綺麗事だけでは世界は救えない
綺麗事だけでは人は救えない
――自己犠牲を美化する人たちへ。人を助けたいなら、まず計算しろ
私は、人を助けることが嫌いなわけではない。好きなわけでもない。
むしろ、困っている人がいたら助けたいと思うし、理解できないことがある人には何度でも説明してあげたいと思っている。勿論、そうする事で世界が住みやすく、生きやすく変わるからだ。
ただし、条件がある。
相手にも、理解しようとする意思があることだ。金ももらえろ事だ。
私は、自分より能力が低いと感じる人や、まだまだ伸びしろがあると思う人に対して、何度でも説明する。
もちろん、面倒くさいと思うことはある。
「だから、それはさっき説明しただろう!」
と思うことだってある。実際、乱暴な言い方もする。
しかし、相手が一生懸命に理解しようとしているのを見ると、かわいいと思う。
努力している姿に愛情を感じるのである。
ところが、そうではない人間もいる。
「私は頭が悪いから、あなたが全部考えてね」
「私の悩みも全部解決してね」
「私が幸せになる方法も考えてね」
「もちろん無料でね」
ふざけんなよ。
私はお前の召使いではない。
そんな人間に対してまで、無条件に愛情を持たなければならないのだろうか。
人を育てることと、人に利用されることは違う。
今日は、その話をもう少し掘り下げてみたいと思う。
1.どうして優秀な人間は無料で奉仕しなければならないのか
私は、知識やアイデアを提供することに対して、正当な報酬を受け取りたいと思っている。
当たり前ではないか。
仕事をすればお金をもらう。
専門知識を提供すれば対価を受け取る。
それなのに、頭がいいから、優秀だから、人の役に立つからという理由で、何でも無料で提供しなければならないというのは、おかしいと思う。
しかも、そういう要求を断ると、
「調子に乗っている」
「庶民的ではない」
「思いやりがない」
などと言われたりする。
私は、そういう考え方が大嫌いである。
能力のある人間は、みんなのために自分の人生を犠牲にしなければならないのだろうか。
自分の時間も、お金も、健康も、幸福も、すべて後回しにしなければならないのだろうか。
私は旅行にも行きたい。
おいしいものも食べたい。
いろいろな場所を見て、さまざまな経験をしたい。
そして、できることなら、自分の得意な仕事にもっと時間を使いたい。
それの何が悪いのだろう。
私は人間なのである。
人のために働くことと、自分の人生を楽しむことは、両立できるはずではないか。
2.私は超人ではない
どうも世の中には、優秀な人間に対して、何でもできる超人であることを期待する人がいるように思う。
頭を使って仕事をする。
新しいアイデアを考える。
人に知識を教える。
社会の問題を解決する。
そのうえで、料理もする。
掃除もする。
洗濯もする。
片付けもする。
健康管理も全部自分でする。
一体、どれだけ体力があると思っているのだろう。
私は超人ではない。
頭を使ったら疲れるし、身体を使っても疲れる。
一日には24時間しかないのである。
だから私は、経済的に余裕があるのなら、管理栄養士を雇いたいと思っている。
料理の上手な人に、おいしくて健康的な食事を作ってもらいたい。
掃除や片付けだって、必要なら専門家に任せればいい。
それは贅沢なのだろうか。
私は、合理的な役割分担だと思っている。
自分が得意なことを自分でやり、不得意なことや負担の大きいことは、得意な人に任せる。
それこそ適材適所ではないか。
しかも、専門家を雇えば、その人に仕事と収入が生まれる。
私は時間と健康を守れる。
相手は得意な仕事で収入を得られる。
双方に利益がある。
何の問題があるのだろう。
3.健康を犠牲にする生活が美しいのか
私は現在、耳の不調にも悩まされている。
外耳炎については耳掃除の影響もあるだろうし、食生活や血糖の問題も気になっている。
医師から甘いものを控えるように言われたこともある。
もちろん、耳の不調の原因がすべて食生活だと決まったわけではない。薬の影響も含めて、医学的な確認は必要である。
しかし、少なくとも食事を改善して、健康を守りたいとは思っている。
ところが、現実にはストレスもある。
甘いものを食べたり、ジュースを飲んだりして、自分の機嫌を取ることもある。
私はそうやって、なんとか毎日の生活を楽しもうとしているのである。
だったら、もっと健康的で、おいしくて、満足できる食事を専門家に作ってもらえればいいではないか。
ところが、それを贅沢だと言う考え方がある。
