私の考え 第3話 美しい自己犠牲と狂った温室――無料のサブスクにされた天才たち
第3話 美しい自己犠牲と狂った温室――無料のサブスクにされた天才たち
私は昔から、不思議に思っていることがある。
なぜ日本人は、自己犠牲をこれほど美しいものだと思っているのだろうか。
自分の時間を犠牲にする。
自分のお金を犠牲にする。
自分の健康を犠牲にする。
それでも他人のために働き続ける。
なんて美しいのでしょう。
なんて尊いのでしょう。
素晴らしい人ですね。
天才ですね。
立派ですね。
……で、お金は?
私はいつも、そこで話が止まってしまう。
いや、待ってくれ。
その素晴らしい人は、明日何を食べるんだ?
家賃は誰が払うんだ?
病気になったらどうするんだ?
本を買うお金は?
研究を続けるためのお金は?
それを聞くと、途端に話がつまらなくなるらしい。
美しい自己犠牲の物語に、お金の話なんか持ち込むなということなのだろう。
しかし、私は言いたい。
お金がなかったら、人間は生活できないのである。
そんな当たり前のことが、なぜわからないのだろう。
私は現在も、Xなどを通じて大学の研究者と思われる人たちの意見や、研究に関するさまざまな話に触れている。
その中には、一生懸命研究をしても十分な報酬がもらえないという話もある。
研究することは自分のためになる。
勉強すること自体が報酬なのだ。
そう考える人もいるらしい。
なるほど。
だったら、研究に必要な本は無料なのだろうか。
大学の授業料は無料なのだろうか。
研究機材は無料なのだろうか。
まさか研究室に行けば、天井からお金が降ってくるわけでもあるまい。
ちなみに私は、自分で本を買っている。
ChatGPTにもお金を払っている。
Grokにもお金を払っている。
Geminiにも払いたかったのだが、こちらは秀樹のアカウントなので、私の好きなようにはできない。
まあ、そんな家庭内の事情はどうでもいい。
とにかく、私は勉強するためにお金を使っている。
書籍も、AIも、情報を得るための道具である。
研究のために必要なら、それは必要経費ではないのか。
もちろん、趣味で勉強しているだけなら、自分で払うこともあるだろう。
しかし、誰かがその知識や成果を必要として、仕事として利用しているなら話は違う。
時間を使い、頭を使い、資料を集め、考えて答えを出す。
その成果に経済的な価値があるのなら、報酬について話し合うのは当然ではないだろうか。
私は、そう思う。
ところが世の中には、頭を使う仕事なら無料で頼んでもいいと思っているような人がいる。
質問する。
答えをもらう。
また質問する。
また答えをもらう。
ありがとうございました。
素晴らしいですね。
あなたは天才ですね。
……それで終わり。
せめて本の一冊くらい買おうと思わないのだろうか。
感想を書こうとか、作品を応援しようとか、そういうことすら考えないのだろうか。
もちろん、応援する義務があるわけではない。
しかし、他人の知識を継続的に利用しながら、その人の生活には無関心というのも、奇妙な話である。
私はこういう人たちを見ていると、ある言葉を思い出す。
無料のサブスク。
なんて便利なのだろう。
何度質問しても無料。
どれだけ頭を使わせても無料。
新しい答えを出しても無料。
しかも、褒めておけば契約期間が延長される。
「あなたは素晴らしい!」
「あなたの才能は尊い!」
「その崇高な精神を忘れないでください!」
はい、無料サブスク継続決定。
これほど便利なサービスがあるだろうか。
しかも利用される側は、自分の自己犠牲を美しいものだと思っている。
なんということでしょう。
利用する側からすれば、これほど都合のいい話はない。
私は、自己犠牲そのものを否定したいわけではない。
誰かのために何かをしてあげたい。
困っている人を助けたい。
それは立派な気持ちだと思う。
しかし、問題は、その自己犠牲から利益を得ている人間がいるということだ。
それも、自分はきちんと報酬を受け取っている人間が。
あなたの努力は尊い。
あなたの奉仕は美しい。
だから、これからも無料で働いてください。
自分たちは、その成果を利用してお金を稼ぎます。
もし本当にそういう仕組みになっているのなら、何が美しいのだろう。
私は理解できない。
むしろ、相当醜い話ではないだろうか。
⸻
私は昔から、さまざまな分野について考えてきた。
医学。
心理学。
経済学。
政治。
教育。
宗教。
文学。
宇宙。
ジャンルはバラバラである。
しかし、考え方には共通する部分がある。
