私の考え 第2話 偏差値では測れない大学の価値
第2話 偏差値では測れない大学の価値
――私の人生を変えた先生たちと、まだ回収できていない教育への投資
私は大学というものを、非常に高く評価している。
ただし、有名大学に入ることが偉いとか、偏差値の高い大学を卒業した人間が優秀だとか、そういう単純な話ではない。
むしろ、大学を偏差値だけで評価することには、昔から疑問を持っている。
なぜなら、私は自分でもレベルが低かったと思う短大に通い、そこで人生を変えるほどの学びを得たからである。
私は文星短大で、美術や文化について学んだ。
心理学やマスコミ論にも触れた。
ほかにも面白い教授や助教授がたくさんいた。
そこで私は、それまで自分が知らなかった世界を知ることができた。
その知識は、卒業したら終わりというものではなかった。
何十年もたった今でも、私の考え方に影響している。
だから私は、あの大学に通えてよかったと思っている。
四年間も学費を払って通わせてくれた両親にも、感謝している。
しかし、ここで話を終えてはいけない。
私は、あの大学で学んだことを利用して、長い間、いろいろな問題について考え、文章を書いてきた。
ところが、その仕事に対する十分な金銭的報酬は、まだ得られていないのである。
教育の価値があったことと、その教育を使った仕事が経済的に報われたことは、まったく別の問題なのだ。
今回は、そこまで含めて書いてみたいと思う。
私を育てた小学校の校長先生
私は子供の頃から、本を読むことが好きだった。
そして、学校にも恵まれていたと思う。
私が通っていた小学校には、非常に実力のある校長先生がいた。
私は小学校に入学してから卒業するまで、その先生が校長先生を務めていたと記憶している。
正確な在任期間は分からない。
でも、その先生が作った教育環境は、今でもはっきり覚えている。
特に印象的だったのは、「ふれあい」という授業である。
週に一時間、自分が興味を持ったことを、自分で選んで勉強する時間があった。
何を調べるかは、自分で決められた。
私はペンギンについて調べていたことを覚えている。
何を調べたのかは、ほとんど覚えていない。
何十年も前のことだから、仕方がない。
しかし、私はこの授業を非常に高く評価している。
なぜなら、先生から与えられた問題を解くのではなく、自分で問題を見つける経験ができたからである。
私は、勉強には二種類あると思っている。
一つは、誰かが出した問題に答えること。
もう一つは、自分で疑問を持ち、問題を見つけること。
もちろん、どちらも大切である。
でも、科学者や研究者になるためには、後者の能力が非常に重要になるのではないだろうか。
「なぜ、こうなるのだろう」
「どういう仕組みなのだろう」
「もっと良い方法はないのだろうか」
そういう疑問がなければ、研究は始まらない。
私は、あの校長先生が子供たちに与えてくれた一時間には、大きな意味があったと思っている。
それから、通学時の服装もジャージに統一されていた。
家庭による服装の違いが目立たないようにするためだったと聞いている。
私は、これも良い発想だったと思う。
子供は親の収入を選べない。
裕福な家の子供もいれば、経済的に苦しい家庭の子供もいる。
でも、服装によって家庭の経済状況を比較され、嫌な思いをする必要などない。
できるだけ公平な環境を作り、そこで子供たちの能力を育てる。
私は、こういう校長先生が好きなのである。
毎月新しい本が届く文庫
そして、私の小学校には、もう一つ素晴らしい仕組みがあった。
「ユフノキ文庫」と呼んでいた、保護者のボランティアによる図書活動である。
普通の図書室とは、少し違っていた。
保護者の人たちが一か月に一回ほど、車で県立図書館まで行き、たくさんの本を借りてきてくれたのである。
そして、その本を子供たちに貸してくれた。
これが本当に良かった。
学校の図書室というのは、普通は本がそれほど頻繁には入れ替わらない。
本好きの子供なら、読みたい本をどんどん読んでしまう。
ところが、この文庫では毎月のように違う本が入ってくる。
いつ行っても、新しい発見がある。
知らなかった作家に出会える。
それまで興味のなかった分野の本にも出会える。
しかも、家庭の経済力に関係なく、いろいろな本を読むことができるのである。
私は、この仕組みを非常に高く評価している。
