第2話 善意だけでも利益だけでも世界は救えない
第2話 善意だけでも利益だけでも世界は救えない
――人助けを一度きりで終わらせないための計算
世の中には、面白い考え方がある。
力のある人間は、力のない人間を助けるべきだ。
お金持ちは貧しい人たちに施しをするべきだ。
しかも、それを無償の善意で行うことが立派な行為だとされる。
私は、これに疑問を持っている。
もちろん、困っている人を助けること自体はいいことだ。
しかし、自分や家族が一生懸命働いて得たお金を、何の見返りもなく差し出すことを当然の義務にされたら、どうだろう。
「わあ、義務なんだ。嬉しいな!」
と思う人間が、どれだけいるだろうか。
中には、本当に助けたいという気持ちから活動する人もいるだろう。
しかし、義務だから仕方なくやっている人だっている。
一方で、支援を受ける側にも、いろいろな事情や不満がある。
必要のないものを渡されても困る。
支援する側の都合で押しつけられるのも迷惑だ。
それを指摘することは、悪いことではないと思う。
だが、支援を受けた事実と、その支援方法に問題があることは、別々に考える必要がある。
私は『あしながおじさん』を読んだときにも、援助する側と援助される側の関係について、いろいろ考えさせられた。
助けてもらう側にも自由や希望がある。
しかし、助ける側にも生活があり、気持ちがあり、事情があるのだ。
どちらか一方だけを正しいことにしてしまうのは、おかしいと思う。
その場を救うことと、人生を救うこと
例えば、ある村で人々が飢えているとする。
食べ物を配れば、その人たちは助かる。
それは間違いなくよいことだ。
だが、翌日も、翌月も、翌年も同じ状態だったらどうするのか。
食べ物を配り続けるしかないのだろうか。
私は、そこで考える。
その村の人たちが、自分で食べ物を作ったり、買ったりできるようになる方法はないのか。
農業ができないのなら、なぜできないのか。
水が足りないのか。土地に問題があるのか。技術が足りないのか。教育が必要なのか。
商品を作って売ることはできないのか。
交通や流通を改善すれば、仕事を増やせないのか。
そして、それらを実行するために、いくら必要なのか。
ここからが計算である。
当然、飢えて死にそうな人には、まず食べ物を与えなければならない。
だが、緊急支援が終わった後に、どうすれば自立した生活ができるようになるかも考えたい。
支援したことに満足して、その人たちがその後どうなったかを考えないのでは、問題は残ったままだ。
善意だけの人と利益だけの人
私は、善意だけで動く人と、利益だけを追求する人には、共通する欠点があると思っている。
どちらも、必要な条件を一つ見落としているのだ。
利益だけを追求すれば、他人の幸福を軽視してしまうことがある。
反対に、善意だけを追求すれば、活動を続けるための資金が不足してしまう。
一つの村を救って、そこでお金がなくなったら、ほかの村はどうするのか。
三つも四つも困っている地域があるのなら、次の地域を助ける資金も必要ではないか。
だったら、支援活動そのものから利益を生み出せる仕組みを考えればいい。
もちろん、どんな支援でも利益が出るわけではない。採算が取れない人を切り捨てていいわけでもない。
しかし、利益を生める部分では利益を生み、それを再投資すれば、もっと多くの人を助けられる可能性がある。
しかも、支援する人自身も報酬を得ていい。
自分の家族まで犠牲にして、生活を苦しくして、それで立派な人間として祀られる。
私は、そんな生き方を誰にでも求めることには反対である。
本人も幸福で、家族も幸福で、支援される人も幸福になる。
それを目指してはいけない理由が、どこにあるのだろう。
渋沢栄一との共通点
この話をチャッピーにしたところ、渋沢栄一という人物の思想に近いと言われた。
『論語と算盤』。
道徳と経済を両立させるという考え方である。
私は、その考え方を聞いて面白いと思った。
なぜなら、私は渋沢栄一の思想を詳しく知らなかったからだ。
自分で計算して、合理的な方法を探していたら、似た答えが歴史の中に存在していた。