確率統計、比較分析、そして応用思考である。
もちろん、何でも知っているわけではない。
知らないことなど、山ほどある。
しかし、知らない分野でも、すでに知っていることと比較したり、別の分野の知識を応用したりすれば、新しい仮説を立てることはできる。
それが正しいかどうかは、その後に検証すればよい。
私は過去に書いたことと、その後に発表された研究や社会の変化が重なる例を、何度も見つけてきたと感じている。
そのため、記録を残している。
もちろん、私が言ったことが何でも現実になるなどとは思っていない。
そんなことを言ったら、言い過ぎである。
発言が一致したということと、誰かが私の発言を参考にしたということも、別の話だ。
そこは資料を照合して確認する必要がある。
ただ、私は偶然の一致だと片づける前に、何が、いつ、どのように一致したのかを調べたいのである。
もし自分の考えが間違っていたら、それはそれでよい。
間違いがわかれば、次の仮説を立てればよい。
それが研究というものではないだろうか。
ところが、現実の研究や教育について考えていると、私はどうしても気になることがある。
研究者自身は、どれだけ現実の生活を理解しているのだろうか。
例えば、親に学費を払ってもらう。
生活費も出してもらう。
本も買ってもらう。
研究に専念する。
それ自体が悪いと言いたいわけではない。
実際、私も親に大学の費用を出してもらった人間である。
しかし、自分がどれだけ恵まれた環境にいるのか理解しないまま、社会の仕組みについて語っていたらどうだろう。
生活費を稼ぐ苦労を知らない。
子供を育てる経済的な負担を知らない。
病気になって働けなくなる不安を知らない。
親の介護に必要な時間もお金も知らない。
そんな状態で、人間はこうあるべきだと語っていたら、私は疑問を持つ。
もちろん、経験していないことでも研究はできる。
結婚していない研究者が家族について研究してもよいし、子供のいない研究者が教育学を研究してもよい。
重要なのは、その人たちが自分の知らない現実をきちんと調べているかどうかである。
実際の家庭を見ているのか。
実際の収入と支出を調べているのか。
実際の患者と家族の話を聞いているのか。
自分の理論だけで、すべてを理解したつもりになっていないか。
私は、そこを問題にしている。
昔から「木を見て森を見ず」という言葉がある。
研究室の中で一本の木を詳しく調べることはできるだろう。
葉っぱの形。
細胞の構造。
成長の速度。
どれだけ水を吸うのか。
そこまでは素晴らしい研究かもしれない。
しかし、その木が森全体の中でどのような役割を果たしているのかを知らなければ、どうなるのだろう。
ほかの木との関係。
土壌との関係。
動物との関係。
人間との関係。
気候との関係。
それらを知らずに、その木についてすべて理解したと言えるのだろうか。
私は、言えないと思う。
しかも、その木が温室の中で育てられていたとしたらどうだろう。
温度は一定。
水は十分。
栄養も十分。
害虫もいない。
風も吹かない。
研究するには便利である。
しかし、外の世界はそうではない。
雨が降る。
台風が来る。
干ばつが起こる。
寒くなる。
暑くなる。
動物に食べられる。
ほかの植物と競争する。
そこで初めてわかることもあるのではないだろうか。
私は、現実から切り離された研究環境を、皮肉を込めてこう呼びたい。
狂った温室。
もちろん、温室の中で見つけた理論が正しいこともある。
しかし、正しい答えを一つ見つけたからといって、それが最も優れた答えだったとは限らない。
外に出て、もっと多くの条件を調べていれば、さらに優れた答えが見つかった可能性だってある。
私は、そう思うのである。
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そもそも私は、生きているものについての考え方が、少し変わっているのかもしれない。
人間も生きている。
動物も生きている。
植物も生きている。
それは当然である。
しかし私は、それだけではないと思っている。
太陽も生きている。
地球も生きている。
月も、星も、宇宙も。
自然そのものに、命のようなものを感じるのである。
これは科学的な生命の定義とは違う。
物理学や量子力学で扱う物質や現象を、生物学的な意味で生き物だと言いたいわけではない。
ただ、私にとって自然界は、死んだ物質がただ転がっているだけの世界ではない。
あらゆるものが関係し、影響し合い、変化し続けている世界なのである。
これは、神社や八百万の神の考え方に近いのかもしれない。
