脳の能力は極振りできるのか? 後編
脳の能力は極振りできるのか? 後編
ギフテッドは万能型でなければならないのか
前編では、『ドラえもん』『聖闘士星矢』『防振り』の三作品を紹介した。
三人の作家が描いた、能力の配分や特化という発想である。
では、なぜ私はこの三作品を思い出したのだろうか。
それは、私自身の脳に、非常に大きな能力の偏りがあると感じているからである。
そして私は以前から、ある疑問を持っていた。
なぜ私は、特定の問題について、これほど速く答えを出せるのだろうか?
単に知識が多いからだろうか。
記憶力がいいからだろうか。
いや、そうとも思えない。
なぜなら、私には非常に苦手なことがあるからだ。
第四章 私の脳は極振りなのか?
私は相貌失認がある。
人の顔を見て、綺麗だな、かっこいいなと思うことはできる。
しかし、その人が誰なのか、ほかの人と見分けたり、名前と結びつけたりすることが難しい。
例えば、芸能人の顔を見たとする。
顔立ちが綺麗だということはわかる。
しかし、名前がなかなか覚えられない。
また、物事の仕組みや内容については覚えていても、その名称だけが出てこないことが多い。
「あれ、何て言ったっけ?」
「名前忘れちゃったな」
「何だったかな?」
私は、そんなことをしょっちゅう言っている。
今回もそうだった。
整形外科で腰痛の診察を受けたとき、先生がレントゲンを見せてくれた。
骨の一部が、ほんの少し飛び出しているという説明だった。
私はその説明の理屈は理解できた。
しかし、画像を見ても、その微妙な違いがわからないのである。
先生は専門家だから、画像の小さな変化が見える。
だが、私には見分けられない。
「ここが少し違うでしょう」と言われても、わからないものはわからない。
しかも、医師が使った専門用語も、後から思い出せなくなってしまう。
それで私は、やっぱり診察を録音しておかなければ駄目だなと思った。
説明を理解できないわけではない。
ただ、名前が覚えられないのである。
ここを混同されると困る。
顔の識別、画像の微妙な違いの認識、名称を記憶することは、それぞれ異なる能力である。私の場合、それらに苦手な部分がある。
ところが、一方で得意なこともある。
複数の情報を比較する。
ある現象と、まったく別の分野の現象を結びつける。
問題の共通点を見つける。
仮説を立てる。
そして、短時間で答えを導き出す。
私はこういう思考が得意なのである。
ここで、妙なことが起きる。
周囲からは、頭がいいのだから何でもできるだろうと思われることがある。
しかし、そうではない。
できないものはできない。
例えば、苦手な視覚識別を何倍も努力して訓練したら、多少は改善するかもしれない。
だが、私の感覚では、他人よりずっと努力して、ようやく40点に届くかもしれないという程度である。
それなら、得意な分野に同じ時間を使ったほうが、はるかに大きな成果を出せるのではないか。
これは、怠けているという話ではない。
努力に対する成果、つまりコストパフォーマンスの問題である。
苦手を克服すること自体を否定しているわけではない。
生活に必要なら、工夫して身につける努力も必要だろう。
しかし、誰もがすべての能力を平均以上にする必要があるのだろうか。
私はそうは思わない。
そこで、前編で紹介した能力の極振りという考え方が出てくる。
もし私の脳が、ある能力に大きく偏って発達しているのだとしたら?
その偏りは、なぜ生まれたのだろうか。
苦手な能力がある分、別の能力が発達したのか。
それとも、生まれつきの認知特性があり、得意な能力を繰り返し使った結果、さらに発達したのだろうか。
この二つは、まったく同じではない。
しかし、どちらも検討する価値のある仮説だと思う。
そして私は、このような能力の偏りが、ほかの人間にも存在するのではないかと考えている。
第五章 ギフテッドは全部100点でなければならないのか?
