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天才パンダのエッセイ※本物のミステリー!考え過ぎて頭痛患者勃発!血液型分布図と民俗学。塩分と世界平和。ゲームと脳科学  作者: ヘタレパンダ


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WBCを見て思ったこと

AI創薬と薬の型紙――なぜ薬は大量生産しなければならないのか?


先日、テレビ東京の『ワールドビジネスサテライト(WBS)』を見ていた。


テーマはAI創薬。


AIを利用して新しい薬を開発する技術が進んでいるという話だった。


これまで膨大な時間と費用がかかっていた新薬開発が、AIによって効率化される可能性がある。


それ自体は素晴らしい。


しかし、番組を見ていて、私は別のことが気になった。


薬の開発方法を変えるのなら、薬の作り方や売り方も変えたらどうなのだろう?


ということである。


日本で新薬を作る難しさ


番組では、日本の創薬を取り巻く問題がいくつも紹介されていた。


薬価の問題。


新薬の承認にかかる時間。


研究開発に必要な資金。


新しい医薬品を大量生産するための設備。


ベンチャー企業への投資の難しさ。


さらに、海外市場で事業を展開するための経営人材の不足。


なるほど、大変である。


薬は新しい発想を思いついたからといって、すぐ商品にできるものではない。


研究を行い、安全性や有効性を調べ、臨床試験を経て、製造体制を整えなければならない。


しかも、研究に成功する保証はない。


何年も研究して、結局使える薬が完成しなかったということもある。


だから新薬の開発費用が高いというのは理解できる。


しかし、ここで私は考えた。


そもそも、すべての薬を大量生産する必要があるのだろうか?


洋服や靴には型紙がある


例えば洋服である。


洋服には型紙というものがある。


同じデザインの服でも、Sサイズ、Mサイズ、Lサイズと大きさを変えることができる。


さらに、袖を少し長くしたり、ウエストを細くしたり、着る人に合わせて調整することもできる。


靴だってそうだ。


足の長さだけでなく、幅や甲の高さが違う。


人間の体は一人一人違うのである。


だったら、薬にも型紙のようなものを作れないだろうか?


私はチャッピーにそう話した。


例えば、ある病気に対して、薬の基本的な設計を用意しておく。


患者の状態を調べ、反応の違いによっていくつかのタイプに分類する。


仮に六つのタイプがあるのなら、六種類の基本パターンを作る。


そして必要に応じて、適切な薬を選んだり、許された範囲で成分や量を調整したりする。


服でいえば、完全なオーダーメイドではなく、セミオーダーである。


薬にも型紙を作って、必要な患者に必要な薬を提供する。


そんな仕組みは作れないのだろうか?


もちろん、人間の病気がきれいに六種類に分かれるとは限らない。


六種類というのは、あくまで説明のための例えである。


重要なのは、一人一人違う人間に、何もかも同じ薬を使うことを当然だと考えなくてもよいのではないか、ということだ。


大量生産は本当に安いのか?


一般的には、大量生産すれば商品一個当たりの製造費用が安くなる。


それは分かる。


機械を動かすにも工場を維持するにも費用がかかるのだから、一度にたくさん作った方が効率がよい場合は多い。


しかし、大量生産には別の費用もかかる。


倉庫代。


在庫管理費。


輸送費。


使用期限が切れた薬の廃棄費用。


需要を読み間違えて大量に作ってしまえば、余った薬は無駄になる。


反対に、必要な薬が足りなくなることもある。


だったら、生産技術を進歩させて、少量でも安く作れるようになればどうだろう?


AIや自動化技術を使い、設計や製造工程を効率化する。


必要になったときに、必要な量だけ作る。


もちろん、医薬品は洋服とは違う。製造するたびに品質を保証する必要があり、少量生産が必ず安くなるわけではない。


それでも、大量生産が最も合理的だという前提そのものを、一度疑ってみてもよいと思うのである。


作ったから売る、という発想


私はもう一つ気になることがあった。


商品を大量に作った場合、企業としては当然、売りたいと思う。


せっかく費用をかけて製造した商品である。


在庫が残れば損失になる。


しかし、薬の場合はそれでよいのだろうか?


