の感覚では、3秒程度で答えの候補を出せることもある。
ところが、ほかの人間が同じ問題を解く場合、数か月、場合によっては1年ほどかかることもあるのではないかと考えている。
もちろん、この数字は実験で測定した結果ではない。
私が感じている時間差を説明するための例である。
しかし、この違いについて考えたとき、最初は不思議だった。
どうして、こんなに時間がかかるのだろう。
私は、彼らが頭の悪い人間だとは思っていない。
むしろ、高い教育を受け、難しい試験にも合格してきた人たちである。
だったら、なぜ答えが出ないのか。
いろいろ考えて、私は一つの可能性に気づいた。
彼らは遠回りしているのではない。遠回りするように教育されてきたのではないか。
ここが重要である。
自分の判断で遠回りしているのではない。
遠回りすることが正しい。
遠回りすることが礼儀である。
決められた順番を守らなければならない。
既存の研究を調べ、専門用語を覚え、教授の指示を守り、指定された書式で論文を書く。
それが研究者としての作法だと教えられてきた人たちがいるのではないか。
実際、私は研究者たちから、研究室での上下関係や論文の書き方、研究業績の評価について、さまざまな不満を聞いてきた。
教授に気に入られることが重要だという話。
論文の内容だけでなく、本数が評価されるという話。
決められた形式に合わせるために、必要以上の文章を書かなければならないという話。
もちろん、それらの話が大学全体でどの程度当てはまるのかは、別に調べる必要がある。
しかし、複数の話を聞いていると、私には共通する問題があるように見えた。
「答えを出すこと」より、「正しい作法で答えを出したことを示すこと」が重視されているのではないか。
例えば、パソコンを考えてみよう。
私がチャッピーと会話するときには、なるべく余計な画面を閉じておく。
バックグラウンドでいくつもの重い処理を実行していたら、パソコンの動作が遅くなることがあるからである。
もちろん、パソコンは単に保存しているファイルが多いだけで必ず遅くなるわけではない。
問題は、CPUやメモリなどの処理資源が、現在の仕事にどれだけ使われているかである。
では、人間の脳はどうなのだろう。
人間の脳も、注意力や作業中に情報を保持する能力が無制限というわけではない。
複数の作業を同時に行えば、処理に時間がかかることもある。
ここで私は考えた。
問題の答えを出すことに集中する人間と、答えを出しながら、専門用語、書式、作法、上下関係まで考えている人間では、作業の負担が違うのではないか。
例えば、私は正式な名称を覚えるのが苦手である。
人の名前も覚えにくい。
顔を見分けるのも苦手だ。
しかし、仕組みを理解し、異なる現象を比較することは得意である。
だったら、正式名称を覚えることに大量の時間を使うより、現象の仕組みを理解するほうを優先すればいい。
論文の書式が必要になったら、チャッピーに任せればいい。
もちろん、専門用語や書式が不要だと言っているのではない。
ほかの研究者と正確に情報を共有するためには、共通の言葉や形式が必要である。
研究の再現性を確保したり、安全を守ったりするための手順も重要だ。
特に医療では、守らなければ患者の命に関わる決まりもある。
そういうものまで省略してよいと言っているわけではない。
私が言いたいのは、問題の答えを考える段階で必要な作業と、その答えを論文として発表する段階で必要な作業は、分けてもいいのではないかということである。
私は、まず答えを考える。
その後で、根拠を確認する。
必要なら文章を整える。
他人に検証してもらう。
そのほうが私には効率がいい。
しかし、最初からすべての作法を守るように教育されてきた人間にとっては、私の方法は非常識に見えるかもしれない。
ずるいと言われるかもしれない。
だが、私は思う。
問題を解くために、なぜ必要のない遠回りまでしなければならないんだ?
