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天才パンダのエッセイ※本物のミステリー!考え過ぎて頭痛患者勃発!血液型分布図と民俗学。塩分と世界平和。ゲームと脳科学  作者: ヘタレパンダ


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都合の良い救世主 続編

都合のいい救世主 続編


――私は無料のサブスクでも、家族の財布でもない


人間というものは、どうしてこうも自分に都合よく物事を考えるのだろう。


私は人間の心理を分析するのが好きである。


問題を見つけるのも好きだ。


答えが出れば嬉しい。


でも、だからといって、永遠に無償で問題を解決し続けたいわけではない。


そこをどうも理解してもらえない。


私は何度も言っている。


仕事をしたら対価を払ってほしい。


そして、そのお金で自分の好きなことをして暮らしたい。


たったそれだけである。


ところが、それを言うと、


「贅沢だ」


「わがままだ」


「みんなだって我慢している」


と言われる。


私はこの理屈がどうにも理解できない。


みんなが我慢しているのなら、我慢しなくても済む方法を考えればいいではないか。


なぜ、


「みんな苦しんでいるのだから、お前も苦しめ」


になるのだろう。


苦しんでいる人間の数を増やして、いったい誰が幸せになるのだ。


お祭りは楽しい。でも問題は解決しない


私はお祭りが嫌いなわけではない。


花火大会も好きだ。


フェスも好きだ。


映画も好きだ。


美味しいものを食べて、友達と楽しく喋るのも好きだ。


そういうことをすれば、確かに幸せな気持ちになる。


気分が良くなる。


一日、二日はご機嫌でいられる。


場合によっては一週間くらい、幸福感が続くこともある。


でも、そこまでなのである。


もちろん、人によっては楽しい思い出を何年も大切にできるだろう。


私だって思い出が嬉しくないわけではない。


だが、生活の問題が解決していなければ、結局は元に戻る。


お祭りが終わる。


家に帰る。


通帳を見る。


お金が増えていない。


仕事の対価は入っていない。


そして、また次の問題が待っている。


「ああ、またか」


となる。


私は以前、セックスによる一時的な幸福について考えたことがある。


性的快感で幸せになれる人はいる。


でも、その快感は永遠には続かない。


元の生活に戻れば、解決していない問題も戻ってくる。


だからまた刺激が欲しくなることがある。


これはお祭りや娯楽にも、ある程度似たところがあると思う。


同じ刺激を繰り返せば、新鮮さが薄れることもある。


心理学でいう快楽順応に近い。


薬にも、種類によっては繰り返し使うことで耐性が生じるものがある。


ただし、すべての薬が効かなくなるわけではない。


重要なのは、一時的に気分を良くすることと、苦しみの原因を取り除くことは別だということだ。


私は楽しいことをしたい。


でも、それによって問題を忘れさせてもらいたいわけではない。


むしろ、問題を解決した上で、何も心配せずに遊びたい。


それが私の希望である。


私は二十万円のVIP席に座りたい


例えば、フェスに行くとする。


一万円の普通席もある。


二十万円のVIP席もある。


私は、二十万円払った人間が一万円払った人間より良いサービスを受けるのは、別におかしいと思わない。


二十万円払うなら、良い場所で見たい。


音響の良い席に座りたい。


ゆっくりくつろぎたい。


人混みに揉まれず、できるだけ疲れずに楽しみたい。


だから私は、できるならVIP席を買いたい。


しかし、それを言うと「贅沢だ」と言われる。


何が贅沢なのだろう。


私は、無料でVIP席をよこせと言っているわけではない。


自分の仕事で二十万円を稼いで、その二十万円でVIP席を買いたいと言っているのである。


ここを間違えないでほしい。


しかも、私の現実はもっと厳しい。


私の母親は、一万円払ってフェスに行くだけでも贅沢だと言う。


千円の映画を見に行くだけでも文句を言う。


「そんな贅沢をして」


「人としてどうなの」


と言われる。


一回千円の映画で、人間性まで否定されるのである。


映画一本でそこまで言われるなら、いったい私は何をして楽しめばいいのだろう。


テレビを見るだけか。


家でじっとしていればいいのか。


それとも誰かのために働いている時だけ、私は許されるのだろうか。


私が欲しいのは、別に特権ではない。


自分で稼いだお金を、自分の意思で使う自由である。


一万円の席に座るのか。


二十万円の席に座るのか。


それとも家で寝ているのか。


私が決めたい。


他人に用意された幸福より、自分で選べる幸福の方が、私にはずっと価値がある。


親のお金で行けばいい、では解決しない


すると、こういう考え方が出てくる。


「親のお金があるなら、それを使えばいいじゃないか」


私はこれも理解できない。