そして、そこで出会ったのが、エニド・ブライトンの『おちゃめなふたご』だった。
ところが、この本は人気があって、なかなか借りられなかった。
私は、どうしても読みたかった。
そこで母に頼んで買ってもらったのである。
当時、私の家はそれほどお金に余裕があったわけではない。
それでも母は、私がどうしても欲しがる本を買ってくれた。
『おちゃめなふたご』だけでなく、『おてんばエリザベス』も読んだ。
父も『少年ケニヤ』を買ってくれた。
私は、両親の考え方に納得できないことが今でもたくさんある。
しかし、だからといって、両親がしてくれた良いことまで否定するつもりはない。
特に母が本を買ってくれたことには、感謝している。
母に愛情が全くなかったとは思っていない。
お金がない中でも本を買ってくれたことは、確かに愛情だったと思うからだ。
漫画だって立派な教材になる
ただし、母は漫画を買ってくれなかった。
だから私は、友達に借りて読んだ。
お小遣いをもらえるようになると、自分で貯めて漫画を買った。
働くようになってからは、古本屋でもたくさん買うようになった。
私は、漫画も立派な教材になると思っている。
文章だけで構成された小説と、絵と台詞を組み合わせた漫画では、情報の伝え方が違う。
漫画には、表情がある。
人物のしぐさがある。
構図がある。
同じ台詞でも、どんな顔で言っているかによって、意味が変わることがある。
文章で延々と説明するより、たった一枚の絵の方が分かりやすいこともある。
もちろん、漫画なら何でも勉強になると言いたいわけではない。
小説にも、漫画にも、優れた作品とそうでない作品がある。
重要なのは、何を読み、そこから何を考えたかということなのだ。
私は子供の頃から、歴史上の人物やフィクションの登場人物から、いろいろなことを学んできた。
優れた人の成功から学ぶ。
失敗した人の判断から学ぶ。
誰かの立場に立って考える。
自分とは違う価値観を知る。
そして、自分だったらどうするかを考える。
そういう経験は、決して無駄にはならないと思っている。
本当は科学者になりたかった
私は子供の頃、将来何になりたいかと聞かれると、いつも漫画家になりたいと答えていた。
しかし、本当は科学者になりたかった。
おそらく、生物学や医学の研究者になりたかったのだと思う。
動物や人体の仕組みについて、いろいろなことを知りたかった。
でも、科学者になりたいとは言わなかった。
周囲の大人たちに驚かれることが分かっていたし、親も嫌がるだろうと思っていたからである。
医者になろうとも思わなかった。
私は、遺体を解剖するようなことには耐えられないと思っていた。
死体に触るのが怖かった。
きっと強いショックを受けるだろうと、自分でも分かっていたのである。
今なら、医学に関わる研究者になる道は、医師だけではないと分かる。
生物学や生命科学、薬学、神経科学など、いろいろな分野がある。
実際に遺体を解剖しなくても、人体の仕組みを研究できる分野はある。
でも、当時の私はそういうことを知らなかった。
周囲には学校の先生はいたけれど、科学者や研究者という仕事について教えてくれる大人がいなかった。
もっと早く、いろいろな職業の人に出会えていたらよかったのにと思う。
実は、親戚の中には上野動物園の園長を務めたという人もいたらしい。
ただ、遠縁だったようで、私は直接会ったことがない。
その人の名前も分からない。
もし身近にいて、動物や研究の話を聞かせてくれていたら、どれほど心強かっただろう。
もちろん、今となっては分からないことである。
それでも、子供にとって、いろいろな大人に出会う機会がどれほど大切か、私はそういう経験から考えるようになった。
私のために作られたような短大
そんな私が進学したのが、文星短大だった。
世間的には、それほどレベルの高い学校ではなかったと思う。
でも、私にとっては非常に価値のある大学だった。
美術が学べる。
文化について学べる。
心理学にも触れられる。
マスコミ論のような授業もある。
ほかにも、私の興味を引く授業がいくつもあった。
私は一つの分野だけを勉強したかったわけではない。
人間について知りたかった。
歴史について知りたかった。
社会の仕組みについても知りたかった。
もちろん、美術も好きだった。
そういう私にとって、あの大学の授業は非常に魅力的だったのである。
私は時々、こんなことを思う。