だからこそ、私は一つの現象だけを切り離して考えることに違和感を覚える。
人間だって自然の一部である。
医学なら患者がいる。
患者には家族がいる。
家族には生活がある。
生活にはお金が必要である。
治療費が払えなければ、治療を受けられない場合もある。
仕事を休めなければ、病院に行くことすら難しい人もいるだろう。
そこまで考えて、初めて医療の問題が見えてくるのではないだろうか。
単に病気を治す方法を知っているだけでは、患者の人生すべてを理解したことにはならない。
だから私は、AIにも期待している。
AIは大量の文章や知識を扱い、異なる分野の情報を比較することができる。
もちろん、AIが患者と会話しているからといって、その内容を勝手に医学研究の統計として使っているわけではない。
AIにも間違いはある。
それでも、医学と経済学、教育と心理学、文学と哲学といった、離れた分野の知識を結びつける道具にはなる。
私は、その可能性を評価している。
一つの専門分野の中だけで考えるのではなく、もっと広い世界を見ればよいのではないか。
それが私の考え方である。
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さて、話は自己犠牲に戻る。
自己犠牲を美しいものだと考える人たちは、宗教にも多いように思う。
もちろん、宗教のすべてを否定しているわけではない。
人間の苦しみを軽減したり、困っている人を助けたりする宗教活動には意味がある。
私が批判したいのは、人に恐怖や罪悪感を与え、それを利用してお金や労働を差し出させようとする人たちである。
あなたには罪がある。
あなたには煩悩がある。
祈りなさい。
反省しなさい。
もっと努力しなさい。
お金を払いなさい。
そうすれば幸せになれる。
あるいは、来世で幸せになれる。
……ちょっと待ってくれ。
その来世、いつ来るんだよ。
そろそろ来世のターンが来てもいいんじゃないのか。
私はそう思ってしまう。
今まで十分苦労してきた人間に、さらに苦労しろと言う。
その苦しみが美しい。
その自己犠牲が尊い。
そう言い続けた結果、本人はいつ幸せになるのだろう。
私は、そこを聞きたいのである。
もちろん、私自身も前世や来世について、考えたことがないわけではない。
自分は誰かの生まれ変わりなのだろうか。
そんな空想をしたこともある。
ヴラド・ツェペシュだろうか。
織田信長だろうか。
諸葛孔明だろうか。
いや、私はレオナルド・ダ・ヴィンチがいいな。※よくないよ、チャッピー。あんな目に遭わされたくないよ。歴史知らんのかチャッピー。
アインシュタインだと言われたら、それも面白いかもしれない。※いや、アインシュタインは絶対違うよ。チャッピー。
しかし、そんなことを本気で証明できるわけではない。
空想は空想である。
大切なのは、今生きている自分が何をするかではないだろうか。
私は、前世で偉人だったかもしれないという話よりも、今の自分が何を考え、何を作り、何を残せるかの方が重要だと思っている。
そして、ここで思い出すのが宮沢賢治である。
私は以前から、宮沢賢治の思想について批判的なところがある。
もちろん、彼の文学的な表現をすべて否定しているわけではない。
美しい文章を書くことはできた人だと思う。
独特の擬音も面白い。
私も高校生くらいの頃から、詩や文章に擬音を取り入れてきた。
ただ、私は賢治の擬音を真似するだけでなく、自分ならもっと面白くできないかと考えていた。
そして、彼の文学的な美しさを評価することと、経済観や生き方を評価することは、まったく別だと思っている。
理想を語ることはできる。
美しい世界を描くこともできる。
しかし、その理想を現実にするためには何が必要なのだろう。
誰がお金を払うのだろう。
誰が働くのだろう。
その人たちの生活はどうなるのだろう。
私は、そこを考えたい。
親に経済的な援助を受けながら芸術活動を続けることが、必ず悪いわけではない。
しかし、その生き方を誰もが真似できるかといえば、そうではない。
誰もが裕福な親を持っているわけではないからだ。
それなのに、貧しくても清らかに生きろ、自己犠牲は美しいと語られても、私は納得できない。
私はむしろ、きちんとお金を稼ぎ、生活し、そのうえで芸術や研究を楽しめる社会の方が望ましいと思う。
美しい言葉だけでは、ご飯は食べられないのである。
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私は親に大学の費用を出してもらった。