以前、私はある研究者の説明に強い疑問を持ったことがある。
私の記憶では、その日本人の研究者は、IQの高い人間はあらゆる能力が高く、万能に問題を解ける人間であるかのような説明をしていた。
そして、すべての能力が高いわけではない人間については、ギフテッドとは認められないという趣旨の説明も聞いた。
その考え方からすれば、私のように能力に極端な偏りがある人間は、単に障害がある人間として分類されることになるのだろう。
私は、それに反発した。
ふざけるな、と。
なぜ、すべての能力が高くなければならないのだ。
ある能力が極端に苦手だからといって、別の能力が突出している可能性まで否定できるのか。
そもそも、能力の平均値が高いことと、一つの能力の最高到達点が高いことは、同じではないではないか。
私が考えたのは、そういうことである。
もちろん、その研究者が当時どのような定義を採用していたのか、発言の全文を今ここで確認しているわけではない。
私の理解や記憶に基づいた話である。
また、その後に説明を訂正したかどうかも知らない。
しかし、少なくとも「すべての能力が高くなければギフテッドではない」という考え方には、現在の研究から見ても問題がある。
アメリカの全米ギフテッド児協会は、ギフテッドを、一つまたは複数の領域で同年代などと比較して高い能力や可能性を示す人として説明している。
すべての領域で万能であることは条件ではない。
さらに、才能と障害・学習上の困難などが併存する場合については、「Twice-Exceptional」、略して2eという概念も存在する。
日本の文部科学省も、特定分野に特異な才能を持つ子供たちについて、才能と学習上の困難が併存する場合があることを説明している。
つまり、才能と苦手な能力は両立するのである。
ここで注意したいのは、私は自分がどの分類に当てはまるかを、ここで決めようとしているわけではないということだ。
実際の知能検査を行わずに、私のIQがいくつだとか、特定の分類に当てはまるとか、そんな結論を出すつもりはない。※IQは検査では125くらい。苦手が障害者一歩手前な為低く出ている。
私が問題にしているのは、もっと基本的なことである。
知的能力の高さを、すべての能力が均等に優れていることと同一視してよいのか。
という問題だ。
例えば、私が書いている小説には、レオンという非常に優秀な精神科医が登場する。
レオンは多くの分野で高い能力を持つ、いわば万能型の人物である。
仮に、さまざまな分野で90点から99点を取れる人物だとしよう。
それは非常に優秀な人間である。
しかし、そのことと、特定の分野で150点に相当する能力を発揮できるかどうかは、別の問題ではないだろうか。
万能型が必ずしも、特化型の最高能力に到達できるとは限らない。
逆に、特化型も、万能型がこなせる仕事を全部こなせるわけではない。
そもそも、競争させる必要があるのだろうか。
それぞれの得意分野が違うだけではないか。
人間の能力というものは、もっと多様な形をしているのではないだろうか。
第六章 なぜ一つの能力に150を使えるのか?
ここで、最初の疑問に戻る。
なぜ、特定の能力だけが突出する人間がいるのだろうか。
私が漫画やゲームから連想したのは、脳の能力配分という考え方だった。
ドラえもんの「いいとこ選択しボード」では、一つの能力を伸ばすと別の能力が下がる。
『聖闘士星矢』では、ある感覚を失うことと別の能力が研ぎ澄まされることが結びつけられている。
『防振り』では、一つの能力に極振りすることで、普通とは異なる強さを獲得する。
では、現実の脳はどうなのだろうか。
実際に脳科学では、経験によって神経回路の働きが変化する「神経可塑性」が研究されている。
さらに、視覚障害などに伴って、通常とは異なる脳の領域が別の感覚の情報処理に参加する現象も確認されている。
これを知ったとき、私は『聖闘士星矢』の設定を思い出した。
ああ、現実にも似た現象があるではないか、と。
ただし、ここには大切な区別がある。
視覚を失った人の脳で交差感覚可塑性が起こることと、名前を覚えるのが苦手な人の論理的思考が速くなることは、同じ現象だと証明されているわけではない。
また、現実の脳に、一定数の能力ポイントを自由に配分する仕組みがあるわけでもない。
脳はゲームのような単純な装置ではないのだ。
それでも、私は疑問を持つ。
ある能力が苦手な人間は、その代わりに別の処理方法を多用するようになるのではないか。
例えば、名前を覚えるのが苦手なら、その人物や物事の特徴、役割、関係性から理解しようとする。
微妙な形の違いを見分けることが苦手なら、言葉や論理を使って理解しようとする。
そういう経験を何年も何十年も繰り返せば、その思考方法が非常に発達する可能性はないのだろうか。
私は、こういう仮説を考えている。
苦手な能力があることによって、別の能力を繰り返し使うようになり、その能力が特に発達する場合があるのではないか。