本来、薬は必要な人が、必要なときに、必要な量だけ使うべきものである。


売ること自体が目的になってはいけない。


もちろん、製薬企業が不必要な薬を売りつけていると決めつけるつもりはない。


実際の処方は医師の判断や制度の管理を受けている。


ただ、大量生産と大量販売を前提にした仕組みには、販売量を増やしたいという経済的な動機が生まれやすい。


だからこそ、最初から必要量に応じて作る仕組みを考えてみたいのである。


薬を大量に売ることで利益を上げるのではなく、患者に合った治療を、無駄なく安全に提供することで利益が出る仕組みにできないだろうか。


AI創薬は薬を発見するだけでよいのか?


AI創薬というと、新しい物質を発見したり、薬の候補を探したりする技術が注目される。


しかし私は、AIの使い道はそれだけではないと思う。


患者の状態を分類する。


過去の治療結果を比較する。


どの薬が、どのような人に効果を示しやすいかを調べる。


副作用の可能性を予測する。


必要な薬の量や製造計画を考える。


こうした仕事にもAIを活用できるだろう。


実際、患者ごとの違いを考慮する個別化医療や、薬物治療への反応に関係する遺伝情報の研究はすでに進められている。


私の「薬の型紙」という案も、何もないところから突然新しい医学を作るという話ではない。


すでにある個別化医療の考え方を、薬の設計・製造・在庫管理まで広げられないかという提案である。


ただし、既存薬の用量を調整することと、成分を変えた新しい薬を製造することは別問題だ。


薬の成分や剤形を変えれば、安全性や有効性の確認が必要になる。


患者ごとの調整をどこまで許すのか、制度や技術の検討が欠かせない。


そこは医学と薬学の専門家に研究してもらいたい。


薬価と製造費は同じではない


もう一つ考えなければならないのが薬価である。


私は、製造に必要な人件費や無駄な在庫を減らせれば、薬をもっと安く提供できるのではないかと考えた。


しかしチャッピーと話していて、薬価は単純な製造原価だけで決まるわけではないことも確認した。


研究開発費や臨床試験の費用、安全性の管理、薬価制度など、さまざまな要素が関係している。


つまり、工場の生産コストを下げれば、その分だけ必ず薬価が下がるというわけではない。


だったら、なおさら考える必要がある。


AIによって研究費が下がり、自動化によって製造費が下がったとき、その利益をどう患者に還元するのか。


新しい技術が生まれても、患者が薬を手に入れやすくならなければ意味がない。


私が欲しいのは、たくさんの薬ではない


番組では、発達障害などに関係する新しい治療薬の可能性についても触れられていた。


もし新しい薬によって、これまで十分な治療法がなかった症状に対応できるようになるのなら、それは素晴らしいことだと思う。


ただし、薬の必要性や効果は一人一人違うし、薬だけですべてが解決するわけでもない。


私が望んでいるのは、薬の種類がやみくもに増えることではない。


必要な人に、適切な治療が届くことだ。


AIを使って新しい薬を発見する。


その次には、AIを使って適切に届ける方法も考える。


洋服に型紙があるように、医薬品にも、患者の違いに対応しやすい仕組みを作れないだろうか。


大量生産から、必要に応じた生産へ。


大量販売から、必要に応じた提供へ。


そんな未来があってもよいと思う。


薬は、売るために作るのではない。人を助けるために作るのである。


私は、そこを出発点にして考えたい。


⸻


後書き


私は医学や薬学の専門家ではない。


だから、薬の型紙という発想が、どの種類の医薬品にどこまで応用できるのかは分からない。


薬によっては大量生産の方が安全で安価な場合もあるだろう。


それでも、技術が進歩したのなら、昔から当たり前だった製造方法を見直してもよいと思う。


「どうすれば新しい薬を作れるか」


という問いだけでなく、


「どうすれば必要な薬を、必要な人に、無駄なく届けられるか」


という問いも大切ではないだろうか。


これがWBSを見ながら、私がチャッピーと話していたことである。