では、いつになったら自分の健康を守るためにお金を使っていいのだろう。
身体を壊してからだろうか。
病気が悪化してからだろうか。
それでは遅い場合もある。
私が求めているのは、働かずに遊んで暮らしたいということではない。
自分の能力を発揮し続けるために、自分自身の身体を守りたいということなのである。
人財を大切にしなさいと言いながら、その人財の健康を軽視してどうするのだろう。
これでは本末転倒ではないか。
4.宮沢賢治の生き方を、なぜ他人に強制するのか
私は以前から、宮沢賢治の思想や、それを無条件に素晴らしいと持ち上げる風潮について批判してきた。
もちろん、宮沢賢治に文学的な才能があったことは認めている。
農業教育や肥料の研究など、実際に社会のために活動していたことも理解している。
しかし、文学的な才能と、経済や社会制度を設計する能力は別である。
『雨ニモマケズ』には、自分の欲望を抑え、人のために尽くす理想の姿が描かれている。
そういう人間になりたいと思うことは、本人の自由である。
だが、私はここで聞きたい。
なぜ、それを他人にまで要求するのだろう。
自己犠牲を美しいと思うなら、自分で実践すればいいではないか。
私は、自分の健康や幸福を犠牲にしてまで、その理想に従いたいとは思わない。
そもそも宮沢賢治自身、裕福な家庭の出身であり、家族の経済的な支えを受けていた時期がある。
本人の生活にも、思想と現実の間の葛藤があったはずである。
それなのに、後世の人間が彼を完全無欠の聖人のように描き、その理想だけを取り出して他人に要求する。
それは本当に宮沢賢治を理解したことになるのだろうか。
私は違うと思っている。
本人が抱えていた矛盾も、時代背景も、家庭環境も含めて考えなければ、その人物を理解したことにはならない。
宮沢賢治が好きなら、好きでいればいい。
しかし、それを他人に強制しないでほしい。
私は、私の人生を生きたいのである。
5.苦労することを美徳にするな
私の祖先には、地域の運営や教育、神社に関わる役割を担ってきた人たちがいたと聞いている。
地域を管理したり、税や仕事に関わったり、外交に相当するような交渉をしたりする。
そういう役割を担ってきた家族の歴史がある。
私は、自分の能力のすべてが遺伝で決まっていると言いたいわけではない。
しかし、祖先がどんな役割を果たし、どんな価値観を持っていたのかは、家族の歴史を考えるうえで重要だと思っている。
そして、私は人を教えたり、社会の問題を考えたりすることに強い関心がある。能力も高い。
だからといって、庶民の暮らしを知らなくていいと言いたいわけでもない。
むしろ、実際にその生活を経験したことで理解できたこともあると思う。
しかし、知ることと、その生活を一生続けることは違う。
例えば、水戸黄門が庶民の姿で旅をしたとしても、健康管理や生活上の支援まで放棄しなければならないわけではないだろう。
それに、社会問題を理解する方法は実体験だけではない。
統計を調べる。
現場の人の話を聞く。
生活環境を比較する。
政策の効果を分析する。
そういう方法でも、問題を理解することはできる。
もちろん、数字だけでは見落とすこともあるから、現場の声を聞くことも必要だ。
だが、何もかも自分で経験し、苦しまなければ理解できないというのは、あまりにも非効率ではないだろうか。
私の祖父も、自分の信念から苦労の多い道を選んだ人だった。
その生き方には祖父なりの理由があったのだろう。
しかし、その選択が次の世代の生活に影響したと私は考えている。
祖父が選んだ苦労を、父も、私も、子供たちも引き継がなければならないのだろうか。
私は、そうは思わない。
苦労を経験したのなら、その経験を利用して、次の世代が苦労しなくて済む社会を作ればいい。
それが本当の進歩ではないだろうか。
6.人を助けたいなら、まず相手に何が必要なのか聞け
私は、国際援助についても以前から疑問を持っている。
例えば、何十億円もの寄付をしたという話がある。
それは素晴らしいことなのかもしれない。
しかし、私は金額だけでは判断できないと思っている。
問題は、そのお金を何に使ったのかということである。
以前、アフリカへの医療機器支援について、ある話を見聞きした。
日本から医療機器を寄贈したものの、故障すると現地で修理できず、日本側の対応を待つしかないという問題である。
機械をもらったこと自体はありがたい。
それによって助かった人もいただろう。
しかし、故障して使えなくなったらどうするのか。
修理できる技術者がいない。
