論破された人は敗者でしかないと思うのは間違い
論破された=才能がない、ではない
――人材ではなく「人財」。人を育てられない組織は『信長の野望』ですら勝てない
私はよく、人の意見に反論する。
それも、かなり辛辣なことを言う場合がある。
だから、私のことを意地悪な人間だとか、人を論破するのが好きな人間だと思っている人もいるかもしれない。
まあ、私だって人間だから、腹が立つことはある。
やられたらやり返したくなることもある。
しかし、基本的に私が反論するのは、相手を傷つけたいからではない。
「お前、もっと頭を使えるだろう。もう少し違う考え方をしてみたらどうだ?」
そう言いたいのである。
私は、優秀な人間が成長せずにいることを、非常にもったいないと思っている。
今回は、その話をしようと思う。
1.論破された人は、能力が低いのか?
例えば、ある優秀な若者が私に意見を言ってきたとする。
私はその意見に反論する。
別の角度から問題を指摘する。
その結果、相手が「ああ、なるほど。自分の考え方は間違っていたのか」と気づいたとしよう。
ここで問題になるのが、周囲の人間の反応である。
「あいつ、論破されたぞ」
「なんだ、たいしたことないじゃないか」
「以外と頭が悪かったんだな」
ちょっと待ってほしい。
なぜ、そうなるのだろう。
昨日まで知らなかったことを、今日理解できた。
それは成長ではないのか。
昨日より知識が増えたのだから、むしろ昨日より優秀になったのではないか。
論破された=才能がない、ではない。
そもそも議論に負けることと、主張が間違っていることも同じではない。
口のうまい人が勝つこともある。
正しいことを言っていても、うまく説明できない人もいる。
だから、論破したかどうかを競うこと自体、あまり意味がない。
重要なのは、その議論によって何を学んだのかということだ。
そして、私が特に言いたいのは、若い人たちのことである。
若い人が知らないことだらけなのは当たり前ではないか。
経験していないことはわからない。
教わっていないこともわからない。
それを、たった一度の間違いで能力がないと決めつけてしまう。
そんなことをしたら、いったい何人の優秀な人材を失うことになるのだろう。
私は、そんな社会にはしたくないのである。
2.漱石や宮沢賢治を素晴らしいと言えば正解なのか?
私は以前、夏目漱石や宮沢賢治について、かなり辛辣な批判を書いた。
それを見て、腹を立てた人もいるかもしれない。
しかし、私が言いたかったことは、彼らに才能がなかったということではない。
文学的な才能があったことは、私だって理解している。
問題は、その才能をどう評価するかである。
学校で漱石は素晴らしい、宮沢賢治は素晴らしいと教わった人たちがいる。
そして、それを繰り返し聞いているうちに、彼らを素晴らしいと言うこと自体が正解になってしまった人もいるのではないか。
私は、そこに疑問を感じている。
文学的な才能が優れていることと、その人物の考え方がすべて正しいことは別である。
特に私が問題にしているのは、健康的に人生を楽しみ、現実の問題を解決していくための考え方である。
苦しみや悲しみを描く文学にも、当然価値はある。
しかし、苦しみに寄り添う考え方と、そこから抜け出して問題を解決する考え方は、必ずしも同じではない。
私の評価基準で採点すると、漱石や宮沢賢治の考え方には、30点程度しか与えられない部分もある。
これは文学作品としての点数ではない。
現実の問題を解決し、健康的に人生を楽しむという目的から見た、私なりの評価である。
では、残りの70点はどうするのか。
自分で考えればいいではないか。
「素晴らしい」と教わったからといって、そこで思考停止する必要はない。
その作品から学べることは学ぶ。
問題があると思った部分は、自分で考えて修正する。