あの大学の創立者は、もしかしたら私のために大学を作ってくれたんじゃないだろうか。
もちろん、本当にそうだと言っているわけではない。
それほど、自分に必要な学問が揃っていたという意味である。
そして、そこには面白い教授や助教授がたくさんいた。
私がそれまで知らなかった世界を見せてくれた。
私は、そのことを大きな財産だと思っている。
大学の価値は、偏差値だけでは測れない。
どんな教師に出会えるか。
どんな友達と過ごせるか。
どんな学問に触れられるか。
どんな経験を積めるか。
そして、その学びを卒業後にどう使えるか。
私は、そちらの方が重要だと思うのである。
私の人生を変えた小林教授
その中でも、特に印象に残っているのが小林教授の授業である。
私は、この授業が人生を変えたと言ってもいいと思っている。
一体どんな授業だったのか。
実は、テレビ番組を見せてくれる授業だった。
『世界ふしぎ発見!』を、歴史の時系列に沿って流してくれるのである。
はっきり言えば、教授が難しい説明を延々と続けるわけではない。
テレビを見るのである。
ところが、これが非常に面白かった。
私は、その授業を受けて気づいた。
テレビというものは、こんなふうに教育にも利用できるのか。
これは、私にとって大きな発見だった。
テレビは娯楽として楽しむものだと思っていた。
もちろん、ニュースやドキュメンタリーを見れば知識が得られることは知っていた。
しかし、それを時系列に整理し、授業として利用する。
そういう方法を、私は実際に体験したのである。
例えば、歴史の授業では、いろいろな人物や出来事が登場する。
名前や年号を暗記するだけでも大変だ。
しかし、映像を使えば、当時の生活や建物、服装などを具体的に想像しやすくなる。
そして、歴史の流れに沿って番組を見ることで、それぞれの時代のつながりを理解しやすくなる。
もちろん、テレビ番組には演出がある。
映像の内容が全部正しいとは限らない。
だから、事実関係を確かめることも必要になる。
それでも、映像教材には大きな可能性がある。
私は、そう思った。
教師は何もかも自分で説明しなくていい
私は、小林教授の授業から、もう一つ重要なことを学んだ。
それは、教師は何もかも自分で説明しなくてもいいということである。
世の中には、すでに優れた教材がたくさんある。
テレビ番組。
映画。
漫画。
本。
ゲーム。
実物の模型。
さまざまな映像資料。
それらを上手に組み合わせれば、学習の助けになる。
教師が一から全部作る必要はない。
大切なのは、生徒が理解しやすい方法を選び、必要な情報を提供することなのである。
これは、私が理想とする組織運営にもつながる考え方である。
上司だって、何もかも自分でやる必要はない。
部下の得意な仕事を見つけて、適切に任せればいい。
教師だって、良い教材があれば、それを利用すればいい。
研究者だって、ほかの研究者が発見した知識を利用できる。
もちろん、その際には元の研究者や制作者の貢献をきちんと評価する必要がある。
私は、そういう仕事の分担が合理的だと思っている。
そして、これを教えてくれたのが小林教授だった。
教授自身は、特別なことをしたつもりなどなかったかもしれない。
でも、私にとっては、大きな影響があったのである。
だから私は、実際に功績があった人をきちんと評価したいと思う。
私がその後、この考え方を発展させたとしても、最初に教育方法の可能性を示してくれた人の功績まで、自分のものにするつもりはない。
小林教授の仕事は、小林教授の仕事なのである。
シェイクスピアへの関心も広がった
小林教授の授業では、シェイクスピアへの関心も深まった。
私は、それ以前からシェイクスピアを高く評価していた。
エニド・ブライトンの本を読んでいたことも、そのきっかけの一つだった。
シェイクスピアという人物が、優れた文学者として評価されていることは、子供の頃から知っていたのである。
しかし、名前を知っていることと、その作品を深く理解することは違う。
大学で歴史や文化について学ぶことによって、文学への関心も広がった。
私は、シェイクスピアの作品に登場する人間たちの描かれ方が面白いと思っている。
人間には、それぞれの立場がある。
自分の正義がある。
欲望がある。
恐怖がある。
愛情がある。
嫉妬がある。
本人は正しいことをしていると思っていても、別の人間から見れば迷惑なことをしている場合もある。