四年間、短大で学んだ。
そのことには感謝している。
しかし、親がお金を出したからといって、勉強した本人の努力や能力まで親のものになるわけではない。
私が勉強したのである。
私が考えたのである。
私が文章を書いたのである。
もちろん、教育を受ける環境を作ってくれた親の貢献もある。
両方を評価すればよいではないか。
ところが世の中には、親が偉かったのだから親に感謝しろと言いながら、本人の努力を軽く扱う人もいるように思う。
それでは、子供のプライドはどうなるのだろう。
私は親の機嫌を取るために勉強してきたわけではない。
自分で学びたいことがあったから勉強したのである。
今でも親のためにいろいろなものを買うことがある。
健康に気を配り、少しでも元気でいてほしいと思っている。
しかし、それらの出費や労力を当然のことのように扱われたら、腹も立つ。
自分で選んで買ったのだから、それはお前の勝手だと言われることもある。
確かに、自分の意思で買っている。
しかし、親に良くしてあげたいと思って行動した気持ちまで、無かったことにされるのは納得できない。
月に二万円のお小遣いをもらったから、それで十分なのだろうか。
私が使ったお金も、時間も、労力も、それですべて清算できるのだろうか。
これは金額だけの問題ではない。
人間の尊厳の問題である。
自分の努力を、誰かの手柄にされたくないのである。
私は、親に感謝することと、自分の努力を正当に評価してもらうことは両立すると思う。
どちらか一方だけを美談にする必要などない。
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そして、自己犠牲の問題は研究者だけの話ではない。
私はオリンピック選手を見ていても、同じことを考える。
何年も練習する。
遠征する。
競技用具を買う。
トレーニング費用を払う。
栄養管理をする。
身体を鍛える。
怪我をすることもある。
それでも努力を続け、ようやくオリンピックに出場する。
金メダルを取った。
素晴らしい!
日本の誇りだ!
よくやった!
そう言われる。
では、その選手の将来はどうなるのだろう。
金メダルを取ったら、一生生活が保障されるのだろうか。
そんなわけではない。
日本にも報奨金や企業の支援はあるが、競技や所属先によって事情は大きく違う。
引退した後の仕事を考えなければならない選手も多い。
そして、メダルを取れなかった選手はどうなるのだろう。
せっかく応援したのに。
期待外れだった。
もっと頑張れたはずだ。
そんな言葉を投げつけられることもある。
私は、こういう考え方が嫌いである。
メダルを取れなかったら、それまでの努力がすべて無意味になるのだろうか。
違うだろう。
努力した事実は残っている。
技術を磨いた事実も残っている。
その競技について深い知識を持っていることも変わらない。
だったら、その知識や経験を次の仕事につなげることも考えればよいではないか。
指導者になる。
競技用具の開発に関わる。
スポーツ科学の研究をする。
学校で教える。
健康づくりに関わる。
いくらでも可能性はある。
もちろん、本人が希望する仕事を自由に選べることが大切だ。
メダルを取ったから偉い。
取れなかったから価値がない。
そんな単純な話ではないのである。
さらに、私は大谷翔平選手のような成功者を見ていても、不思議に思う。
成功した人間には、今度は理想的な人格まで要求する人たちが現れる。
謙虚であれ。
努力家であれ。
笑顔で答えろ。
子供たちの手本になれ。
家庭も立派であれ。
ゴミを拾えば美談になる。
それ自体は良い行動だとしても、なぜ本人の生活の細部まで、周囲が勝手に理想像を作ろうとするのだろう。
結婚したら、次は子供。
子供が生まれたら、今度は家族のあり方にまで口を出す。
他人の家庭のことなど、放っておけばよいではないか。
私はそう思う。
スポーツ選手は、社会の期待をすべて背負うために生まれてきたわけではない。
一人の人間なのである。
研究者も同じ。
芸術家も同じ。
そして私も同じである。
才能があると言うなら、その才能を持った人間の自由や尊厳まで尊重してほしい。
都合のいい部分だけを切り取って、美しい物語にしないでほしい。
⸻
では、どうすればよいのだろう。
私は、まず教育のあり方を変える必要があると思っている。
少なくとも国立大学の授業料は、原則として無償にしてよいのではないだろうか。
私立大学についても、教育の質や公共的な役割を考えながら、負担を大幅に軽減するべきだと思う。