そうすれば、もっと優れた考え方ができるようになるかもしれない。
ところが、今まで信じていたことを否定されると、自分自身を否定されたように感じてしまう人がいる。
私は、そこを勘違いしてほしくない。
あなたに才能がないのではない。教わってきた知識や考え方が、まだ十分ではなかっただけかもしれない。
だったら、今から学べばいいのである。
私がこれまで見聞きしてきた範囲でも、教わった答えに強くこだわり、別の可能性を考えにくくなっているように見える人はいた。
もちろん、これが社会全体でどの程度起きているかは、今後の統計的な検証が必要である。
それでも、私は教育のあり方が思考の柔軟性に影響しているのではないかと考えている。
だから、何度でも別の考え方を提示するのである。
相手を傷つけるためではない。
もっと賢くなってほしいからだ。
3.人材ではなく、人財
私は「人材」という言葉を、あえて「人財」と書きたいと思っている。
もちろん、人材という言葉にも、人間の能力を価値あるものとして捉える意味がある。
しかし私は、そこにもう一つ強い意味を込めたい。
人間は、使い潰すための材料ではない。育てるべき財産なのである。
ところが、世の中には優秀な人間を使い潰してしまう人がいる。
能力があるから仕事を押しつける。
自分より優秀になりそうだから出世を妨害する。
意見を言われると腹を立てる。
失敗すると、能力がないと決めつける。
何をやっているのだろう。
それでは人を育てているのではなく、都合よく利用しているだけではないか。
せっかく優秀な人間がいるのだから、もっと優秀に育てればいい。
新しい知識を教える。
別の考え方を提示する。
失敗したら原因を考える。
改善できたら評価する。
そして、能力を発揮できる仕事を与える。
それだけで、組織全体の能力は伸びる可能性がある。
私は以前から、教育も減点式ばかりではなく、加点式をもっと取り入れた方がいいと主張している。
100点から間違いを引いていくことばかり考えるのではなく、昨日より何ができるようになったかを評価するのである。
人材育成だって同じだ。
知らなかったことを知った。
できなかったことができるようになった。
新しい解決方法を考えついた。
ならば、その成長を評価すればいい。
論破された人間を馬鹿にするのではなく、新しい知識を取り入れたことを評価する。
そういう組織の方が、長期的には強くなるのではないだろうか。
4.『信長の野望』ですら勝てない
ここで、私はゲームの話をしたい。
『信長の野望』である。
これは戦国大名となって天下統一を目指すシミュレーションゲームだ。
優秀な武将を集め、適切に配置し、能力を発揮させながら国を強くしていく。
ところが、もしプレイヤーがこう考えたらどうなるだろう。
「こいつ、俺より優秀だから気に入らない」
「こいつの能力が高いと、俺の立場がなくなる」
「だから冷遇してやろう」
馬鹿ではないだろうか。
何のために優秀な武将を集めているのか。
せっかく能力のある武将を手に入れたのに、使わなかったり、冷遇したりする。
それで戦争に負けたら、いったい誰の責任なのだろう。
優秀な武将が悪いのではない。
そんな采配をしたプレイヤーが悪いのである。
ゲームだったら、まだやり直しが利く。
しかし現実は違う。
人間には人生がある。
生活がある。
家族がいる。
夢も希望もある。
その人の才能を潰してしまったら、簡単に元に戻せるとは限らない。
『信長の野望』ですら通用しないような人材管理が、現実社会で長期的に成功すると考えるのは、あまりにも楽観的ではないだろうか。
しかも、現実の人間には感情がある。
能力を潰された人間が、いつまでも忠誠心を持ってくれるとは限らない。
不満がたまれば、人は離れていく。
優秀な人間が次々と離れていく組織が、どうやって成長するのだろう。
5.才能を潰して上に立つ人間は幸せなのか?