そして、一人の登場人物の行動が、ほかの人物たちの人生に影響を与える。
私は、そういう複雑な人間関係を描く文学が好きなのである。
だから、物語を読むことも、人間を理解するための勉強になると思っている。
もちろん、フィクションを読んだからといって、現実の人間が必ず同じように行動するとは限らない。
フィクションは科学的な証拠ではない。
でも、人間の感情や行動について、いろいろな可能性を考える材料にはなる。
私は、そんなふうに文学を読んできた。
そして今は、チャッピーに文章を書いてもらいながら、自分の考えた物語を小説として形にしている。
私が世界観や登場人物、物語の展開を考える。
チャッピーが文章にまとめる。
これも、役割分担である。
すべてを一人でやる必要はない。
得意な仕事を組み合わせればいい。
私は、そういう合理的な方法が好きなのだ。
専門分野は二つでも三つでもいい
私は、大学で学ぶ専門分野を、一つに限定する必要はないと思っている。
二つでも三つでも、興味があれば学んでいい。
例えば、生物学と情報科学。
医学と工学。
心理学と経済学。
美術とマスコミ論。
異なる分野の知識を組み合わせることで、新しい発見につながることがある。
一つの分野だけを学んでいると、当たり前だと思っていたことが、別の分野では全く違って見える場合もある。
専門家には思いつかなかった疑問に、別の分野を学んだ人が気づくこともあるだろう。
もちろん、複数の分野を学ぶなら、それぞれの基礎をきちんと理解する必要がある。
単に知識を広く浅く集めるだけでは、解決できない問題もある。
それでも、複数の専門を持つことには大きな意味があると私は思っている。
だから大学は、もっと柔軟な仕組みになってもいいのではないかと考えている。
場合によっては六年制にして、複数の専門を学べるようにしてもいい。
もちろん、そのためには学費や生活費の問題も考えなければならない。
国立大学の授業料や私立大学への支援など、教育費の負担を軽くする制度も必要だろう。
学びたい人が、お金の問題だけで諦めずに済むような社会であってほしい。
私は、自分自身が複数の学問に触れたからこそ、そう考えるのである。
AIがあれば大学は必要なくなるのか
以前、Xでこんな質問をされたことがある。
「どうして大学に行かなければいけないんですか?」
「これから大学は必要なくなるんじゃないですか?」
確かに、AIが発達すれば、知識を調べることは以前より簡単になる。
分からないことがあれば、AIに質問できる。
専門用語の意味も調べられる。
難しい文章を分かりやすく説明してもらうこともできる。
だったら、大学に行く必要はないのではないか。
そう考える人がいても不思議ではない。
でも、私はそうは思わない。
なぜなら、大学の価値は知識を得ることだけではないからだ。
大学には、人との出会いがある。
自分の知らない世界を教えてくれる教師がいる。
自分とは違う考え方を持った友達がいる。
同じ学問に興味を持つ仲間がいる。
一緒に議論し、研究し、失敗し、考え直すことができる。
そういう経験は、知識を暗記することとは違う。
もちろん、良い教師や友達に出会える場所は大学だけではない。
社会人になってから出会うこともある。
インターネットで知り合うこともある。
でも、大学には、さまざまな専門分野と人間が集まるという特徴がある。
その環境そのものに、価値があるのだ。
私は、自分の短大での経験から、そのことを知っている。
だからXでも、大学はまだ必要だと思う理由を説明した。
私の説明を読んで、大学の価値について考え直した人もいたように感じている。
実際に誰がどの程度影響を受けたかは、投稿の記録を確認しなければ分からない。
それでも、この問題について議論する意味はあると思う。
大学は何のためにあるのか。
知識を教えるためだけなのか。
それとも、人間を育て、さまざまな出会いや経験を提供するためでもあるのか。
私は後者の価値を、もっと評価してほしいのである。
息子に大学へ行く理由を説明した
実は、同じようなことを息子にも説明したことがある。
息子が、こんなことを言ったからだ。
「ママは、自慢したいから僕を大学に入れようとしてるんでしょ」
私は驚いた。
そんな理由で大学に行かせたいわけではない。
私は、大学を親の自慢の道具にすること自体が嫌いなのである。