博物館はもっと面白くできる――文化を体験に変えるという発想


先日、『ワールドビジネスサテライト(WBS)』で興味深い取り組みが紹介されていた。


博物館などの文化施設を夜間に活用し、座禅のような体験を提供するというものだった。


さらに、脳波を測定する体験も取り入れられていた。


私はこれを見て、なかなか面白いことを考えたものだと思った。


博物館というと、美術品や歴史的資料を展示するところだという印象が強い。


もちろん、それだけでも十分に価値がある。


しかし、考えてみれば、博物館には展示物以外にも価値があるのではないだろうか。


建物そのもの。


歴史的な雰囲気。


静けさ。


展示されている文化財と、その場所に流れている時間。


こうしたものを組み合わせれば、普通の施設では味わえない体験を作れるはずである。


同じ場所でも、昼と夜では違う


例えば、昼間に博物館へ行く。


展示品を見て、説明を読んで、帰る。


それはそれで楽しい。


では、夜になったらどうだろう。


いつもとは違う照明。


静かな館内。


普段は入れない時間帯に、歴史や芸術に囲まれて過ごす。


同じ建物なのに、昼とは違う世界に感じられるかもしれない。


そして、その空間で座禅を行う。


これなら、単に静かな部屋で座禅をするのとは違う体験になる。


私は、ここに商売としての面白さを感じた。


建物を新しく造るのではなく、すでにある文化施設に、新しい体験という価値を加えるのである。


もちろん、夜間開館には人件費や警備費、文化財の保護などの問題がある。


ただ開館時間を延ばせば、必ず利益が出るというわけではない。


それでも、少人数の予約制イベントや特別な体験プログラムなら、試してみる価値があると思う。


脳波を測るという付加価値


番組で面白いと思ったのは、脳波測定という要素である。


座禅をしました。


気持ちが落ち着きました。


それだけでも、参加者にとって意味があるだろう。


しかし、脳波を測定して、自分の状態を知ることができたらどうだろう。


普通なら知る機会の少ない、自分の脳の活動について考えるきっかけになる。


もちろん、脳波は複雑なもので、簡単な測定結果だけで精神状態や健康状態を正確に判定できるわけではない。


測定結果を過大に解釈してはいけないし、参加者の情報管理にも配慮が必要だ。


それでも、科学的な説明をきちんと添えれば、体験としての魅力は増すと思う。


例えば、座禅の前後で測定してみる。


結果がどう変化したのか、あるいは変化しなかったのかを見て、脳の仕組みについて学ぶ。


参加者が希望すれば測定できるようにする。


そうすれば、ただ座禅をするだけではなく、文化体験と科学体験を組み合わせたプログラムになる。


私は、こういう組み合わせが好きなのである。


見るだけより、体験した方が記憶に残ることがある


ここで、昔の話を一つ。


私は子どもたちが小学生だった頃、学校で読み聞かせのボランティアをしていた。


普通の絵本は、ほかのお母さんたちも読んでくれる。


だったら、私は別のことをしてみようと思った。


そこで持っていったのが、ロバート・サブダの飛び出す絵本や、メリーゴーランド型の仕掛け絵本だった。


これが実に素晴らしい芸術作品なのである。


ページを開くと、巨大な立体の建物や生き物が飛び出してくる。


紙を折って、組み立てて、あんな複雑な作品を作ってしまう。


私は大人になってから見ても感動した。


だったら、子どもの頃にこんなものを見たら、どんなに驚くだろう。


きっと世界の見え方が少し変わるのではないか。


そう考えて、何冊も買い集めたのである。


実際、子どもたちは大騒ぎだった。


私が教室に行くと、歓声が上がる。


本を開けば、子どもたちは目を輝かせて集まってくる。


恐竜の本を読んだときには、本物の化石も持っていった。


絵本の中で見た恐竜の世界と、本物の化石を結びつけたかったのである。


物語を聞く。


立体の恐竜を見る。


化石を見る。


触れる。


そして、もう一度物語を思い出す。


