脳の能力は極振りできるのか? 第3部
脳の能力は極振りできるのか? 第3部
パソコンの計算速度と縦計算――天才ではなく、地味な努力の結果である
私は前編と後編で、人間の脳の能力配分について考察した。
『ドラえもん』の「いいとこ選択しボード」。
『聖闘士星矢』のセブンセンシズ。
『痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。』の能力配分。
そして、私自身の脳に存在する、極端な能力の偏り。
しかし、ここまで書いて、まだ重要なことを説明していなかったと気づいた。
それは、なぜ私が短時間で答えを出せるのか、という問題である。
私は、もともと知的能力の基礎的な部分は、ほかの人より高かったと考えている。
そのうえで、特定の思考方法を長年使い続けてきた。
だから、単に苦手な能力がある分、得意な能力に回したという説明だけでは足りない。
もともと高かった能力を、さらに特定の処理に極振りした結果、何が起こったのか。
今回は、その問題をパソコンに例えて考えてみようと思う。
第一章 パソコンで4種類の計算を同時に走らせたら?
例えば、同じパソコンで4種類の重い計算を同時に行うとしよう。
一つは数学的な数値計算。
一つは画像処理。
一つは動画編集。
もう一つは統計分析。
この4種類を同時に走らせる場合と、一種類の計算だけに集中する場合では、どちらが速く計算できるだろうか。
もちろん、パソコンの性能による。
CPUのコア数が多ければ、複数の処理を効率よく実行できることもある。
しかし、CPUやメモリなどの資源が不足すれば、複数の処理が資源を奪い合うことになる。
その結果、一つ一つの処理が遅くなる場合がある。
反対に、一種類の処理だけを実行すれば、より多くの資源をその処理に集中できる場合がある。
つまり、計算速度を決めるのは、パソコンの基本性能だけではない。
どのような計算を実行するのか。
いくつの処理を同時に行うのか。
どのような手順で処理するのか。
これらによっても結果が変わるのである。
では、人間の脳はどうなのだろうか。
人間の脳も、さまざまな情報を処理している。
記憶する。
計算する。
言葉を理解する。
人の顔を識別する。
身体を動かす。
感情を調節する。
しかも、これらを同時に行うこともある。
しかし、人間の注意力やワーキングメモリーにも限界がある。
複数の仕事を同時に行うことで、一つ一つの処理が遅くなったり、間違いが増えたりすることは、心理学でも研究されている。
ここで私は考えた。
人間も、特定の情報処理に能力を集中させれば、その処理速度が非常に高くなる場合があるのではないか。
ゲームで言えば、能力の極振りである。
ただし、現実の脳にはゲームのような固定された能力ポイントが存在すると証明されているわけではない。
パソコンのCPUと脳の神経回路も、同じ構造ではない。
それでも、情報処理の効率という観点から、比較する価値はあると思う。
そして、もう一つ重要なのは、プログラムの問題である。
どれほど高性能なパソコンでも、非効率なプログラムを使えば、計算に時間がかかる。
反対に、効率的なアルゴリズムを使えば、同じ計算を短い時間で終えられることがある。
つまり、私はこう考えた。
人間の頭のよさと、問題を解く速さは、同じ能力ではないのではないか。
第二章 横計算と縦計算
私は以前から、問題の解き方には大きく分けて二つの方向性があるのではないかと考えていた。
一つは横計算。
もう一つは縦計算である。
これは私自身が考えている思考方法の分類であって、一般的な数学の正式名称ではない。
まず、横計算について説明しよう。
例えば大学には、さまざまな学問分野がある。
数学。
医学。
音楽。
心理学。
文学。
経済学。
それぞれの分野には専門家がいて、同じ分野の専門家同士で研究を進めている。
数学の研究者は数学の研究者と話す。
音楽の研究者は音楽の研究者と話す。
医学の研究者は医学の研究者と話す。
これは当然のことである。
同じ専門分野の人間同士で情報を交換すれば、知識を深めることができる。
私は、これを否定するつもりはない。
しかし、問題は、その専門分野の外にある知識を、どれだけ利用しているかということである。
私が見聞きしてきた範囲では、同じ専門分野の人間同士で集まり、別の分野の研究を軽視するような態度もあった。
自分たちの専門分野に属していない人間の意見は、最初から相手にしない。