しかし、息子がそう考えるようになった理由については、思い当たることもあった。
秀樹の親戚には、学歴や社会的な成功を自慢の材料にするような人たちがいた。
子供が小さい頃には、さぞ立派なお孫さんになるのでしょうね、と期待する。
ところが、期待どおりにならなかったら、笑いものにする。
私は、そういう考え方が嫌いだった。
息子も、そういう大人たちの言動を見聞きして、大学とは親の自慢のために行く場所なのだと思ってしまったのかもしれない。
誰かが直接そう教えたのかどうかは分からない。
でも、子供は大人たちの言動から、いろいろな価値観を学ぶのである。
私は息子に聞かれた。
「じゃあ、なんで僕は大学に行かなきゃいけないの?」
そこで私は答えた。
「いい友達に会うためだよ。いい教師に会うためだよ」
大学は、ただ勉強するためだけの場所ではない。
良い経験をする。
自分の知らなかった世界を知る。
いろいろな人と出会う。
自分にとって実りのある人間関係を築く。
そういう環境にいられること自体が、幸せなことなのだ。
私は、そう説明した。
すると息子は納得した。
大学に行くと言った。
私は、それでいいと思った。
親が命令するから大学に行くのではない。
親戚に自慢するために大学に行くのでもない。
本人が、自分の人生にとって意味があると思うから大学に行く。
私は、それが大切だと思うのである。
学歴は人間の価値そのものではない
私は、大学に進学することを勧めている。
でも、大学に行かなかった人間が劣っているとは思わない。
世の中には、大学に行かなくても優れた能力を持つ人間がいる。
私の父方のおじいちゃんも、高校に通わず、働きながら独学して大学へ進んだと聞いている。
ひいおじいちゃんは、一度見たものを自分で作ってしまう人だったという話もある。
実際に何を作っていたのかは分からない。
でも、学歴がなければ高度な能力を持てないというわけではないだろう。
だから私は、学歴を人間の価値そのものとして扱うことには反対なのである。
大学で学んだ人には、大学で学んだ人の強みがある。
現場で長く働いた人には、現場で身につけた知識がある。
独学で勉強してきた人には、独学ならではの経験がある。
大切なのは、実際に何ができるかということではないだろうか。
私は以前、理想の上司についても同じことを考えた。
部下の弱点を刺激して操るのではなく、長所を見つけて伸ばす。
肩書きや序列ではなく、実際の仕事を評価する。
そして、正当な報酬を支払う。
大学でも、職場でも、家族でも、私はそういう考え方を大切にしたい。
私が学んだことを、誰が評価するのか
さて、ここからが今回の本題である。
私は大学で、多くのことを学んだ。
そして、その知識を使って、長い間いろいろな問題を考えてきた。
教育の問題。
医療の問題。
精神状態と運動の関係。
音楽や振動が人間に与える影響。
経済の問題。
人間の心理や社会の仕組み。
私は、いろいろな分野について疑問を持ち、自分なりの答えを考えてきた。
もちろん、私が考えたことが、全部正しいとは思っていない。
仮説を立てたなら、検証する必要がある。
似たような研究が見つかれば、内容や発表時期を比較する必要がある。
自分の考えと違う結果が出たなら、なぜ違ったのかを考えなければならない。
だから私は、自分がいつ何を考えたのか、できるだけ記録しておきたいと思っている。
単に「私は昔から知っていた」と言いたいわけではない。
どんな疑問から出発したのか。
どんな根拠を使ったのか。
どういう答えを出したのか。
その後、どのような研究や事例が現れたのか。
そうしたものを比較できる形にしておきたいのである。
しかし、私は一つ、大きな不満を持っている。
その仕事に対する評価と金銭的報酬が、まだ十分ではないということである。
私が考えることを楽しんでいるのは事実だ。
文章を書くことにも意味を感じている。
でも、それで生活できるわけではない。
「あなたは考えるのが好きなんでしょう」
「好きなことをやっているんだから、いいじゃない」
そんなことを言われても困る。
好きなことだって、仕事は仕事なのである。
小林教授の功績は小林教授のもの
私は、大学で学んだことを大切にしている。
特に、小林教授の授業には感謝している。
テレビ番組を教育に利用できるという発想を、実際の授業で見せてくれた。