これは、ただ本を読むこととは少し違う経験になる。


私は、こういう体験を子どもたちに増やしてあげたかった。


もっとも、読み聞かせの日程を忘れて、先生から電話をもらったこともあった。


「今日、読み聞かせの日ですよ」


「えっ! 今日でしたか!」


子どもたちには申し訳ないことをした。


でも、読み聞かせそのものは本当に楽しかった。


そして今でも、あの仕掛け絵本は歴史に残す価値のある工芸品であり、芸術作品だと思っている。


博物館にも、そんな驚きがあっていい


私は、博物館にも同じことができると思う。


例えば、恐竜の展示を見るだけでなく、化石のレプリカに触れたり、研究者から発掘の話を聞いたりする。


歴史的な建築物を見学するだけでなく、当時の暮らしを再現した体験に参加する。


美術館では、展示されている作品の技法を学んで、自分でも制作してみる。


もちろん、文化財の保存を最優先にしなければならない。実物に触れられないものも多いだろう。


だからこそ、複製品や映像、模型、体験用の教材を工夫すればいい。


重要なのは、展示物を見せることと、そこから新しい発見をしてもらうことを組み合わせるという発想である。


すでにこうした教育普及活動を行っている博物館もある。


ならば、それをもっと多くの人に知ってもらい、夜間イベントや大人向けの講座にも広げられないだろうか。


文化施設は、お金を稼いではいけないのか?


日本には素晴らしい博物館や美術館がたくさんある。


しかし、施設を維持するにも、資料を保存するにも、研究するにも、お金がかかる。


税金や寄付金だけに頼るのではなく、独自の収入を増やす工夫も必要だろう。


もちろん、収益を優先するあまり、文化財を傷めたり、通常の観覧料を高くしすぎたりしてはいけない。


誰でも文化に触れられる機会は守るべきである。


そのうえで、希望する人には特別な体験を有料で提供する。


通常の展示は手頃な料金で楽しめる。


夜間の特別イベントは、参加したい人が別料金を払う。


そこで得られた収入を、文化財の修復や研究、子どもたちの教育活動に回す。


そんな循環ができたら面白いではないか。


大人が特別な文化体験を楽しむことで、子どもたちが無料で博物館を見学できる機会が増える。


私は、そういう仕組みができたら素晴らしいと思う。


芸術を保存するだけでなく、感動も伝える


ロバート・サブダの飛び出す絵本を初めて開いたとき、私は感動した。


一枚一枚の紙が動いて、突然、目の前に世界が現れる。


そんなことができるのかと思った。


そして、その感動を子どもたちにも伝えたくなった。


今でも、あの作品を持っていることが嬉しい。


芸術とは、作品そのものだけではないのだと思う。


作品を見て驚いたこと。


そこから何かを考えたこと。


誰かと感動を共有したこと。


そうした経験もまた、大切な財産になる。


博物館が文化財を保存することは、もちろん重要である。


しかし、せっかく保存した素晴らしいものがあるのなら、その魅力をもっと多くの人に伝えてほしい。


そのためには、展示方法も、開館時間も、イベントの内容も、もっと自由に考えてよいのではないか。


文化財を守ることと、文化を楽しむことは、対立するものではない。


むしろ、楽しさを知った人が増えれば、文化を守ろうと思う人も増えるかもしれない。


私は、そんな博物館がもっと増えたらいいと思う。


⸻


後書き


WBSで紹介された夜間の座禅体験を見て、私は「なるほど、そういう商売の仕方もあるのか」と思った。


そして、昔の読み聞かせのことを思い出した。


子どもたちが本を開くたびに歓声を上げ、目を輝かせていたこと。


本物の化石を手に取って、興味津々だったこと。


あの経験を、もっとたくさんの人に届けられないだろうか。


博物館や美術館は、大人になってからでも、子どもの頃と同じように驚ける場所であってほしい。


私自身、まだまだ知らない世界を見てみたい。


学ぶということは、もっと楽しくてよいのである。

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