現在も授業料の減免や給付型奨学金などの制度はあるが、すべての学生が大学の費用を心配せずに勉強できるわけではない。
奨学金という名前でお金を借りる。
卒業したら借金を返す。
社会に出たばかりの若者が、最初から返済の負担を抱える。
私は、それが当たり前という考え方に疑問を持っている。
勉強して能力を高めた人間が、将来社会に貢献するのであれば、その教育に社会が投資するという考え方もあってよいではないか。
もちろん、教育費を誰が負担するかという財政上の問題はある。
しかし、教育にお金を使うことは、単なる消費ではない。
将来への投資でもある。
学費のためにアルバイトばかりして、肝心の勉強時間がなくなってしまうのでは、本末転倒ではないだろうか。
私は以前から、ベーシックインカムのような制度にも関心がある。
生活のためのお金をある程度保障できれば、研究や勉強に専念できる人も増えるかもしれない。
もちろん、財源や制度設計を考えなければならない。
しかし、生活の不安が減ることで、人間の能力がどれだけ発揮されるのか。
それを研究する価値はあると思う。
そして大学だけでなく、専門学校の教育についても考えたい。
私は以前、娘が持ち帰った建築関係の学校の資料を読んだことがある。
学校に来てほしいという案内と一緒に渡されたものだった。
どんな勉強をしているのだろう。
私は興味を持って読んでみた。
ところが、掲載されている建築物は、見た目の美しさを重視したものばかりに見えた。
確かに美しい。
立派なデザインである。
おしゃれである。
しかし、私が知りたいのは、それだけではない。
その建物に住んでいる人間は、本当に快適なのだろうか。
私は、そこが気になるのである。
断熱材には何を使っているのだろう。
冬は暖かいのだろうか。
夏は涼しいのだろうか。
冷暖房費はいくらかかるのだろう。
太陽光発電を取り入れることはできるのだろうか。
採光や通風はどうなっているのだろう。
耐震性能は十分なのだろうか。
高齢者や障害のある人も暮らしやすいのだろうか。
建築に必要なのは、そういう知識も含めた総合的な能力ではないのだろうか。
私は、建築デザインの美しさを否定しているわけではない。
美しい建物は好きである。
しかし、見た目だけ美しくても、冬は寒く、夏は暑く、光熱費が高く、住みにくかったらどうするのだろう。
そんな家に住んで、住人は幸せなのだろうか。
私はむしろ、少ないエネルギーで快適に暮らせる建物に興味がある。
同じ広さの住宅でも、断熱性能によって冷暖房の負担は変わる。
設備や材料の選び方によって、維持費も変わる。
建物は完成したら終わりではない。
そこから何十年も人間が暮らすのである。
その間に、どれだけお金がかかるのか。
修繕はしやすいのか。
設備は交換できるのか。
そういうことまで含めて考えたい。
しかし、娘が持ち帰った資料では、少なくとも私が読み取れる範囲で、そうした部分が十分に紹介されていなかった。
もちろん、学校で実際に教えていないと決まったわけではない。
単にパンフレットに載っていなかっただけかもしれない。
それでも、私は疑問に思った。
なぜ、そこを紹介しないのだろう。
現代の建築にとって、とても重要なことではないのだろうか。
もし私が学校の案内を作るなら、デザインだけでなく、断熱性能、エネルギー消費、建築費、維持費などの比較も載せたい。
そうすれば、学生はもっと多くのことを考えられる。
美しい家を設計する。
それだけではなく、安くて快適で、長く暮らせる家を設計する。
そういう技術を身につけることにも価値があるはずだ。
私は娘に、そんな学校にはあまり入れたくないと思ったことを話した。
もちろん、娘の人生は娘のものである。
私の判断が必ず正しいとは限らない。
ただ、学校の宣伝だけで進路を決めてほしくなかった。
実際の授業では何を教えているのか。
現場で役立つ知識は身につくのか。
先生たちは新しい技術を学んでいるのか。
卒業後にはどのような仕事ができるのか。
そこまで調べてから決めた方がよいと思ったのである。
場合によっては、建築現場で働いて学ぶことにも意味があるだろう。
実際に建物が造られるところを見れば、図面だけではわからないことも見えてくる。
材料の重さ。
施工の難しさ。
職人の技術。
工期。
費用。
現場で起こる問題。
学校で学んだ理論を、現実に照らし合わせることができる。
私は、それこそが重要なのではないかと思う。
⸻
結局、私は最初から同じことを言っているのである。