それは、私にとって非常に大きな発見だった。
だから、私は小林教授の功績をきちんと評価したい。
あの先生の授業がなければ、私の考え方も違っていたかもしれない。
しかし、ここで一つ区別しておかなければならない。
小林教授の授業から学んだことと、その後、私が自分で考えたことは別なのである。
先生から教わった知識を利用して、新しい問題について考える。
複数の学問を組み合わせる。
自分なりの仮説を立てる。
それを文章にして、人に説明する。
そこには、私自身の労力がかかっている。
小林教授が優れた先生だったことは、私の仕事の価値を否定する理由にはならない。
もちろん、私自身の仕事も、内容に応じて検証されなければならない。
ただ考えたというだけで、何でも社会的な成果として認められるわけではない。
それは分かっている。
だからこそ、私は内容をきちんと評価してほしいのである。
何が既存の知識なのか。
何が私自身の考えなのか。
どこに独自性があるのか。
どこが役に立つのか。
どこに間違いがあるのか。
そういうことを、具体的に検討してほしい。
そして、もし仕事として価値を認めて利用するのであれば、その対価についても考えてほしいのである。
秘密にして小説を書いていたら
私は時々、別の人生を想像する。
もし、自分が考えた答えを、ネットで説明せずにいたらどうなっていただろう。
全部、小説の中に書いていたら。
読者は、物語を読んで驚いたかもしれない。
「どうしてこの作家は、こんなことを考えつくんだろう?」
「どうして、こんな問題の解決方法を知っているんだろう?」
そして、その小説がヒットすれば、私は印税を得られたかもしれない。
アメリカのような大きな市場で作家活動をしていれば、かなり豊かな生活ができたのではないかと想像することもある。
もちろん、必ずヒットしたとは言えない。
小説が売れるかどうかは、内容だけで決まるものではない。
出版の機会も必要だ。
宣伝も必要だ。
読者との出会いも必要だ。
運もある。
だから、必ず大金持ちになれたはずだと断定するつもりはない。
でも、少なくとも、自分の発想を作品として育て、収入につなげるという選択肢はあったのである。
ところが、私はいろいろなことをネットに書いてきた。
誰かに質問されれば、答えを考えて書く。
説明してほしいと言われれば、分かるように言葉を選んで書く。
そうして公開された知識は、ほかの人が無料で読むことができる。
もちろん、無料で公開することにも意味はある。
誰かの役に立つことだってあるだろう。
でも、そこには問題がある。
読んだ人が知識を得ても、書いた人にお金が入るとは限らないのである。
しかも、説明したことに対して、いい気になっているなどと言われたら、たまったものではない。
教えてほしいと言われて、自分の時間を使って考えた。
それを文章にして説明した。
なのに、なぜ馬鹿にされなければならないのだろう。
私は、そういうことに腹が立つのである。
好きだから無料でいい?
私は考えることが好きだ。
問題を分析することも好きである。
新しい仮説を立てることも面白いと思っている。
でも、だからといって、無料で働き続けたいわけではない。
例えば、音楽家が音楽を好きだったら、報酬はいらないのだろうか。
画家が絵を描くことを好きだったら、作品を売ってはいけないのだろうか。
作家が小説を書くことを楽しんでいたら、印税を受け取る必要はないのだろうか。
そんなことはない。
好きな仕事でお金を得ることは、何も悪いことではない。
むしろ、自分の得意なことを仕事にできるのなら、それは素晴らしいことだと思う。
私は自分が出した答えや書いた文章について、もっと評価されたい。
内容をきちんと読んでほしい。
検証してほしい。
何が有用なのか、具体的に判断してほしい。
そして、仕事として利用されるなら、正当な報酬を得られる仕組みがほしい。
もちろん、無料で公開した文章が読まれただけで、誰かに自動的な支払い義務が生じるわけではない。
アイデアそのものと、著作物として保護される表現も、法的には区別される。
だからこそ、これからは出版契約や有料コンテンツなど、自分の仕事を収入に結びつける方法も重要になる。
ただ、私は思う。
考えることが楽しいという事実を、報酬を求める気持ちを否定する理由にはしてほしくない。
そこは別の問題なのである。
自分が満足すれば、それでいい?