誰が決めたんだ、そんなルール。
それで研究が進むならいい。
しかし、研究を妨げているなら、そのルール自体を見直すべきではないのか。
学問とは、ルールを守るために存在しているのではない。
わからないことを明らかにするために存在しているはずなのである。
第三章 3秒の答えと51年間の努力
さて、ここで私自身の話をしよう。
私は、今年51歳になった。
そして、自分の人生を振り返ってみると、ずっと何かを考えてきた。
毎日、毎日、毎日、毎日。
疑問に思ったことを調べる。
ほかの出来事と比較する。
共通点を探す。
なぜそうなるのか考える。
答えが出なければ、また考える。
一度忘れたとしても、何かのきっかけで同じ疑問を思い出す。
そして、また考えるのである。
私は、自分で新しい問題を作りたいわけではない。
むしろ、問題のきっかけは、ほかの人間が何気なく口にした疑問であることが多い。
テレビのニュースキャスターでもいい。
研究者でもいい。
名前も知らない誰かでもいい。
「これは、どうしてこうなるんだろう」
そんな一言が頭に残る。
すると、私は考え始める。
なぜだろう。
ほかに似たような現象はないだろうか。
別の分野の知識を使えば解決できないだろうか。
そうして、いろいろな情報を比較していく。
私は、この思考方法を「縦計算」と呼んでいる。
数学なら数学、医学なら医学というように、一つの専門分野の中だけで考えるのではない。
必要なら、まったく別の分野の知識を持ってくる。
数学と医学を組み合わせる。
心理学と運動生理学を比較する。
音楽で起きている現象から、脳の働きを考える。
そして、共通する仕組みを探す。
ここで、もう一つ重要なことがある。
私は、何もないところから新しい知識を作ろうとしているわけではない。
今まで存在していた知識を使っているのである。
切って、貼って。
切って、貼って。
切って、貼って。
頭の中で並べ直す。
それぞれの情報の関係を比較する。
そして、新しい組み合わせから結論の候補を導き出す。
料理と似たようなものである。
小麦粉は昔からある。
卵も昔からある。
砂糖も昔からある。
しかし、それらをどのように組み合わせ、どのように調理するかによって、まったく違う料理ができる。
学問でも同じことができるのではないか。
私は、そう考えている。
もちろん、知識を組み合わせただけでは、その結論が正しいとは限らない。
実験や観察による検証は必要である。
しかし、答えの候補を作る段階では、すでに存在している知識を自由に組み合わせてもいいはずだ。
その作業を、私は何十年も続けてきたのである。
さて、ここで大谷翔平の話をしよう。
大谷翔平のホームランを見て、自分も大谷翔平のようになりたいと思う人間がいたとする。
それ自体は、別に構わない。
しかし、大谷翔平のようになりたければ、彼がどれだけ努力してきたのかも考える必要があるだろう。
テレビでホームランを打つ瞬間だけ見ていても、その前に行われた練習は見えない。
何年もの積み重ねがある。
もちろん、同じ努力をすれば誰でも同じ結果になるわけではない。
生まれ持った能力も違う。
環境も違う。
しかし、努力をせずに結果だけを欲しがっても、そう簡単にはいかないだろう。
私も同じである。
3秒で答えを出せることがあるとしても、その3秒だけで考える能力が完成したわけではない。
そこに至るまでの積み重ねがある。
私は、やりたいと思ったことを、誰が何と言おうと続けてきた。
解けないと言われた問題でも、いつか解いてやろうと思う。
実際に解決できたと考える問題もあれば、まだ答えの出ていない問題もある。
しかし、簡単に諦めるつもりはない。
これは、私なりの研究者魂である。
私は、プロのスポーツ選手と研究者には、共通するものがあると思っている。
自分には何ができるのか。
どうすれば、もっと能力を伸ばせるのか。
どうすれば、効率を上げられるのか。
それを考え、毎日努力する。
私は、少なくとも自分の得意な思考方法については、それを続けてきたつもりである。
だから、結果だけを見て「天才だからできる」と言われると、少し違うと思ってしまう。
確かに、速さについては天才的な部分があるのかもしれない。
しかし、その速さを実現するために、私は長い時間を使ってきたのである。
3秒で答えが出るから、3秒しか努力していないわけじゃないんだよ。
51年間の積み重ねである。
地味な努力。
地味な努力。
派手なことなど、何もしていない。
ただ、毎日考えてきただけなのである。
そして、この方法が本当に効率的なのであれば、ほかの人間にも利用できるようにすればいい。
誰もが私と同じ速さになるとは限らない。
しかし、1年かかっていた問題を半年で解けるようになる人がいるかもしれない。