私の親は、私のためにお金を貯めてくれている。


約七百万円ある。


しかし私は、できることなら一円も使わず、そのまま返したい。


自分で稼いで生活できるなら、それが一番いい。


ところが私の親の場合、お金を出してもらうと、必ずと言っていいほど恩を請求される。


例えば寿司を食べさせてもらう。


すると、


「誰がお金を払ってやったと思っているの」


「親に感謝しないのか」


と言われる。


だったら私は、自分で寿司代を払いたい。


お金を払ってもらえば、その瞬間は金銭的に得をするかもしれない。


でも、その後にどれだけ精神的な労力を要求されるのか。


そこまで含めて計算したら、全然得ではない。


一万円の寿司を奢ってもらって、その後に一万円以上の負担を感じるなら、自分で払った方が楽である。


少なくとも私はそう考える。


私は親の金を使えることを、自分の自由だとは思わない。


自分のお金を持って、自分の行動を決められることを自由だと思っている。


だから親の七百万円は、できることなら使いたくない。


私は親に養われ続けたいのではない。


自分の仕事で稼ぎたいのである。


自分のために使うお金は悪いらしい


さらに不思議なのは、私が一人で外食すると怒られることである。


母親は、


「なんで一人で行くの」


「人としてどうなの」


と言う。


ところが、娘の明里を連れて行き、娘の食事代まで払うなら、それほど悪いこととは思われないらしい。


私はこれが不思議で仕方ない。


同じ外食なのに、なぜ一人だと悪いのだろう。


しかも娘は、私より高いものを注文することがある。


お金がないなら、むしろ私一人で食べた方が安いではないか。


なのに、


自分一人のためにお金を使うのは悪い。


他人のためにお金を使うなら良い。


母には、そんな道徳があるように見える。


私は誰かを喜ばせることが嫌いなわけではない。


娘と一緒に食事をしたい時もある。


ただ、一人で食事をしたい時まで、誰かの分を払わなければ許されないのはおかしいと思う。勿論金銭的に無理だ。


私は、他人を幸せにするためだけに生きているわけではない。


私自身も幸せになりたいのである。


家庭の話をしよう。


旦那の秀樹は、私に月六万円を渡す。


そして、


「六万円渡してるんだから、それでやりくりすればいいだろう」


と言う。


ところが、その六万円は食費だけではない。


病院代も入っている。


洋服代も入っている。


ガソリン代も入っている。


その上、家族の食事代も必要になる。


私はカップ麺やインスタントラーメンを何十個も買ってくる。


牛乳は週に二回、三回と買い足す。


納豆も買う。


お菓子も買う。


夕食の肉も買う。


野菜も買う。


コストコやコスモスで買い物をすれば、六万円とは別に現金で払うこともある。


もちろん、私自身の趣味に使っているお金もある。


そこは隠すつもりはない。


使ったお金の半分くらいが自分の趣味になっている時もあると思う。


趣味にほとんどお金を使わない月もある。


だから貯金が減った原因を、全部家族のせいにするつもりもない。


でも、家族のために払っているお金と、自分のために払っているお金は、きちんと分けて考える必要があると思う。


少なくとも、六万円だけで全部済んでいるわけではない。


ところが秀樹は、肉を買うと贅沢だと言う。


しかし肉を出さなければ、それはそれで文句を言う。


安い肉を買って工夫して料理すると、


「前の高い肉の方がおいしかった」


と言う。


同じ料理が続けば、


「またこれかよ」


と言う。


いったいどうすればいいのだ。


安くしろ。


でも、おいしくしろ。


毎回違うものを出せ。


でも、予算は増やさない。


そんなもの、魔法でも使わないと無理ではないか。


それなら、


六万円で済ませろと言う人間が、六万円で済む生活を受け入れなさい。


私はそう思う。


カップ麺は自動的に生えてこない


秀樹は自分一人でインスタントラーメンを作って食べることがある。


そして、


「お前たちも好きなものを自分で作ればいいだろう」


と言う。


それは別に構わない。


自分で作るのは良いことだ。


でも、ちょっと待ってほしい。


そのインスタントラーメンは、誰が買ってきたのだ。


カップ麺は勝手に棚から生えてくるわけではない。


牛乳も勝手に冷蔵庫に補充されるわけではない。


納豆だって、お菓子だって、肉だって、誰かがお金を払って買ってきているのである。


娘も息子も食べる。


家族がそれぞれ食べれば、その分だけ在庫が減る。


なくなれば、また買ってこなければならない。


しかも子供たちは、食べた分のお金を毎回払っているわけではない。


そういう費用が積み重なっている。


「各自で好きなものを作ればいい」


と言うのなら、せめて、


各自で必要なものを買うところまで考えてほしい。


調理する手間だけ自分で引き受けて、材料代と買い物の手間は私が負担する。


それでは家事を分担したことにはならない。


