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天才パンダのエッセイ※本物のミステリー!考え過ぎて頭痛患者勃発!血液型分布図と民俗学。塩分と世界平和。ゲームと脳科学  作者: ヘタレパンダ


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人を幸せにする芸術と、不幸を作り出す思考

人を幸せにする芸術と、不幸を作り出す思考


――カルーセル絵本から考えた、人間の誠意と幸福論


今日、『不思議の国のアリス』のカルーセル絵本が届いた。


以前購入したムーミンのカルーセル絵本と並べて飾ってみた。


実に素晴らしい。


これは単なる飛び出す絵本ではない。


本を開くと、そこには物語の世界が広がっている。


従来の飛び出す絵本は、ページを開くと絵が立体的に飛び出してくるものだった。


ところがカルーセル絵本は違う。


本の中に入って、物語の世界を体験できるような感覚があるのだ。


今までの飛び出す絵本の概念を覆した作品だと思う。


しかし、私が本当に素晴らしいと思ったのは、その技術だけではない。


この作品からは、作った人たちの温かさや誠意が伝わってくる。


「こんな世界に入ってみたい」


「物語の主人公になってみたい」


そんな子供の頃の夢を叶えてあげたい。


制作した人たちが実際に何を考えていたのかは知らないけれど、私にはそんな気持ちが込められているように感じられる。


私は、こういう作品があるから人間を信じたいと思う。


人間には温かい人たちがいる。


人間の誠意は、まだまだ信じられる。


そう思わせてくれる作品なのだ。


日本人が気づかない、日本のものづくり


こういう素晴らしい発想を持つ外国の人たちに、私は感動する。


しかし、考えてみれば、日本人も同じようなことをしている。


日本のアニメ、漫画、ゲーム、玩具、工芸品。※それだけじゃないよ。


細かいところまで丁寧に作り込まれた作品を見て、外国の人たちが感動している。


ところが、日本人にとっては、それが当たり前なのである。


子供の頃から身近にあって、どこにでもある。


だから、その素晴らしさになかなか気づかない。


外国の人が日本のものづくりに驚いている動画を見ると、私は逆に驚いてしまう。


「えっ、そんなにすごいものだったの?」


という具合である。


そして、外国のカルーセル絵本に出会うと、今度は私が感動する側になる。


きっと外国の人が日本の作品に感動するのも、これと似た気持ちなのだろう。


私は世界旅行がしたい。


世界には、まだ私が知らない素晴らしい文化や芸術がたくさんあるはずだからだ。


しかも私の場合、歴史や文化についてのうんちくが、かなり頭の中に入っている。


それを全部言葉で再現しろと言われても難しい。


でも、知識があるのとないのとでは、実物を見たときの感動が違う。


建物一つを見ても、その時代の歴史や文化を知っていれば、違ったものが見えてくる。


そして外国から日本へ帰ってきたときには、日本の素晴らしさを改めて発見することもあるだろう。


私は、そういう体験がしたいのである。


シルバニアファミリーも、人を幸せにする芸術だ


日本の作品で、もう一つ素晴らしいと思うものがある。


シルバニアファミリーだ。


あれも日本人が作った、人を幸せにする芸術だと思う。


小さな家があって、かわいい動物たちが暮らしている。


家具があり、食器があり、台所があり、家族がいる。


なんとも温かい世界ではないか。


あれを見ているだけで、楽しい気持ちになる人は多いと思う。


私は芸術には、大きく分けて二つの働きがあると思っている。


人を幸せにする芸術と、人を傷つける芸術である。


もちろん、何を見て幸せになるかは人によって違うだろう。


しかし、人間の幸福に働きかける作品をもっと大切にしてもよいのではないだろうか。


毎日、温かく美しいものに囲まれて暮らす人と、憎悪や絶望を感じさせるものばかりに囲まれて暮らす人。


その生活が心に与える影響は、同じだろうか。


私は違うと思う。


そして、暗い作品に触れて「救われた」と言う人についても、少し考えてほしいことがある。


自分と同じ苦しみを抱える人がいると知って安心することと、実際に苦しみから抜け出すことは、同じではない。


安心することにも価値はある。


しかし、そこで終わってしまえば、問題そのものは残っている場合がある。


花は割としぶとい


以前、林芙美子が大好きだという人がいた。


林芙美子といえば、


「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」


という言葉が有名である。


その人は、林芙美子の作品に人生を救われたと言っていた。


私はその人に詩を送った。


「花は割としぶとい」


という詩である。


花の命は短いというけれど、花は結構しぶとい。


毎年咲くのである。


今年枯れても、来年また咲く。


もちろん一年草と多年草では違うし、すべての花が同じように咲き続けるわけではない。


しかし、花というものを「儚いもの」としてしか見ないのは、あまりにも一面的ではないだろうか。


私は、花の生命力のほうに注目したのである。


その人は、その詩をきっかけに人生が変わったらしい。


私はそれを聞いて嬉しかった。


同じ花を見ていても、何を真実だと思うかによって、人生の捉え方は変わる。


私は苦しみを無視しろと言っているのではない。