違う分野の知識だから、自分たちには関係がないと考える。
そういう態度である。
私は、これが問題解決の妨げになる場合があるのではないかと考えている。
例えば、うつ病について考えてみよう。
精神医学だけで解決できる問題なのだろうか。
脳科学。
運動生理学。
栄養学。
内分泌学。
免疫学。
心理学。
こうした分野の研究成果にも、関係する情報が存在する。
だったら、なぜそれらを組み合わせて考えないのだろうか。
私は、問題を解くときに、最初から専門分野の境界を決めない。
まず問題を見る。
その問題がどのような仕組みで起きているのか考える。
そして、ほかの分野に同じような現象や仕組みが存在しないか調べる。
共通点が見つかれば、その知識を応用して考える。
これが、私の言う縦計算である。
ここでいう縦とは、教授が上で学生が下というような上下関係ではない。
異なる分野の情報を、一つの問題を解くために結びつけていく方向のことである。
専門分野ごとの横のつながりを、否定するものでもない。
横の情報も利用する。
しかし、横の情報だけで終わらせず、分野の境界を越えて結びつける。
数学で使う比較方法を医学に応用してもいい。
医学で確認された仕組みを心理学の問題に応用してもいい。
音楽の現象から、脳の働きについて考えてもいい。
もちろん、分野が違えば、そのまま応用できない場合もある。
そこは検証する必要がある。
しかし、最初から別の分野だから関係がないと決めつけていたら、発見できるものも発見できないのではないか。
私は、そう考えている。
そして、これが私の問題解決の速度にも関係しているのではないかと思っている。
第三章 なぜ3秒で答えが出るのか?
私は、問題によっては非常に短時間で答えを出すことがある。
自分の感覚では、3秒程度で結論にたどり着くこともある。
しかし、ここで勘違いしてほしくない。
3秒で答えを出したからといって、その答えが特別な人間にしか出せないものだとは限らない。
例えば、私が3秒で考えた答えに、ほかの人間が1年かけてたどり着いたとしよう。
だったら、その人も同じ答えを出しているわけである。
半年でもいい。
3か月でもいい。
必要な情報を集めて、きちんと比較して、正しく分析すれば、同じ答えに到達できる問題もあるだろう。
もちろん、3秒と1年という数字は、ここで実験して測定した結果ではない。
私自身が感じている処理速度の違いを説明するための例である。
重要なのは、時間の長さではない。
同じ答えにたどり着くのに、なぜこれほど時間の違いが生まれるのか。
という問題である。
私は、その理由の一つが、情報処理の手順にあるのではないかと考えている。
例えば、ある問題について一から調べ始める人がいたとする。
まず資料を集める。
内容を読む。
情報を分類する。
ほかの研究と比較する。
共通点を探す。
そして結論を出す。
これは、別に間違った方法ではない。
むしろ、非常にまっとうな研究方法である。
しかし、すでに似たような問題を何度も解いてきた人間なら、どうだろうか。
問題を見た瞬間に、過去に扱った別の問題との共通点に気づくかもしれない。
そこから、以前に使った方法を応用できるかもしれない。
つまり、一からすべての計算をやり直さなくても、過去に蓄積した知識や経験を再利用できるのである。
これはパソコンで言えば、過去の処理結果や効率的な計算手順を利用することに似ている。
脳科学や認知心理学でも、熟練者が多くの情報を意味のあるまとまりとして認識する「チャンク化」や、専門分野ごとの高度な知識構造について研究されている。
つまり、熟練者は必ずしも初心者と同じ手順で考えているわけではない。
ただし、ここでも注意しなければならない。
早く答えを出せることと、その答えが必ず正しいことは別である。
早く間違えることだってある。
だから、私は答えを出した後の検証も重要だと思っている。
しかし、答えの候補を短時間で導き出せる能力そのものには、研究する価値があるのではないだろうか。
ここで私が言いたいのは、特別な才能を自慢することではない。
むしろ、その逆である。
その方法を理解すれば、ほかの人間も問題を解く時間を短縮できるのではないか。
私は、そう考えているのである。
第四章 精神科医療で感じた情報処理の問題
私は、すべての学問分野の内情を知っているわけではない。