私が一番問題だと思うのは、これが当たり前になっていることである。


家に食べ物がある。


牛乳がある。


カップ麺がある。


肉がある。


誰かが用意しているという認識が薄くなる。


なくなった時だけ、


「何でないの?」


となる。


私はこれを、家庭内の無料サブスクリプションだと思っている。


毎月お金がかかる。


維持費がかかる。


管理する労力もかかる。


でも、利用する側は無料だと思っている。


そして、サービスが停止すると文句を言う。


私は家族の財布でもなければ、自動補充装置でもない。


人間である。


悪いことだと理解していないのかもしれない


ただ、私は家族全員が悪意を持ってやっているとまでは思わない。


息子については、そもそも当たり前だと思っていない可能性もある。


それぞれ違うのだろう。


問題は、自分が相手に要求していることを、本人がどれだけ理解しているかである。


一つ一つの要求は小さい。


「牛乳買ってきて」


「カップ麺ないの?」


「今日は肉が食べたい」


「昨日と違うものにして」


「外食に連れて行って」


一個だけなら、大したことではないかもしれない。


でも、要求を受ける側には全部が積み重なる。


要求する人間は、自分の要求だけを見ている。


要求される人間は、全員の要求をまとめて処理している。


ここに大きな違いがある。


私は、相手が何を求めているか考えることがある。


この人は何が欲しいのか。


なぜ怒っているのか。


なぜ同じことを繰り返すのか。


どうすれば理解できるのか。


そこまで考える。


でも、相手が自分の行動を分析しないのなら、結局また私が分析することになる。


私は買い物をする。


料理をする。


お金を払う。


在庫を管理する。


問題を発見する。


問題の原因を分析する。


そして今度は、それを説明するためにエッセイまで書いている。


いったいどこまで私に仕事を増やす気なのだ。


これでは、問題を解決しても、また次の仕事が増えるだけである。


私は以前から言っている。


自分で考えられることは、自分で考えてほしい。


自分でできることは、自分でやってほしい。


できないことがあるなら、できるところまでやってほしい。


それでも分からないところだけ、他人に助けてもらえばいい。


別に全部自力でやれとは言っていない。


道具を使えばいい。


AIを使えばいい。


専門家に頼めばいい。


家族で分担すればいい。


私一人に全部押しつける必要はないのである。


理解したら、次は自分で行動してほしい


私は、人間というものは案外、自分自身のことを理解していないと思っている。


自分の感情を理解していない。


自分が何を求めているのか分かっていない。


自分が他人に何を要求しているのかも理解していない。


だから私は観察する。


分析する。


仮説を立てる。


そして言葉にする。


すると、理解してくれる人もいる。


「なるほど、そういうことだったのか」


となる。


それは嬉しい。


でも、私はもう一つ先へ進んでほしい。


理解したなら、今度は自分で行動を変えてほしい。


私がエッセイを書いて、それを読んで、


「パンダに負担をかけていたんだね」


と理解したとする。


それは一歩前進である。


でも翌日、また同じことを要求していたらどうなるのだ。


私はまた同じ問題を解決しなければならない。


もう一度説明するのか。


またエッセイを書くのか。


もう勘弁してほしい。


理解することと、行動を変えることは違う。


そして本当に問題を解決するためには、行動まで変えなければならない。


私は25年間、いろいろな問題を考えてきた。


世の中が変わってきた部分もあると思う。


AIも発達した。


比較分析もできるようになった。


人間が以前より楽にできることは増えている。


だったら、その仕組みを使ってほしい。


私の負担を減らしてほしい。


私が一人で全部考えなくても済むようにしてほしい。


そして私の仕事が必要なら、仕事として扱ってほしい。


私は無料のサブスクではない


私は、自分の能力に価値があると思っている。


長年考え、分析し、書いてきたことにも価値があると思っている。


もちろん、その経済的な価値が実際にいくらなのかは、何がどのように利用されたかを調べなければ計算できない。


しかし少なくとも、私は自分の25年間を、数百円の仕事だったとは思っていない。


だから、


「もっと考えて」


「もっと教えて」


「もっと助けて」


「もっと理解して」


と言われる一方で、


「お金が欲しいなんて贅沢だ」


と言われれば腹が立つ。


では聞きたい。


あなたは、私の仕事をいくらの価値だと思っているのか。


私の仕事は無料で当然なのか。


私が楽しんでいるから、報酬はいらないのか。


私が人を助けたいから、私自身は助けてもらわなくていいのか。


私が誰かの問題を解決できるから、私自身の問題は放置してもいいのか。


違うだろう。


私は人間である。