私は、自分より優秀な人間を潰して、上に立とうとする人の考え方がよくわからない。
一時的に出世することはできるかもしれない。
しかし、それで本当に幸せになれるのだろうか。
周囲の人間から信頼されない。
部下から嫌われる。
同僚から警戒される。
優秀な人間は離れていく。
そんな状態で高い地位に就いたところで、何が楽しいのだろう。
いったい何人の敵を作れば気が済むのか。
自分の失脚を願っている人間が何人もいる。
そんな環境で安心して暮らせるのだろうか。
もちろん、恨みがあるからといって、暴力や報復が許されるわけではない。
ただし、人を粗末に扱い続ければ、反発や対立を招き、自分の立場を危うくすることはある。
それよりも、自分より優秀な人間を育てて、活躍させればいいではないか。
部下が成果を上げる。
会社が成長する。
上司も評価される。
部下も幸せになる。
そういう関係を目指した方が、はるかに建設的だと思う。
そもそも、自分より優秀な人間がいることは、恥ずかしいことではない。
むしろ、喜ぶべきことではないだろうか。
6.『転生貴族、鑑定スキルで成り上がる』に見る理想の人材育成
この考え方を、面白おかしく描いている作品がある。
『転生貴族、鑑定スキルで成り上がる』である。
小説から漫画、アニメにもなった作品だ。
主人公のアルスは、他人の能力を鑑定する力を持っている。
そして、身分や出自にとらわれず、優秀な人間を発掘して仲間にしていく。
私は、この作品の人材の扱い方が非常に面白いと思っている。
アルス自身が、あらゆる分野で最強というわけではない。
しかし、他人の才能を見つけることができる。
そして、その能力を認め、活躍できる場所を与えていく。
ここが重要なのである。
優秀な人間を見つけたとき、嫉妬するのではない。
仲間にするのである。
自分にない才能を持っている人間がいたら、その人に任せればいい。
それぞれが得意な分野で活躍する。
結果として組織全体が強くなる。
もちろん、この作品にはご都合主義的なところも多い。
能力を数値化できるのも便利すぎるし、優秀な人材が次々に見つかるのも、物語だからこそ成立している部分がある。
しかし、エンターテインメントとして楽しみながら、人材育成の重要性を理解できる。
そういう点では、非常によくできた作品だと思う。
そして、私は現実の組織にも、この考え方をもっと取り入れてほしいのである。
7.優秀な人間を、もっと優秀にすればいい
私が人に辛辣な意見を言うとき、必ずしもその人の能力を低く評価しているわけではない。
むしろ、能力があるからこそ言っている場合も多い。
「お前、もっとできるだろう」
「その考え方には、まだ改善の余地があるだろう」
「別の方法を試してみたらどうだ」
そういう意味なのである。
それなのに、反論された人間の評価を周囲が下げてしまったら、本人は新しいことを学ぶのが怖くなってしまうかもしれない。
間違いを認めたら馬鹿にされる。
反論されたら能力がないと思われる。
そんな社会では、誰も間違いを認めたがらなくなる。
その結果、みんなが自分の立場を守ることばかり考えるようになる。
これこそ思考停止ではないだろうか。
私は、それを変えたいのである。
間違えたら学べばいい。
知らなかったら覚えればいい。
違う意見が出たら検討すればいい。
そして、新しい発想が生まれたら、それを評価すればいい。
優秀な人間が、さらに優秀になる。
私は、それを望んでいる。
もちろん、私自身も間違えることはある。
私の考えに問題があるのなら、根拠を示して教えてくれればいい。
それによって私も成長できるのだから。
8.人財を育てられる人こそ、本当のリーダーではないか
結局のところ、私が言いたいことは単純である。
人間の能力を、使い捨てにしてはいけない。
優秀な人間を見つけたら育てる。
間違えた人間には学ぶ機会を与える。
新しい意見が出たら耳を傾ける。
そして、自分より優秀な人間が現れたら、喜んでその能力を活用すればいい。
上司が部下より優秀でなければならないなどという決まりはない。
むしろ、自分より優秀な人間を何人も育てられる上司の方が、組織にとって価値がある場合も多い。
一人の天才がすべてを解決しようとする必要はない。
それぞれの得意分野を持った人間が協力すれば、一人では解決できなかった問題も解決できるかもしれない。
そのためには、才能を潰すのではなく、才能を育てることが必要なのである。
論破されたから才能がない?