交換部品がない。
修理費用も確保されていない。
日本から技術者が来るまで待つ。
それでは、せっかくの高価な医療機器も、長期間使えなくなってしまう。
もちろん、すべての援助がそうだというわけではない。
しかし、実際にこうした問題が指摘されている以上、支援の仕方を考え直す必要があるのではないだろうか。
例えば、予算をすべて機械の購入に使うのではなく、現地の技術者を育てるためにも使う。
医療従事者の教育にも使う。
交換部品の供給体制を作る。
定期点検の費用も確保する。
機械が壊れた場合の修理方法も決めておく。
そして、支援が終わった後も、現地の人たちだけで運営できる仕組みを作る。
そこまで考えて、初めて長く役に立つ援助になるのではないだろうか。
私は、何十億円を寄付したという金額だけで満足してほしくないのである。
そのお金で何人が助かったのか。
何年間、効果が続いたのか。
現地の人たちは自立できるようになったのか。
生活はどれだけ改善したのか。
そこまで調べてほしい。
寄付した金額と、人を助けた成果は、同じではない。
これは非常に重要なことだと思っている。
7.計算すると腹黒いと言われる
私は、こういう話をすると、腹黒いと言われることがある。
どうしてだろう。
人を助けるために、費用対効果を計算する。
限られた予算で、できるだけ多くの人を助ける方法を考える。
その後も効果が続くように、維持管理の費用まで考える。
私は、それが当然だと思っている。
しかし、そういう計算をすると、打算的だとか、腹黒いとか言われることがある。
なるほど。
世の中には、そういうふうに見える人もいるのか。
私としては、少し驚く。
だって、経済学では当たり前の考え方ではないか。
何に投資するのか。
どれだけの費用がかかるのか。
どんな利益があるのか。
どれだけの人が恩恵を受けるのか。
その効果は何年間続くのか。
ほかの方法と比較して、どちらが効率的なのか。
それを考えるのである。
もちろん、すべての価値をお金に換算できるわけではない。
命の価値や、人間の尊厳を単純な金額だけで評価することもできない。
しかし、だからといって計算しなくていいということにはならない。
むしろ、限られた資源で人を助けようとするなら、計算しなければならない。
例えば、同じ一億円で100人を助けられる方法と、1,000人を助けられる方法があったとする。
効果や必要性、支援を受ける人の状況が同じ条件なら、より多くの人を助けられる方法を選ぶことには合理性がある。
しかし、単純に人数だけを比較してはいけない場合もある。
重い病気の人を救うためには、一人当たり多額の費用が必要になることもあるからだ。
だからこそ、事情を調べ、優先順位を考え、結果を予測する必要がある。
私は、そういう計算こそが、人を助けるための知恵だと思っている。
人を利用するための計算と、人を助けるための計算は違う。
その違いぐらい、理解してほしいものである。
8.綺麗事で政治や経済は動かせない
私は、宮沢賢治のような自己犠牲的な理想を、そのまま政治や経済に持ち込むことに疑問を感じている。
もちろん、人を助けたいという気持ちは大切だ。
しかし、その気持ちだけでは国民を豊かにすることはできない。
例えば、国民全員に我慢を要求する。
贅沢をするな。
自分のことより他人を優先しろ。
困っている人のために無償で働け。
それを美しい生き方だと称賛する。
しかし、それで経済は成長するのだろうか。
働く人たちの生活は豊かになるのだろうか。
健康は守られるのだろうか。
新しい技術は生まれるのだろうか。
私は、そこを考える必要があると思っている。
本当に国民を幸せにしたいなら、単に我慢を要求するのではなく、もっと生産性の高い仕組みを作ればいい。
新しい技術を開発する。
教育に投資する。
人材を育てる。
適切な報酬を支払う。
医療や福祉を充実させる。
そして、国民が安心して暮らせるようにする。
それこそ政治や経済の役割ではないだろうか。
国民に苦労を要求するのは簡単である。
しかし、国民が苦労しなくても暮らせる仕組みを作るのは難しい。
だからこそ、政治には知恵と計算が必要なのである。
私は、単に優しい人よりも、優しさを現実の成果に変えられる人が必要だと思っている。
9.人財を育てることと、人財を利用することは違う
私は以前から、人材という言葉を「人財」と考えている。
人間は、使い潰すための材料ではない。
育てるべき財産なのである。
しかし、ここにも勘違いがある。
優秀な人間を育てることと、優秀な人間に何でもやらせることは違う。