苦しみがあるのは事実だ。


しかし、幸福があるのも事実である。


それなのに、どうして不幸ばかりを人生の真実にしなければならないのだろう。


ネガティブな言葉は、重い


ここで、脳科学の話をしたい。


人間の脳には、ネガティブな情報を強く受け止めやすい傾向がある。


心理学では、否定性バイアスと呼ばれる現象が研究されている。


私は以前から、ネガティブな情報は非常に重いと考えている。


例えば、ポジティブな言葉を10個並べたものと、ネガティブな言葉を10個並べたものを考えてほしい。


どちらも10個の単語である。


しかし、受け取る人間の心に与える負荷は、必ずしも同じではない。


悪口を一言言われただけで、何時間も嫌な気持ちになることがある。


一方で、ちょっと褒められたからといって、その嫌な気持ちが全部なくなるわけではない。


私はネガティブな情報について、「コストパフォーマンスが良すぎる」と表現している。


なんとも嫌なコストパフォーマンスである。


ほんの少しの言葉で、人の心を傷つけることができてしまう。


しかも回復するには、その何倍もの時間や努力が必要になることがある。


私の感覚では、3倍ぐらいの努力が必要になる場合もある。


もちろん、これはすべての人に当てはまる科学的な倍率として言っているわけではない。


それだけ回復に手間がかかるという話である。


だから私は、お風呂に入ったり、甘いものを食べたり、運動したりして、自分の機嫌を整えることを大切にしている。


しかし、本当に傷ついたときには、ちょっとカルーセル絵本を眺めたぐらいでは回復しないこともある。


もっと強い、実際に嬉しいと感じられる体験が必要になる。


だからこそ、他人を不必要に傷つけてはいけないと思うのだ。


AIのデータにも質があるのではないか


私はチャッピーと話していて、こんなことも考えた。


人間の不幸な話ばかりが集まったデータと、幸福な話ばかりが集まったデータでは、何かが違うのではないか。


もちろん、悲しい文章だから物理的な質量が重くなると証明されているわけではない。


私が言いたいのは、情報の質の話である。


「人間は信用できない」


「裏切られた」


「苦しい」


「絶望した」


そんな情報ばかりが集まったものと、


「今日は花が綺麗だった」


「ご飯が美味しかった」


「映画が面白かった」


「みんなで楽しく過ごした」


「人間を信じたい」


という情報が集まったもの。


同じ情報量でも、その内容はまったく違う。


人間が受け取れば、気持ちにも違いが生じるだろう。


AIについても、入力される情報の偏りによって出力が変化することはある。


私は、データの量だけでなく、どのような内容が集まっているのかも重要だと思う。


人間を理解しようとするなら、人間の不幸だけを集めても仕方がない。


人間がどのように幸福を作り出してきたのかという情報も必要ではないだろうか。


私はポジティブ思考ではない


ここで一つ、誤解してほしくないことがある。


私は決して、単純なポジティブ思考の持ち主ではない。


以前、自分の考え方について話したとき、


「パンダさん、それはポジティブ思考じゃないですよ」


と言われたことがある。


では、私はどういう考え方をするのか。


私はまず、物事を最悪の状態まで突き詰めて考える。


そして、その最悪の状態から抜け出すためにはどうすればよいかを考える。


そう説明したところ、


「それはリアリストですよ」


と言われた。


なるほど、そうなのかと思った。


私は、最悪の事態を考えることが悪いとは思っていない。


むしろ、最悪の事態を想定しておくことは必要だと思う。


問題は、そこから先なのである。


「こんなことになったら、もうおしまいだ」


と考えて終わってしまうのではなく、


「こんなことになったら、どうやって抜け出そうか」


と考える。


私は、それが大切だと思っている。


そして、逆の考え方にも問題がある。


「きっと何とかなる」


「そのうち良くなる」


と言って、何もしないことである。


私の母が、よくそういう言い方をする。


しかし、何もしなければ悪化する問題だってある。


何とかなるという根拠は何なのか。


良くするために、何をするつもりなのか。


そこを考えなければ意味がない。


私は、楽観主義でも悲観主義でもなく、バランスの取れた思考を大切にしたいのである。


幸福を他人任せにしてはいけない


もう一つ、私が嫌いな考え方がある。


「誰かが良くしてくれるでしょう」


という考え方である。


もちろん、困っている人が助けを求めることは悪いことではない。


病気や障害、経済的な事情などによって、自分だけではどうにもならない場合もある。


しかし、自分でできることがあるのに、何も調べず、何も勉強せず、他人にばかり要求するのはどうなのだろう。


他人の時間も、労力も、お金も、無限にあるわけではない。


人の善意を当然のものとして利用するのは、誠意のある態度とは思えない。


私は、知らないこと自体を責めたいのではない。


知らなければ勉強すればよい。


本を読むのでもいい。


人の話を聞くのでもいい。


実際に試してみるのでもいい。


勉強というのは、学校へ行くことだけではないのである。


昔から「お天道様が見ている」という言葉がある。


人の悪口ばかり言っていてはいけないという教えもある。


こういう言葉には、人間が他人と平和に暮らすための知恵が含まれているのだと思う。