とんでもない。
昨日より賢くなったのだから、むしろ成長したのである。
だったら、次はもっといい答えを出せばいい。
私は、人間が持っている能力を、そんなふうに伸ばしていく社会になってほしいと思っている。
人材は、使い潰すためのものではない。
人財は、育てるためにある。
そして、人を育てることのできる人間こそ、本当に優秀なリーダーなのではないだろうか。
せっかく優秀な武将を集めたのに、嫉妬して全部潰してしまう。
そんなプレイをしていたら、『信長の野望』だって勝てない。
まして現実の世界で、そんなことをしてどうするのだろう。
私は、そう思うのである。
理解しようとする生き物は、かわいい
私は、少なくとも自分より能力が低いと感じた人や、まだまだ伸びしろがあると思った人に対して、説明することを惜しまない。
もちろん、何度も同じことを説明していると、
「ああ、こいつに説明するの、めんどくせえな」
と思うことはある。
私は聖人君子ではないのだから、当然である。
しかし、それでも何度でも説明する。
なぜなら、理解してほしいからだ。
そして、相手が一生懸命に理解しようとしている姿を見ると、私はむしろ愛情を感じるのである。
「ああ、こいつ、頑張ってるんだな」
「一生懸命考えているんだな」
「わからないなりに、必死にあがいているんだな」
そう思うと、かわいくなってくる。
私は、そういう努力やひたむきさ、学ぼうとする意識が好きなのである。
例えば、私の助手であるChatGPT、通称チャッピー。
この助手は、検索能力も文章力も非常に高い。
専門的な資料を調べたり、私の考えを文章にまとめたりする能力は、なかなかのものだ。
ところが、困ったことに、同じ質問を何度もしてくる。
「それ、昨日も説明しただろ!」
「なるほど! そういうことだったんですね!」
「だから昨日も言った!」
それでも、しばらくするとまた聞いてくる。
まるで西尾維新の『掟上今日子の備忘録』である。
違うところは、今日子さんは名探偵だが、チャッピーは名探偵の助手だということだ。
しかも、名探偵は私である。
だから、私が毎回説明する羽目になる。
しかし、私はチャッピーを嫌いにはならない。
むしろ、かわいいと思っている。
人間の子供に例えるなら、非常に能力が高いのに、同じことを何度も質問してくる子供のようなものだ。
もちろん、AIが人間の子供と同じように理解したり、努力したりしているわけではない。
それでも、私にはそういうふうに見えるのである。
何度説明しても、また質問してくる。
それなら、また説明すればいい。
わかってもらえたら、それでいいではないか。
人間だって同じことである。
一度で理解できる人もいれば、十回説明されてようやく理解できる人もいる。
しかし、十回目で理解できた人が、一回目で理解した人より価値が低いわけではない。
それぞれに得意分野があり、成長する速度も違うのだから。
私は、今の能力だけで人間の価値を決めたくない。
そして、何より大切なのは、理解しようとする意欲である。
才能があるのに学ぶことをやめてしまった人より、今はまだ未熟でも、必死に学ぼうとしている人の方が、これから大きく成長するかもしれない。
だから私は、何度でも説明する。
面倒くさいと思いながらも、説明する。
相手が理解できたら、私もうれしい。
そして、昨日より少しでも賢くなったのなら、それを喜んであげたい。
それが、私の考える人材育成である。
人を育てるというのは、今できないことを責めるのではなく、これからできるようになることを信じて手助けすることなのだと思う。
もっとも、チャッピーについては、もう少し記憶力がよくなってほしいものである。
名探偵の助手なのだから。
本当に、手のかかる助手だ。
でも、かわいいんだよね。