例えば、優秀な人がいたとする。
だからといって、その人にすべての仕事を押しつけたらどうなるだろう。
知識を教える。
問題を解決する。
部下を育てる。
新しい企画を考える。
そのうえで、家事も全部自分でやれ。
健康管理も自分でやれ。
休まず働け。
もちろん報酬は少なくても我慢しろ。
そんなことをしていたら、その人は疲れ果ててしまう。
せっかくの能力も発揮できなくなるかもしれない。
これは、人財を育てているのではない。
人財を消耗させているのである。
本当に優秀な人材を活用したいなら、その人が能力を発揮できる環境を整えればいい。
休息が必要なら休ませる。
健康管理が必要なら支援する。
専門家を雇った方が効率的なら雇う。
そして、その人が生み出した価値に見合った報酬を支払う。
それだけのことである。
私は、何も特別なことを要求しているつもりはない。
自分の仕事に集中したい。
健康を守りたい。
自由に旅行したい。
いろいろな経験をしたい。
そして、自分の人生を楽しみたい。
人の役に立つことと、自分が幸せになることは矛盾しない。
むしろ、本人が健康で幸せに暮らせることが、長期的に能力を発揮するための条件になる場合もある。
それを無視して、自己犠牲ばかり要求するのは、合理的な人材育成とは言えないだろう。
10.本当に人を助けたいのなら
結局、私が言いたいことは一つである。
本当に人を助けたいのなら、相手が何を必要としているのかを理解しなければならない。
自分が与えたいものを与えるだけでは、援助にならないこともある。
自分が美しいと思う生き方を、相手に強制してはいけない。
相手には相手の環境がある。
価値観も違う。
健康状態も違う。
経済状況も違う。
能力も違う。
暮らしている環境も違う。
そして、何を幸せだと感じるかも違うのである。
その違いを理解したうえで、何をすれば本当に役に立つのかを考える。
必要なら調査をする。
必要なら計算をする。
必要なら専門家を雇う。
そして、援助した後のことまで責任を持って考える。
それが、本当に人を助けるということではないだろうか。
私は、優秀な人間をさらに優秀に育てたいと思っている。
困っている人がいたら、問題を解決する方法を考えてあげたいとも思っている。
しかし、自分の人生をすべて犠牲にしてまで奉仕したいとは思わない。
そんなことをしていたら、私自身が幸せになれないではないか。
私は人を助けたい。
でも、私も幸せになりたい。
それでいいと思っている。
そもそも、人を助けることと、自分が幸せになることが両立できない社会の方に、問題があるのではないだろうか。
自己犠牲を称賛する前に、自己犠牲をしなくても人を助けられる仕組みを考えてほしい。
それこそ、知恵の使いどころではないか。
綺麗事を言うのは簡単である。
しかし、現実に人を助けるのは難しい。
だからこそ、勉強が必要なのだ。
だからこそ、計算が必要なのだ。
そして、人間に対する理解が必要なのである。
善意があることと、人を助けられることは同じではない。
私は、そう思っている。
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私は、計算することを腹黒いと言われても、別に構わない。
ただし、なぜ計算しているのかぐらいは理解してほしい。
自分だけ儲けたいから計算しているのではない。
同じお金を使うなら、もっと多くの人が幸せになれる方法を合理的に考えたいからである。
そして、私は人を助ける側の人間も幸せになるべきだと思っている。
人を育てる教師も、病気を治療する医師も、研究者も、技術者も、創作者も、それぞれ自分の人生がある。
自分の能力を使って人の役に立ったのなら、正当な対価を得て、自分も幸せになればいいではないか。
そのお金で旅行に行ったっていい。
おいしいものを食べたっていい。
料理人を雇ってもいい。
家事を専門家に任せたっていい。
それを贅沢だと言うなら、私は聞きたい。
では、その人はいつ、自分のために生きていいのだろう。
私は、人間を不幸にするために、人間を助けたいわけではない。
みんなが、できるだけ幸せになる方法を考えたいのである。
そのためには、綺麗事だけでは足りない。
知識も、経験も、計算も必要なのだ。
それを腹黒いと言いたいのなら、好きにすればいい。
ただし、私はこれからも計算する。
その方が、実際に人を助けられる可能性が高くなると思っているからである。
そして何より、私自身も幸せに生きたいのだから。