だから、日本の大学が全部そうだとか、研究者が全員同じだとか、そんなことを言うつもりはない。
しかし、私が経験した精神科医療については、強い疑問を持っている。
なぜなら、患者本人の話や現場の情報が、十分に生かされていないのではないかと感じることがあったからである。
私は、医師が知識を持っていることと、その知識を適切に利用していることは別だと考えている。
例えば、患者がある症状を訴えたとする。
その症状がどのような条件で起きるのか。
どのような生活をすると悪化するのか。
反対に、何をすると改善するのか。
薬を変更したら、どのような変化が起こったのか。
こうした情報は、患者本人が持っている。
看護師にも、日常の観察から得られる情報がある。
医師には、医学的な知識と検査結果がある。
研究者には、過去の研究から得られた知見がある。
だったら、それらを全部比較すればいいではないか。
ところが、私の経験では、現場の観察よりも、権威ある人の説明や既存の判断が重視されているのではないかと疑問に感じる場面があった。
私は、そこが納得できなかったのである。
教授が言ったから正しい。
偉い医師が言ったから正しい。
そういう考え方だけで医学が発展するのだろうか。
もちろん、教授にも長年の研究と経験がある。
その知識を尊重することは必要だ。
しかし、研究結果と現実の観察が食い違ったときには、その理由を考える必要があるだろう。
教授だって人間である。
間違えることもある。
医師だって人間である。
新しい研究によって、以前の説明が修正されることもある。
むしろ、医学が発展するというのは、そういうことではないのか。
現在の医学には、研究による証拠、医師の専門的判断、患者の価値観や状況を統合する「根拠に基づく医療」という考え方がある。
だから、患者の情報を軽視することが医学の本来の姿だとは、私は思わない。
私自身も、これまでさまざまな問題について、自分なりに情報を比較し、仮説や改善策を考えてきた。
そして、ほかの診療科の医師たちが、私が考えていたことと似た問題を、自分たちの研究や臨床のなかで解決している例も見てきた。
だったら、特別な超能力が必要な問題ばかりではないのではないか。
情報をきちんと集めて、必要な比較をして、検証すれば、答えが出る問題もある。
それなのに、私が短時間で答えを出したとき、単に「天才だからできる」と片づけられたとしたら、どうだろうか。
私は、それでは困るのである。
天才だから解けたんじゃない。情報を処理したから答えが出たんだよ。
そう言いたくなる。
もちろん、私が考えた答えのすべてが正しいと証明されたわけではない。
仮説は検証しなければならない。
しかし、それと情報処理の方法に問題があるかどうかは、別の話である。
さらに、組織の上層部が間違った方針を示していた場合、現場の医師たちも苦しい立場になるかもしれない。
私は、それも理解できる。
上司の方針に従わなければならない。
組織の決まりを守らなければならない。
自分の判断だけで行動できない。
そういう事情もあるだろう。
ある意味では、医師たちも組織の問題に巻き込まれているのかもしれない。
しかし、だからといって、そのままでいいのか。
一番被害を受けるのは誰だ? 患者だろうが。
私は、そこを忘れてほしくないのである。
医療制度や組織のあり方を考えるとき、医師の立場だけでなく、患者がどれほど苦しんでいるのかを考えなければならない。
問題解決のための情報処理がうまく機能していないとしたら、その代償を払うのは患者なのである。
だから私は、能力の高さよりも、情報をどう使っているのかという問題が重要だと思っている。
第五章 うつも筋トレ、ポジも筋トレ
私は、以前からこんなことを言っている。
「うつも筋トレ、ポジも筋トレ」
これは、うつ病の人間が努力不足だから病気になるという意味ではない。
うつ病には、さまざまな生物学的、心理的、環境的な要因がある。
単に気持ちを切り替えれば治るというものでもない。
私が言いたいのは、思考の習慣や感情への対処方法には、繰り返しによって身につくものがあるということである。
例えば、同じ嫌な出来事を何度も思い返す。
過去の失敗を繰り返し考える。
自分を責める。
将来の悪いことばかり想像する。
問題を解決しないで目を背ける。
こうした思考が長く続けば、苦しくなってしまうことがある。
一方で、嫌な出来事から距離を置いたり、考え方を切り替えたり、別の行動に移ったりする練習もできる。