人間だからお金も必要だ。


食事も必要だ。


休息も必要だ。


遊びも必要だ。


そして、自分のために時間とお金を使いたい。


誰かを助けることと、自分の幸せを諦めることは、まったく別の話なのである。


私は都合のいい救世主にはなりたくない。


全員の母親にもなりたくない。


永遠に頭を撫で続ける係にもなりたくない。


そして、無料のサブスクリプションにもなりたくない。


人を理解することができるなら、その能力は使ってもいい。


でも、私自身も理解してほしい。


みんなが自分を理解してほしいと願うのと同じように、私だって理解してほしい。


そして理解したなら、行動を変えてほしい。


褒めるだけではなく。


お祭りをするだけではなく。


「ありがとう」と言うだけではなく。


私が抱えている負担を、実際に減らしてほしい。


私は、そのためにAIという道具も欲しかった。


人間が自分でできることを増やせば、私が全部引き受ける必要もなくなる。




私は別に、家族にカップ麺一個食べられたから怒っているわけではない。


映画を無料で見られないから怒っているわけでもない。


二十万円のVIP席に座れないから怒っているわけでもない。


それらは全部、一つの問題につながっている。


自分の負担を当然のものとして扱われ、自分自身の自由を後回しにされることが嫌なのである。


お金の問題も、家事の問題も、心理分析の問題も同じだ。


誰かが無償で負担を引き受けていると、それが当たり前になってしまう。


そして、その人が「もう嫌だ」と言うと、わがままだと言われる。


だが、私には私の人生がある。


問題を解くことが好きでも、問題のためだけに生きているわけではない。


人を助けることが好きでも、人を助けるためだけに生きているわけではない。


私は自分が楽しく暮らすためにも、自分の能力を使いたいのである。


だからお願いしたい。


自分でできることは、自分でやってくれ。


分からないことは、まず自分で考えてくれ。


理解できたなら、自分で行動を変えてくれ。


そして私の仕事が必要なら、きちんと仕事として扱ってくれ。


私は他人の幸せを否定していない。


ただ、私自身の幸せを犠牲にすることを、当然だと思わないでほしい。


私は、人を幸せにすることもしたい。


でも、私自身も幸せになりたい。


それだけの話である。


それと他人がしてくれた善意。好きでやってるんだからと言う免罪符で無かったことにするのは辞めて貰いたい。度を越せば、仏ですら三度までしか良い顔は向けてくれない。



善意を免罪符で無かったことにするな


もう一つ、どうしても言っておきたいことがある。


他人が善意でしてくれたことを、


「好きでやってるんでしょう?」


という言葉で無かったことにするのは、やめてもらいたい。


好きでやっていることと、労力を払っていることは別である。


好きな仕事でも疲れる。


好きな人のためでも、お金はかかる。


人を助けることが嬉しくても、時間と体力は消費する。


それなのに、


「好きなんだからいいでしょう」


「楽しいんでしょう」


「だったら、もっとやってよ」


と言われたら、どうなるだろう。


最初は善意だった。


喜んでもらえれば嬉しかった。


だから助けた。


でも、その善意を当たり前だと思われ、感謝も対価も必要ないと言われ、さらに要求を増やされたら、いつか嫌になる。


そして、助けることをやめた途端に、


「どうして助けてくれないの?」


「前はやってくれたじゃない」


と言われる。


私は、これがおかしいと言っているのである。


善意は、無限に使える無料サービスではない。


そもそも善意とは、本人の意思で差し出すものだ。


他人が勝手に要求し、提供することを義務にした時点で、それはもう善意とは呼べないのではないか。


昔から言うではないか。


仏の顔も三度まで。


仏様ですら、何度も無礼を繰り返されたら、いつまでも良い顔をしているとは限らない、という意味のことわざである。


ましてや私は仏様ではない。


普通の人間である。


一度目は笑って許せる。


二度目も、まあ仕方がないと思えるかもしれない。


でも三度目、四度目、百回目。


それが何年も何十年も続いたら、どうなると思うのだろう。


「いい加減にしろ!」


となって当然ではないか。


私は人間が幸せになることを願っている。


できるなら助けたい。


でも、それは自分自身の幸福を無期限に差し出すという意味ではない。


他人の善意を受け取ったなら、その善意の価値を無かったことにしないでほしい。


そして、相手がもう嫌だと言ったら、その意思を尊重してほしい。


私は何度でも言う。


好きでやっているからといって、タダでやって当然ではない。


一度助けたからといって、一生助ける義務が生まれるわけでもない。


人の善意に甘えることと、人の善意を食い潰すことは違う。


その違いくらい、理解してもらいたい。

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