ただし、私が注目しているのは、答えの数字が一致するかどうかではない。
解くための式が同じかどうかである。
時代が違えば、使えるお金も技術も人材も違う。
当然、答えの数字も変わる。
だが、目的を決めて、条件を整理し、必要な資源を計算し、最も合理的な方法を探す。
その考え方には共通する構造があるのではないか。
私は、そこに興味がある。
同じような問題を同じような方法で解けば、時代の違う人間が似た結論に到達することもある。
だからこそ、数学というものは偉大なのだ。
人間を動かす方法も計算できる
ところで、優れた解決策を考えたところで、相手が言うことを聞いてくれるとは限らない。
これは実に厄介な問題である。
例えば、私の母。
私が何を説明しても聞こうとしないことがある。
ところが、近所の人が同じことを言えば聞く。
新聞に書いてあれば信用する。
つまり、母の場合は、話の内容よりも、誰が話したかが判断に大きく影響しているのである。
だったら、その条件を利用すればよい。
私が何度説明しても聞かないなら、本人が信用している人から正しい情報を伝えてもらえばいい。
一度話を聞かなかったからといって、私はその人を諦めない。
どうしたら理解できるのか。どうしたら行動を変えられるのか。
そこからまた計算を始める。
ただし、嘘を信じ込ませる必要はない。
本当の情報でも、伝え方や情報源が違うだけで受け入れられることがあるからだ。
人間は、自分が信じたい相手の話を信用しやすい。
ならば、その心理を理解したうえで、本人にとっても周囲にとってもよい結果につながる方法を探せばいい。
もちろん、本人の判断する自由まで奪っていいわけではない。
私は、相手を苦しめるためではなく、その人自身も苦しまなくなる方法を考えたいのである。
欲望にも理由がある
人間には、さまざまな欲望がある。
愛情が欲しい人もいれば、誰かに理解してほしい人もいる。
幼い頃から努力を強いられ、親に認めてもらえなかった人もいるだろう。
そういう人が、他人に対しておかしな要求をすることもある。
もちろん、相手の事情を理解できたからといって、何でも許されるわけではない。
しかし、なぜそんな要求をするのかを考えることには意味がある。
例えば、人間の温もりを求めている人がいる。
抱きしめてもらいたい。
自分の話を聞いてほしい。
「わかっているよ」と言ってほしい。
そういう欲求まで、単に煩悩だから捨てなさいと片づける必要はないと思う。
犬や猫と触れ合うことで安心する人もいる。
将来、人肌に近い温もりを持ち、話を聞いてくれるロボットが役立つ場面もあるかもしれない。
これは病気を治すという話ではなく、孤独や不安を和らげる選択肢の話である。
人が何を求めているのかを理解し、それを他人を傷つけずに満たせる方法を考える。
そこにも、問題解決の余地がある。
善悪の判断で思考を止めない
私は、悪い行為は悪い行為として判断する。
戦争犯罪も、非人道的な人体実験も、正当化できるものではない。
しかし、そこで得られた記録まで、何の価値もないと決めつけることには疑問を持つ。
もちろん、記録が捏造されていたり、実験方法が不適切で信用できなかったりすれば、科学的な資料として利用できない。
被害者の尊厳や、情報を利用することの倫理的な問題も考えなければならない。
そのうえで、過去の過ちから何を学べるのか。
同じ被害を二度と起こさないために、どの情報を役立てられるのか。
私はそこまで考えたい。
政治も同じだ。
ある政策が失敗したとしても、何もかも失敗だったとは限らない。
何が悪く、何がよかったのか。どういう条件で結果が変わったのか。
それを比較して、次に利用できる知識を探す。
すべての経験は、検討する価値のある資料になりうる。
だから、人生というゲームは面白い。
そして、私が目指すのは、善人として褒められることではない。
善意と利益を両立させ、人々が実際に幸福になる方法を作ること。
助けられた人だけではなく、助けた人も幸福になる。
その仕組みができれば、次の問題にも挑戦できる。
私は、それが合理的な人助けだと考えている。