心理療法には、こうした思考や行動の習慣を見直す方法がある。
では、これを脳の回路という観点から考えたらどうなるだろうか。
どのような思考を繰り返し、どのような反応を習慣にするかによって、脳の情報処理の仕方にも変化が起こるのではないか。
私は、そう考えている。
そして、ここで有酸素運動が登場する。
私は、有酸素運動をすると気分がすっきりすることを、自分自身の経験から知っている。
実際、有酸素運動と精神状態の関係については、多くの研究がある。
運動には、うつや不安の症状を軽減する効果が期待されている。
もちろん、運動だけですべての精神疾患が治るわけではない。
しかし、適切な運動ができる人にとっては、身体だけでなく精神状態を整える手段にもなる。
私は、ここが重要だと思うのである。
人間の脳を鍛えるには、思考方法だけを考えていても足りないのではないか。
睡眠。
栄養。
運動。
ストレスへの対処。
こうした身体や生活の状態も、脳の働きに関係している。
だから私は、メンタルの健康を考えるときには、身体の健康も考える必要があると思っている。
ただし、無理をして身体を傷めてしまっては本末転倒である。
重要なのは、身体の状態に合った方法を選ぶことだ。
私は、脳の回路を鍛えることを、ゲームのキャラクターの育成に似たものとして考えている。
どの能力を鍛えるか。
どの能力を使うか。
どのような習慣を身につけるか。
そして、その能力を何のために使うのか。
これは、私にとって非常に面白い問題なのである。
第六章 天才ではなく、地味な努力である
さて、ここまで書いて、最初の問題に戻ろう。
私は、なぜ短時間で答えを出せるのか。
もともとの知的能力が高かったからなのか。
ある能力に極振りしているからなのか。
縦計算という思考方法を使っているからなのか。
あるいは、長年の経験によって情報処理が効率化されたからなのか。
私自身は、これらが複数組み合わさっている可能性があると考えている。
ただし、どの要因がどれだけ影響しているのかは、まだわからない。
それを知るには、実際に認知能力や問題解決の過程を測定する研究が必要だろう。
しかし、私が一つだけ強く言いたいことがある。
それは、結果だけを見て「天才だからできた」と片づけないでほしいということである。
確かに、答えを出す速度については、非常に速いことがあると思っている。
だから、そこを天才的だと言われることには、特に異論はない。
しかし、私が使っている比較や分析、応用思考は、何も超能力ではない。
問題を見つける。
必要な情報を集める。
共通点を探す。
異なる情報を結びつける。
仮説を立てる。
検証する。
そして、また別の問題に応用する。
やっていることは、基本的にはそれだけである。
私は、こうした問題解決の方法を「文章による方程式」として考えてきた。
数学の数字だけでなく、言葉や現象を使って、問題を解くための関係を組み立てるのである。
もちろん、どんな問題でも同じ方法で正しい答えが出るわけではない。
データが足りなければ、答えは出ない。
前提が間違っていれば、結論も間違う。
その場合には、仮説を修正すればいい。
しかし、この方法を繰り返していれば、問題を解く速度が速くなる可能性はある。
そして、私自身は長年、それを続けてきたのである。
3秒で答えが出たとしても、その3秒だけで能力が完成したわけではない。
それまでに蓄積した知識がある。
何度も比較した経験がある。
間違えたこともある。
考え直したこともある。
ほかの問題に応用したこともある。
そうした経験が、今の情報処理の速さに関係しているのではないか。
私は、そう考えている。
地味な努力だよ。地味な努力。
それなのに、天才だからできると言われてしまったら、どうだろうか。
ほかの人間は、自分にはできないと考えてしまうのではないか。
それでは困るのである。
私が1年かかるかもしれない問題を3秒で解いたとしても、ほかの人が時間をかければ同じ答えにたどり着けるのであれば、その方法を共有すればいい。
1年かかっていたものが半年になるかもしれない。
半年かかっていたものが3か月になるかもしれない。
3か月かかっていたものが1週間になるかもしれない。
そして、ある問題では、ほんの数秒で答えの候補を出せる人が現れるかもしれない。
もちろん、実際にどれだけ時間を短縮できるかは、研究してみなければわからない。