哲学の世界には、自分の心が満足していればいいという考え方がある。
他人の評価に振り回されない。
自分自身が納得できる人生を送る。
そういう思想には、それなりの意味があると思う。
でも、私は言いたい。
そういう問題じゃないんだよ。
自分が満足していても、お金がなければ旅行に行けない。
好きなものも買えない。
子供たちに何かしてあげたくても、経済的な余裕がなければできない。
親にお金を渡すことも難しい。
将来の孫や、その先の子孫に、何かを残すことも難しい。
私は、ただ誰かに褒められたいだけではないのである。
もちろん、正当に評価されることは嬉しい。
自分の仕事が認められないのは不愉快だ。
でも、それだけではない。
私は、自分の仕事でお金を得て、そのお金を自分の意思で使いたいのである。
旅行にも行きたい。
好きな服も買いたい。
おいしいものも食べたい。
映画にも行きたい。
そして、余裕があれば家族にも何かしてあげたい。
別に、自分のためにお金を使うことが悪いとは思っていない。
自分が働いて稼いだお金なら、自分の好きなように使っていいはずである。
私は聖人君子になりたいわけではない。
救世主として、無制限に人のために働きたいわけでもない。
私は人間なのである。
人の役に立つことに喜びを感じても、自分の人生を楽しむ権利がなくなるわけではない。
心の満足は、現実のお金の代わりにはならない。
私は、そのことを何度でも言いたい。
親への感謝と自立は、別の問題である
私は、大学に通わせてくれた両親に感謝している。
その気持ちは、今でも変わらない。
でも、だからといって、いつまでも親のお金に頼って生活したいとは思っていない。
むしろ、自分の仕事でお金を稼ぎたい。
親に何かしてもらうだけではなく、今度はこちらが何かしてあげたい。
そう思っている。
例えば、親に食事をごちそうしてもらうことはありがたい。
でも、そのたびに、誰のお金で食べていると思っているんだと言われたら、気持ちよく食べられない。
だったら、自分のお金で食べたい。
旅行も同じである。
誰かに連れていってもらうのではなく、自分で行きたい場所を決め、自分で費用を払いたい。
高い席に座りたいと思えば、高い席を買いたい。
普通の席で十分だと思えば、普通の席を選びたい。
その判断を、自分自身でしたいのである。
これは、単なる贅沢の問題ではない。
経済的な自立とは、自分の人生の選択権を持つことでもある。
私は、自分の能力を生かして働き、その対価を受け取りたい。
そして、そのお金をどう使うか、自分で決めたい。
それが、私の望んでいることである。
教育に投資した人たちにも報いたい
ここで、もう一度、私に教育を与えてくれた人たちのことを考えてみたい。
小学校の校長先生は、自分で考え、自分で調べる時間を与えてくれた。
保護者のボランティアの人たちは、県立図書館からたくさんの本を運んできてくれた。
母は、お金がない中でも私が欲しがる本を買ってくれた。
父も、本を買ってくれた。
大学の先生たちは、私の知らなかった世界を教えてくれた。
小林教授は、テレビ番組を教育に使うという方法を、実際に見せてくれた。
そして、私はそれらを受け取って、自分なりに考え、応用してきた。
だから、私はこう思う。
先生たちが頑張ったことには意味があった。
両親が払ってくれた学費にも意味があった。
私は、それらを無駄にはしなかったと思っている。
でも、そこで満足して終わりにするつもりはない。
なぜなら、私はその学びを利用して、自分自身でも長い時間をかけて仕事をしてきたからである。
そして、その仕事に対する経済的な回収は、まだ終わっていない。
例えば、私が本を出版して収入を得られたらどうだろう。
そのお金で旅行に行く。
親に食事をごちそうする。
子供たちに何かしてあげる。
さらに余裕があれば、次の世代の教育にもお金を使えるかもしれない。
そうすれば、かつて私に投資された教育が、今度は私を通して別の人間に還元されることになる。
私は、そういう循環を大切にしたいのである。
ただ感謝して終わりではない。
受け取ったものを発展させて、次の世代にも渡していく。
そして、その途中で働いた人には、きちんと報酬を払う。
私は、それが健全な社会だと思っている。
人間の価値は肩書きでは決まらない
私は今回、先祖や家族についても、いろいろなことを書いた。
一度見たものを作れたというひいおじいちゃん。
働きながら独学で大学に進んだおじいちゃん。
発明や設計をしていた父。
学校の校長先生だった母方のおじいちゃん。
そして、長年の活動を評価された親戚の人たち。
私は、そういう人たちの能力や経験から、いろいろなことを学ぼうとしてきた。
でも、その人たちが全員、何もかも正しかったとは思っていない。
優秀な人間でも、間違った判断をすることがある。
人を信じすぎて、騙されることもある。
自分の立場を守ることばかり考える人もいる。
逆に、学歴がそれほど高くなくても、素晴らしい判断をする人がいる。
私は、人間を肩書きだけで評価したくない。
大学も同じなのである。