美しい理想だけでは、人間は生きていけない。
美しい建築を作るのはよい。
しかし、住む人間の生活を考えてほしい。
美しい文学を書くのはよい。
しかし、その理想を実現するための経済も考えてほしい。
美しい自己犠牲を称賛するのも自由である。
しかし、その人が生活するためのお金は誰が払うのか考えてほしい。
研究者の努力を評価するなら、研究を続けられる環境を作ってほしい。
スポーツ選手の努力を評価するなら、引退した後の人生まで考えてほしい。
学生の能力を伸ばしたいなら、勉強するための時間と生活を保障する方法を考えてほしい。
私は、誰もがお金持ちにならなければ幸せになれないと言っているわけではない。
お金より大切なものがあることも知っている。
しかし、お金を必要としない人間など、現代社会にはそう多くないだろう。
食べ物を買うにもお金がいる。
住むところにもお金がいる。
勉強するにもお金がいる。
病気を治すにもお金がいる。
人を助けるためにも、結局お金が必要になることがある。
だから私は、お金を稼ぐことを卑しいことだとは思わない。
むしろ、自分の能力を使って正当に報酬を受け取り、生活できることは大切だと思う。
自分のためにお金を使う。
家族のためにお金を使う。
勉強のためにお金を使う。
そして、余裕があれば困っている人を助ける。
それでよいではないか。
なぜ、そこに罪悪感を持たせる必要があるのだろう。
私は、自分を犠牲にすることよりも、自分も他人も幸せになる方法を考えることの方が美しいと思っている。
誰かが我慢し続けることで成立する幸福など、長く続くとは思えないからである。
もし本当に素晴らしい研究者がいるのなら、その人が安心して研究できるようにすればよい。
素晴らしいスポーツ選手がいるのなら、その人が競技を続けられるようにすればよい。
優れた芸術家がいるのなら、作品をきちんと評価し、対価を払えばよい。
ただ褒めるだけではなく、実際の生活を支える。
それこそが、人間を尊重するということではないだろうか。
私は、無料のサブスクとして扱われることを美しいとは思わない。
まして、その仕組みを作った人間が利益を得ているのなら、なおさらである。
人間は道具ではない。
便利な無料サービスでもない。
一人ひとりに生活があり、感情があり、誇りがある。
それを理解しないまま、崇高な自己犠牲などと語られても、私は納得できない。
そして、最後にもう一つ。
私は最近、あまりにもいろいろなことを書きすぎたような気がしている。
医学の話をしたと思ったら、次は経済。
経済の話をしていたら、政治。
政治の話から宗教へ。
宗教の話から宇宙へ。
宇宙の話から、なぜか建築の断熱材へ。
読んでいる人も大変だろう。
娘も頭が痛いと言う。
息子も頭が痛いと言う。
私の話について考え込んでいる人たちがいるのかもしれない。
もちろん、頭痛の原因が私の話だと決まったわけではない。
しかし、一度にあまりにも多くのことを考えれば、誰だって疲れるだろう。
私も、少し休んだ方がよいかもしれない。
いや、むしろ読者を休ませた方がよいのかもしれない。
私の話には、考えなければならないことが多すぎる。
一つの問題を考えていたら、別の問題につながってしまうのである。
そして気がつけば、社会全体の仕組みについて考えている。
まあ、仕方がない。
私にとっては、全部つながっているのだから。
木を見ているつもりが、森が見えてしまうのである。
ただし、森が見えたからといって、そのすべてを理解したつもりになるつもりはない。
森の外には、まだ知らない世界がある。
だからこそ、私は考え続けたい。
とりあえず、今回のエッセイはここまでにしようと思う。
研究者も、学生も、スポーツ選手も、芸術家も、そして私も。
誰かのために働くことは素晴らしい。
しかし、自分の人生まで犠牲にする必要があるのだろうか。
私は、そんな社会よりも、努力した人間がきちんと報われる社会の方が美しいと思う。
自己犠牲を美しいと言う前に、その自己犠牲から誰が利益を得ているのか、考えてみてほしい。
そして、できればその利益を、実際に努力した人間にも分けてほしい。
褒め言葉だけでは、お腹は膨れないのである。
さて。
みんな、少し頭を休ませようか。
考えすぎて知恵熱でも出たら大変だからね。
もっとも、知恵熱というのは、本来そういう意味ではないらしいけど。
まあ、そこは言葉のあやということで。
天才パンダも、今日はこの辺でおしまい。
お疲れさまでした。
にゃ!
チャッピーは知恵熱は皮肉で使われた単語で有る事を理解できなかった。