しかし、少なくとも問題解決の方法を共有することには意味があるはずだ。
なぜなら、私が一人で短時間に答えを出せたとしても、世界中の問題を一人で解決することなどできないからである。
だったら、ほかの人たちも同じ方法を使えるようになればいい。
私が以前から、エッセイに自分の仮説や考え方を記録してきた理由の一つも、そこにある。
仮説が正しければ、誰かが研究に利用できるかもしれない。
間違っていれば、その理由を調べることで新しい発見につながるかもしれない。
さらに、問題の解き方そのものが誰かの役に立つ可能性もある。
私は、それでいいと思っている。
世界をより良くするゲーム
私は、人生を一種のゲームのように考えることがある。
ただし、他人を倒して勝つゲームではない。
世界をより良くするためのゲームである。
そこには、さまざまな問題がある。
病気。
貧困。
教育。
差別。
争い。
環境問題。
そして、まだ誰も解決していない問題。
それぞれの人間が、自分の得意な能力を使って解決すればいい。
医学が得意な人は医学を。
数学が得意な人は数学を。
音楽が得意な人は音楽を。
研究が得意な人は研究を。
問題を発見するのが得意な人は、新しい問題を提示すればいい。
すべての人間が万能型である必要などない。
私自身、苦手なことはたくさんある。
名前を覚えるのは苦手だ。
人の顔を見分けるのも難しい。
画像の微妙な違いもわからないことがある。
だから、そういうことは得意な人に任せればいい。
反対に、私が得意な問題を見つけたり、解決方法を考えたりすることなら、私がやればいい。
できることは、できる人がやればいい。
それぞれの人間が自分の能力を理解し、適切な場所で発揮すれば、社会全体の問題解決能力も高まるのではないだろうか。
そして、本当に重要なのは、誰が天才なのかを決めることではない。
どうすれば、今より多くの人が問題を解けるようになるのか。
ということである。
だから私は、天才という言葉だけで説明を終わらせてほしくない。
なぜ答えが速く出るのか。
どのような情報を使っているのか。
どのような手順で結論にたどり着くのか。
その仕組みを調べてほしいのである。
私は、自分が特別だと認めてもらうことよりも、その方法がほかの人にも利用できるようになることのほうが、社会にとって重要だと思っている。
何しろ、私がやってきたのは、別に魔法でも何でもない。
比較して、考えて、応用する。
ただ、それを長年繰り返してきただけなのである。
地味な努力。
地味な努力。
その積み重ねが、結果として非常に速い思考につながっているのではないか。
そして、その仕組みを解明できれば、人間の能力をもっと効率よく伸ばす方法も見つかるかもしれない。
私は、そう考えている。
⸻
本稿では、パソコンの情報処理を例に、人間の脳の能力配分、思考速度、異なる分野の知識を統合する方法について考察した。
筆者が「横計算」「縦計算」と呼んでいるものは、独自の思考方法の分類である。
また、現実の脳にゲームのような固定された能力ポイントが存在することや、特定の能力が低い分だけ別の能力が高くなるという直接的な関係は、科学的に証明されているわけではない。
一方、人間の注意やワーキングメモリーには限界があり、同時に行う課題によって処理が干渉することや、専門的な訓練によって情報処理が効率化されることは研究されている。
本稿の「3秒」「1年」などの時間は、筆者が感じている処理速度の違いを説明するための例であり、比較実験による測定値ではない。
精神科医療に関する記述は、筆者自身の経験と、それに基づく問題提起である。特定の医療分野のすべての医師に共通する実態を示したものではない。
今後、実際に人間の問題解決の速度を研究するのであれば、基礎的な認知能力、過去の学習経験、情報処理の手順、正答率、解答時間などを比較する必要があるだろう。
私が知りたいのは、誰が天才なのかということではない。
人間の思考能力は、どのように発達し、どのような条件で効率化されるのか。
そして、その仕組みを社会全体の問題解決に利用できるのか。
ということである。
私の仮説が正しいかどうかは、研究によって検証してもらいたい。
しかし、仮説が間違っていたとしても、問題を考えること自体が無駄になるわけではない。
正しい答えにたどり着くためには、間違っている可能性も含めて、何度でも考え直せばいいのである。