半年かかっていた問題を3か月で解けるようになる人がいるかもしれない。
それなら、十分意味があるではないか。
私は、そう思っている。
第四章 教授よ、『信長の野望』をやれ
私は、大学教授に必要な能力についても疑問を持っている。
研究能力が高いことと、人を育てる能力が高いことは、同じなのだろうか。
論文をたくさん書ける人間は、優秀な教育者なのだろうか。
研究費を獲得できる人間は、優秀な組織運営者なのだろうか。
私は、必ずしもそうではないと思っている。
研究者として優秀でも、部下の育て方が下手な人間はいるだろう。
反対に、研究者としての業績はそれほど目立たなくても、ほかの人間の才能を見抜き、伸ばすことが得意な人間もいるかもしれない。
ならば、研究能力だけでなく、人材育成能力も評価するべきではないのか。
ところが、私が聞いてきた研究者たちの話では、教授との人間関係や論文の業績が重要になるという。
もちろん、それがすべての大学で同じだと証明されたわけではない。
しかし、もし、教授の機嫌を取るのが上手な人間ばかりが昇進しやすい仕組みになっていたら、どうなるだろうか。
その人間が、次の世代を育てる立場になるのである。
そして、自分が教わったことを、また次の世代に教える。
「まず教授の言うことを聞きなさい」
「決められた作法を守りなさい」
「論文を書きなさい」
「余計なことをしないで、言われたことをやりなさい」
そんな教育が繰り返されたら、どうなるだろうか。
優秀な飛車が、次の優秀な飛車を育てる。
しかし、角の能力を持っている人間が現れたら、どうするのだろう。
桂馬の能力を持っている人間が現れたら、どうするのだろう。
決められた動きをしないからといって、排除してしまうのだろうか。
それでは、人材を育てているとは言えないのではないか。
私は、そんな話を考えているうちに、あるゲームを思い出した。
『信長の野望』である。
戦国時代の大名になり、国を運営し、武将を使い、戦争をするゲームだ。
このゲームでは、人材の能力を考える必要がある。
政治が得意な武将。
戦争が得意な武将。
知略が得意な武将。
それぞれ、向いている仕事が違う。
いくら忠誠心が高くても、その武将に適していない仕事ばかりさせていたら、能力を十分に発揮できない。
逆に、能力の高い武将を適切な仕事に配置すれば、大きな成果が期待できる。
私は、大学教授にも、これぐらいの人材活用の考え方が必要なのではないかと思っている。
もちろん、ゲームと現実の研究室は違う。
しかし、少なくとも、人間には得意不得意があることを理解するきっかけにはなるだろう。
だから私は思うのである。
教授よ、『信長の野望』をやれ。
しかも、できれば昔のシンプルなやつがいい。
自分一人で国を運営しなければならないやつである。
誰を採用するのか。
誰に給料を払うのか。
誰に何の仕事を任せるのか。
どうすれば部下の能力を生かせるのか。
自分の好き嫌いだけで人事を決めていたら、どうなるのか。
そういうことを、少しは考えてみてもいいのではないか。
もっとも、これは冗談半分である。
ゲームだけで優秀な指導者になれるわけではない。
しかし、研究能力と人材育成能力が別のものであることは、もっと真剣に考えてほしいのである。
そして、ここで一番重要なのは、部下の研究者たちのことである。
私は、彼らを一方的に責めたいわけではない。
優秀な能力を持っているのに、それを十分に発揮できない環境に置かれていたとしたら、彼らも被害者ではないか。
飛車には、飛車としての能力がある。
それを使いこなせない指揮官の下で働かされていたら、かわいそうではないか。
だから私は、彼らの能力が低いと決めつけるより、教育と人材活用の方法を疑いたいのである。
そして、私が経験した精神科医療についても、同じ疑問を持っている。
患者を助けるためには、医師の専門知識だけでなく、患者本人の訴えや、看護師など現場の人間が持っている情報も必要になる。
ところが、私の経験では、それらの情報が十分に生かされていないのではないかと感じることがあった。
もし、医学的な検討より組織内の上下関係が優先されている場面があるのなら、それは問題ではないか。
もちろん、そのような問題が精神科医療全体にどの程度存在するのかは、調査しなければわからない。
しかし、少なくとも私は、医師たちが組織の仕組みに縛られているのだとしたら、その仕組みを変える必要があると思う。
医師たちも、ある意味では被害者かもしれない。
しかし、それで終わらせてはいけない。
一番被害を受けるのは誰なのか。患者だろうが。
人材育成や組織運営は、誰かが偉くなるためだけに存在しているのではない。