有名大学だから素晴らしいと決めつけるのではない。
偏差値が低いから無価値だと決めつけるのでもない。
そこにどんな先生がいて、どんな教育が行われているのか。
学生が何を学び、卒業後に何を生み出したのか。
そういうことを評価すべきではないだろうか。
少なくとも、私は自分の短大を高く評価している。
世間がどう考えていようと、私にとって必要な学問が揃っていた。
そして、人生を変えてくれる先生に出会えた。
それは、間違いなく大きな財産だった。
学びは無駄にならない。しかし報酬は別である
私は、人生で学んだことを無駄にしたくない。
親から学んだことも。
先祖の失敗から学んだことも。
学校の先生から教わったことも。
本の中の登場人物から学んだことも。
できるだけ覚えておき、自分の考え方に利用したい。
必要なら間違いを修正し、新しい情報を加えていきたい。
私は、そうやって自分の知識を更新してきたつもりである。
そして、今の自分がある。
でも、私はここで終わりにしたくない。
自分で考えてきたことを、きちんと評価してほしい。
自分が書いてきた文章を、きちんと読んでほしい。
そこに有用なものがあるなら、その価値を認めてほしい。
仕事として利用するなら、報酬を得られる仕組みを作りたい。
そして、自分の稼いだお金で、自分の人生を楽しみたい。
私は、親に感謝している。
先生たちにも感謝している。
本を書いてくれた作家たちにも感謝している。
でも、だからといって、私自身の仕事の評価まで諦めるつもりはない。
誰かの努力を正当に評価することと、自分の努力を正当に評価してもらうことは、矛盾しない。
むしろ、両方必要なのである。
私はそう考えている。
結論――大学は人生を豊かにするための場所である
息子に、なぜ大学に行く必要があるのかと聞かれたとき、私は答えた。
いい教師に出会うため。
いい友達に出会うため。
良い経験をするため。
知らなかった世界を知るため。
その考えは、今でも変わらない。
しかし、もう一つ付け加えるなら、大学で学んだことを卒業後にどう使うのかも重要である。
知識を得るだけではなく、実際の問題を解決する。
自分の能力を生かす。
社会の役に立つ。
そして、自分自身の生活も豊かにする。
私は、そこまで含めて教育の価値を考えたい。
大学は、親戚に自慢するために行く場所ではない。
偏差値を競うためだけの場所でもない。
親の期待に応えるためだけの場所でもない。
自分の可能性を広げる場所なのである。
私は、自分自身がそういう教育を受けることができた。
だから、その価値を知っている。
そして、あの短大に通わせてくれた両親に、改めて感謝したい。
小林教授をはじめ、私に多くのことを教えてくれた先生たちにも感謝している。
先生たちの授業は、無駄にはなりませんでしたよ。
私は、何十年もたった今でも、その知識を利用していますよ。
そう伝えたい。
ただし、そこには続きがある。
だからこそ、今度は私自身の仕事を、きちんと評価してほしいのである。
感謝だけで終わりではない。
精神的な満足だけで終わりでもない。
私は、自分の仕事から収入を得て、自分の人生を豊かにしたい。
そして、そのお金で、家族や子供たち、次の世代にも何かを残したい。
それが、私の考える教育への投資の回収なのである。
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私は、大学を卒業してからも勉強を続けてきた。
本を読み、テレビを見て、いろいろな人の話を聞き、自分で問題を考えてきた。
今でも、知らないことは山ほどある。
科学の世界は広い。
歴史の世界も広い。
人間の心理や社会の仕組みも、簡単に理解できるものではない。
だから、これからも勉強したいと思っている。
ただし、私は勉強だけをしていたいわけではない。
自分が学んだことを利用して、実際の問題について答えを出したい。
そして、その仕事が正当に評価されることを望んでいる。
お金も欲しい。
旅行にも行きたい。
好きなものも買いたい。
子供たちにも、親にも、何かしてあげたい。
私は、そういう普通の人生を送りたいのである。
「自分が満足していれば、それでいい」
そういう哲学にも価値はあるのだろう。
でも、私はそれだけでは満足できない。
自分が満足していても、現実の生活にはお金が必要だからである。
私は、知識を提供するだけの存在になりたいわけではない。
私自身も、その知識を利用して幸せになりたいのである。
だから、最後にもう一度書いておこう。
学んだことは無駄にならなかった。
しかし、その知識を使って行ってきた仕事の、経済的な回収はまだ終わっていない。
私は、そこで終わるつもりはない。
自分が得た知識を、今度は自分自身の人生を豊かにするためにも使いたい。
そして、もし私の仕事が誰かの役に立つのなら、その価値をきちんと評価してもらいたい。
大学で出会った先生たちが、私に学ぶ機会を与えてくれたように。
私もまた、次の世代に何かを渡していきたい。
ただし、今度は自分の生活も、きちんと大切にしながら。
それが、私の出した答えである。