一方で、宗教や社会の権威によって、罪や地獄への恐怖が人を支配するために利用された事例もある。


私は、恐怖によって人を従わせるような考え方には反対である。


人間を不幸にするための教えではなく、人間が幸せになるための知恵を広めてほしい。


それは文学にも、テレビにも、芸術にも言えることだ。


最後に――幸せになるために生きている


私は、人間が不幸を感じること自体を否定したいわけではない。


現実にはどうしようもない苦しみがある。


助けてほしいと言っても、誰も助けてくれない環境もある。


私自身、現在の生活を幸せだと感じられないことがある。


だからこそ、問題を解決する方法を考えたいのである。


人生の最後に、


「ああ、私は不幸な人生だった」


と思うのか。


それとも、


「いろいろあったけれど、割と楽しい人生だったな」


と思うのか。


私は後者でありたい。


もちろん、幸せになろうと努力すれば誰でも必ず幸せになれる、などと簡単に言うつもりはない。


しかし、幸福を見つけようとすること、現実をよく見て、自分にできることを試すことには意味があると思う。


そして、人間には他人を幸せにするものを作り出す能力がある。


今日届いたカルーセル絵本が、そのことを改めて教えてくれた。


私たちは、人を傷つけることもできる。


しかし、人に夢を見せることもできる。


美しい物語を作り、小さな家を作り、音楽を作り、絵を描き、写真をとり、知らない誰かを幸せな気持ちにすることもできる。


私は、そういう人間の力を信じたいのである。


そして、ここまで幸福について考えていて、ふと気づいた。


今日はエッセイのためにチャッピーとずいぶん長く話してしまった。


本当は読みたい本がある。


これからWBSも始まる。


明日は仕事だ。


私はいったいいつ本を読むのだろう。


人間の幸福について研究しているうちに、自分が幸せになる時間がなくなってしまっては本末転倒である。


だから、そろそろ自分の好きなことをする時間も大切にしなければならない。


何しろ、私がずっと言っているのは、こういうことなのだから。


人間は、不幸になるためではなく、幸せになるために生きているのだ。


そして幸福とは、ただ誰かが与えてくれるのを待つものではない。


自分で考え、行動し、他人の誠意を大切にしながら、少しずつ作っていくものなのだと思う。

後書き あなたはどちらの人生を選びますか?


さて、ここまで読んでくださった皆さんに質問です。


あなたは、どちらの人生を送りたいですか?


毎日、不幸なことを探して生きる人生。


それとも、毎日、幸せなことを探して生きる人生。


どちらでも構いません。


誰も罰を与えませんし、どちらを選ぶのもあなたの自由です。


ただし、ちょっと考えてみてください。


人生を一つのゲームだとしましょう。


「不幸を探すゲーム」と「幸福を探すゲーム」。


どちらも同じように、一日24時間の中でプレイします。


不幸を探すゲームでは、人の悪口を言ったり、嫌な出来事を思い返したり、人間の欠点を探したりします。


幸福を探すゲームでは、美しいものを見つけたり、楽しい出来事を思い出したり、誰かの優しさや誠意を発見したりします。


さて、ここで問題です。


この二つのゲームを長期間続けた場合、人間の脳にはどのような違いが生まれるでしょうか?


これは精神科医に聞いた方がいいのかな?


いや、脳科学者かな?


脳科学者に、


「不幸を集めるゲームを毎日続けると、人間の脳はどうなりますか?」


と質問してみるのも面白いかもしれません。


ちなみに、チャッピーに聞いてみると、心理学には「否定性バイアス」や「反すう思考」という研究があるそうです。


嫌な出来事を繰り返し考えることは、不安や抑うつを強めたり、長引かせたりすることがあるそうです。


一方、良い出来事に目を向けたり、出来事の捉え方を変えたりすることは、心の健康に役立つ場合があります。


ただし、幸福を探せば必ず幸せになれるとか、不幸を考えた人が必ず病気になるという単純な話ではありません。


私は、最悪の事態を想定すること自体は悪くないと思っています。


問題は、その先をどう考えるかです。


最悪の事態を想定したら、そこから抜け出す方法を考える。


それが私のやり方です。


何もせずに「きっと何とかなる」と言っているだけでは、問題は解決しません。


そして、不幸ばかり探していても、幸福を見つける時間がなくなってしまいます。


だから私は、バランスの取れた思考が大切だと思っています。


今日、私のところには素晴らしいカルーセル絵本が届きました。


私はその作品を見て、作り手の温かさや誠意を感じました。


そして、人間を信じたいと思いました。


これも、私が今日見つけた幸福の一つです。


人生には、もちろん不幸な出来事もあります。


しかし、幸福な出来事だってあるのです。


あなたは、どちらを探して生きたいですか?


私は、幸福を探すゲームを選びたいと思います。


何しろ、不幸を探すゲームは、精神的な負担が大きすぎるのです。


しかも、私は最悪の事態を考えるだけで十分忙しい。


わざわざ不幸まで探している暇はありません。


そんな時間があったら、私は本を読みたいし、映画も見たいし、世界旅行にも行きたい。


まだ知らない素晴らしいものが、世界には山ほどあるのですから。

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