この考え方なら、単に脳の能力を移し替えるという説明よりも、現実の学習や経験による変化と結びつけやすい。
もちろん、もともとの脳の特性による影響もあるだろう。
また、すべての人間に同じ現象が起こるとも限らない。
研究するなら、実際の認知機能を測定し、生まれつきの能力差と経験による発達を区別する必要がある。
単に「頭がいい」「頭が悪い」と分類するだけでは、この問題は解明できない。
どの能力が得意なのか。
どの能力が苦手なのか。
情報をどのような方法で処理しているのか。
問題を解くまでに、どれだけの時間がかかるのか。
そして、その能力がどのような経験によって発達したのか。
そういうことまで調べて初めて、人間の才能の仕組みが少しずつ見えてくるのではないだろうか。
苦手を克服するより、得意を生かす
私は、すべての人間が万能型になる必要はないと思っている。
もちろん、何でもできる人間は素晴らしい。
だが、ある能力が非常に高い人間に対して、苦手な能力まで平均以上にしろと要求する必要があるのだろうか。
例えば、100時間かけて苦手な分野を40点から50点に上げるより、得意な分野にその100時間を使って、社会に役立つ成果を出したほうがいい場合もある。
もちろん、苦手な能力が日常生活に必要なら、支援や工夫は必要だ。
しかし、努力の量を増やせば何でも解決するわけではない。
それぞれの人間には、得意なことと苦手なことがある。
そして、得意な能力の種類も、到達できる水準も異なる。
だったら、得意なことを得意な人間が担当すればいい。
私は、以前からそう考えている。
できることは、できる人がやればいい。
ある人が苦手な仕事を、別の人なら簡単にできるかもしれない。
その代わり、その人が苦手なことを、最初の人が簡単にできるかもしれない。
人間の能力に偏りがあるからこそ、分業が成り立つのである。
これは、社会全体のコストパフォーマンスを考えても合理的だと思う。
すべての人間に同じ能力を要求するより、得意な能力を生かして協力したほうが、はるかに多くのことができるのではないだろうか。
そして、私自身の脳の謎に戻る
私は、名前を覚えることが苦手である。
顔を識別することも難しい。
画像の微妙な違いがわからないこともある。
その一方で、物事の関係性を比較したり、異なる分野の知識を組み合わせたり、短時間で仮説を導き出したりすることは得意である。
なぜ、このような大きな能力差があるのだろうか。
自分でも、まだ答えはわからない。
ただ、一つだけ言えることがある。
苦手なことがあるからといって、得意なことまで否定される理由はない。
そして、得意なことがあるからといって、苦手なことまで簡単にできるようになるわけでもない。
私は自分の脳を、そういうものとして理解している。
私が『ドラえもん』『聖闘士星矢』『防振り』を引用したのは、単に好きな作品を紹介したかったからではない。
自分の脳の特徴を説明するために、これらの作品が非常にわかりやすかったからである。
一つの能力に150を使える人間がいるとしたら、その仕組みは何なのか。
人間の脳にも、ゲームのような極振りがあるのだろうか。
それとも、まったく別の理由で特定の能力が発達しているのだろうか。
今の私には、そこまではわからない。
だから、研究者に調べてほしいのである。
そして、もし私の仮説が間違っているという結果が出たとしても、それはそれで構わない。
そのときには、なぜ能力に大きな偏りが生まれるのか、別の説明を考えればいい。
私は研究者に、私の考えを無条件に認めてほしいと言っているわけではない。
私が知りたいのは、人間の脳が実際にどのような仕組みで働いているのかということなのだから。
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本稿は、筆者自身の認知特性と、漫画・小説に登場する能力配分の設定から考えた仮説の記録である。
現実の脳に、ゲームのような固定された能力ポイントが存在することは証明されていない。
また、特定の認知機能が苦手であることによって、別の認知能力が必ず高くなるという因果関係も確認されていない。
一方で、脳の可塑性や交差感覚可塑性、認知能力の個人差については研究が進められている。
本稿で使用した「90点」「99点」「150点」という数値は、人間の能力の違いを説明するための比喩であり、実際のIQ検査の結果を表すものではない。
筆者が提案したいのは、人間の能力を単一の数値や万能性だけで評価するのではなく、個々の能力の特徴や発達の仕組みを、より詳細に研究することである。
才能とは何なのか。
苦手な能力と優れた能力は、どのような関係にあるのか。
そして人間の社会は、それぞれの能力をどう生かしていくべきなのか。
これからも考えていきたいテーマである。