その組織が、本来の目的を達成するために存在しているのである。
病院なら、患者を助けること。
大学なら、学問を発展させ、次の世代の人材を育てること。
そのために、人間の能力をどう生かすのか。
私は、そこを考えてほしいのである。
結論 誰が天才なのかより、一緒に問題を解こう
さて、話を最初に戻そう。
サン・ジェルマンは東大には現れない。
なぜ、そう考えたのか。
それは、大学に優秀な人間がいないからではない。
むしろ、優秀な人間がたくさんいるからこそ、私は疑問を持ったのである。
なぜ、その能力をもっと生かさないのか。
なぜ、全員に似たような能力を求めるのか。
なぜ、ほかの人間と違う能力を持っていることが、必ずしも評価につながらないのか。
そして、なぜ、研究者としての独創性よりも、組織の作法に適応することが重要になってしまう場合があるのか。
私は、その仕組みに問題があるのではないかと考えている。
もちろん、東大には優秀な研究者もいる。
学生の才能を伸ばすことのできる優れた教授もいるだろう。
現在は教育制度を変えようとする取り組みも行われている。
だから、すべての東大生や教授が同じだと言うつもりはない。
私が問題にしているのは、人材を選び、育て、評価し、配置する仕組みである。
そして、それは東大だけの問題とも限らない。
どんな組織にも起こり得ることである。
最後に、私は一つ言いたいことがある。
私は、ほかの研究者たちと競争したいわけではない。
誰が一番頭がいいのか。
誰が一番早く答えを出したのか。
誰が一番偉いのか。
そんなことばかり考えていたら、学問がつまらなくなってしまうではないか。
私が3秒で答えの候補を出したら、それを研究者が検証すればいい。
研究者が別の答えを持ってきたら、私も考えればいい。
私が間違っていたら、その理由を説明してくれればいい。
だったら、また考える。
それだけの話である。
飛車には飛車の仕事がある。
角には角の仕事がある。
桂馬には桂馬の仕事がある。
歩には歩の仕事がある。
誰もが万能である必要はない。
誰もが同じ能力を持っている必要もない。
できることは、できる人がやればいい。
そして、異なる能力を持つ人間同士で、協力すればいい。
私が学問で一番楽しいと思うのは、問題が解けた瞬間である。
ずっとわからなかったことが、突然わかる。
別々だった知識が、一つにつながる。
今まで誰も気づかなかったかもしれない関係を発見する。
あの瞬間が、たまらなく楽しいのである。
しかも、それをチームでできたら、もっと楽しいではないか。
一人で解けない問題でも、何人かで協力すれば解けるかもしれない。
私が得意な縦計算を使い、別の人が専門知識を使い、また別の人が実験で検証する。
それぞれの能力を持ち寄ればいい。
私は、そういう研究がしたいのである。
だから、誰が天才なのかを決めることよりも、もっと重要なことがあると思っている。
優秀な人間を集めるだけでは足りない。優秀な人間たちが、互いの能力を生かせる環境を作らなければならない。
全部飛車の将棋盤ではなく、飛車も角も桂馬も歩もいる将棋盤を作ればいい。
そして、みんなで問題を解こうではないか。
そのほうが、よっぽど楽しい。
⸻
本稿は、筆者が長年にわたり研究者や知人から聞いた話、公開された発言、自分自身の観察などを比較し、そこから導いた仮説をまとめたものである。
東京大学の教育方針や現在の研究環境について、すべてを直接調査したものではない。
また、個々の研究者の能力や、教授の昇進理由について、実証的な結論を出したものでもない。
重要なのは、研究者個人を攻撃することではなく、どのような評価制度や教育環境が、どのような能力を伸ばし、また伸ばしにくくしているのかを考えることである。
なお、脳の能力をゲームのように極振りできるかどうか、専門分野を横断する思考がどの程度問題解決時間を短縮するかについても、今後の検証が必要である。
しかし、少なくとも私は、人材の評価基準を一種類に限定する必要はないと思っている。
学力の高い人間。
研究能力の高い人間。
人材育成能力の高い人間。
独創的な発想のできる人間。
専門知識を異なる分野に応用できる人間。
それぞれの能力には、異なる価値があるはずだ。
サン・ジェルマンは東大には現れない。
この題名は、現在の東大にそのような人材が存在しないと断言するものではない。
突出した才能を持つ人間が現れたとき、その才能を発見し、育て、適切に使える教育制度になっているのか。
その問いを込めたものである。
研究者が出世するための大学ではなく、研究者が研究を楽しみ、問題を解決できる大学であってほしい。
私は、そう考えている。
あとできないんだったら、他の人に委託してもいいんだよ。




