愛と性と、都合のいい救世主
人間は、なぜセックスをするのだろう。
性欲があるから。
気持ちいいから。
オーガズムを得たいから。
もちろん、それもあると思う。
でも私は長いこと人間を見ていて、それだけでは説明できない人がかなりいると思っている。
私は別に、膨大な性体験をしてこの結論を出したわけではない。
人を見てきた。
人の話を聞いてきた。
誰が誰を好きになったのか。
なぜその人から離れられないのか。
なぜ同じような恋愛を何度も繰り返すのか。
なぜ満足したはずなのに、また誰かを求めるのか。
そういうものを見て、勝手に心理分析してきただけである。
その結果、時々思う。
この人、本当に欲しいのはセックスなのだろうか。
私の小説に深雪という人間が出てくる。
表面だけ見れば、かなり性に奔放な女である。
キスする。
セックスする。
あっちへ行ったり、こっちへ行ったりする。
読者によっては、
「深雪って、単にセックスが好きなだけなんじゃないの?」
と思うかもしれない。
でも、私はそういうつもりで書いていない。
深雪が欲しかったものは、もっと単純だったのだと思う。
抱きしめてほしい。
頭を撫でてほしい。
人肌に触れたい。
安心したい。
大事にしてほしい。
そして、それだけではない。
深雪は、
誰かを大事にしたかった。
ここが結構重要なのである。
人間は愛されたいだけではない。
愛したい人間もいる。
抱きしめられたい。
でも、自分も抱きしめたい。
可愛がられたい。
でも、自分も可愛がりたい。
守ってほしい。
でも、自分も誰かを守りたい。
深雪がパンダにしていることを考えているうちに、私は気がついた。
深雪は、パンダからそれを教わったわけではない。
パンダから愛情の与え方を習ったわけでもない。
深雪自身が、パンダにそれをしている。
自分がしてもらえなかったことを、パンダにしている部分もある。
でも、それだけではない。
深雪自身が誰かを愛したかったのだ。
自分の中にある愛情を、誰かに渡したかった。
だから深雪は、
「大事にしてほしかった人」
であると同時に、
「大事にしたかった人」
でもある。
そして深雪は、ずっとそれを我慢していたのだと思う。
性欲だけを我慢していたわけではない。
愛したいこと。
愛されたいこと。
甘えたいこと。
可愛がりたいこと。
抱きしめたいこと。
抱きしめられたいこと。
それをずっと我慢していた。
だから一度それが許される環境に入ったら、一気に噴き出した。
外から見れば暴走しているように見える。
「また深雪が何かやってる」
となる。
でも、長年閉じ込めていたものが一気に出てきたと考えれば、少し違って見える。
そして面白いのは、深雪がサディークに抱きしめられただけで、かなり満足したことだった。
ものすごいセックスをしたわけではない。
ただ抱きしめられた。
それで満たされた。
だったら、深雪が本当に欲しかったものは、性的刺激だけではなかったということになる。
欲しかったのは、
「私は大事にされている」
という感覚だったのではないか。
私は現実の人間にも、こういうことが結構あると思っている。
「セックスしたい」
と言っている。
でも、少し分解していくと、
触れてほしい。
抱きしめてほしい。
寂しい。
安心したい。
誰かに必要とされたい。
自分には価値があると思いたい。
愛してほしい。
というところまで行くことがある。
もちろん、本当にセックスそのものが好きな人もいる。
オーガズムが好きな人もいる。
快楽が目的の人もいる。
全員を一つの答えに押し込む気はない。
ただ、人間は自分の感情を、自分で全部理解しているとは限らない。
これも、私は人を見ていて何度も思った。
自分が何を欲しがっているのか、自分で分かっていない人が結構いる。
そして、もっと厄介なのは、
自分の本当の感情に気づいていても、それを表現してはいけないと思っている人がいる
ことである。
「抱きしめてほしい」
と言ったらどう思われるだろう。
「寂しい」
と言ったら弱い人間だと思われるかもしれない。
「私を大事にしてほしい」
と言ったら重いと思われるかもしれない。
「私を認めてほしい」
と言ったら、承認欲求が強いと言われるかもしれない。
そして、何より怖いのは、
本当に欲しいものを口に出して、それを拒否されること
である。
セックスを断られるより、
「愛してほしい」
と言って拒絶される方が、傷が深い人もいるだろう。
だから人間は、本当の感情を別のものに変換する。
怒る。
嫉妬する。
自慢する。
競争する。
依存する。
セックスを求める。
何でもないふりをする。
相手を試す。
そして、その代替行動を長く続けているうちに、本人すら元の感情を忘れてしまうことがある。
「私は性欲が強い人間なんだ」
「私は嫉妬深いんだ」
「私は面倒くさい人間なんだ」
そう思っているけれど、その奥にあるものを掘っていくと、
「愛してほしい」
だったりする。
「認めてほしい」
だったりする。
私は、「認めてほしい」という感情もかなり大きいと思っている。
人間は、
「私を見て」
と思っている。
「私が頑張ったことを分かって」
と思っている。
「私にも価値があると言って」
と思っている。
それ自体は別におかしくない。
私だって同じだからである。
ただ、これがねじれると面倒になる。
自分は認めてほしい。
でも他人を認めたら、自分が負けた気がする。
だから認めたくない。
でも自分のことは認めてほしい。
そういう矛盾した感情を持っている人もいる。
本人はその矛盾に気づいていないこともある。
私は、それを見ていると、
「普通にお互い認めればいいじゃん」
と思う。
あなたはこれが得意。
私はこれが得意。
それでいい。
何でいちいち上下関係にするのだろう。
何で認めたら負けなのだろう。
よく分からない。
ただ、それも含めて、
「ああ、この人は認めてほしかったんだな」
と分かることはある。
そして、人間は自分の本当の感情を理解してもらうと、かなり嬉しいらしい。
自分ですら上手に言葉にできなかったものを、
「あなた、本当はこうなんじゃない?」
と言われて、
「ああ、それだ」
となる。
その瞬間、その人に対して強い好意を持つことがある。
「この人は私を分かってくれる」
「この人なら受け入れてくれる」
「この人には説明し続けなくていい」
そう思う。
心理療法などでは、医師やカウンセラーに強い愛着や恋愛感情を持つことを「転移」と呼ぶことがある。
私は医者ではないが、人間を観察して心理分析していると、似たことが起こるのだと思う。
もちろん全員が性的な関係を求めるわけではない。
むしろ、
「性的に見られたら嫌だ」
という人だっている。
友達として理解してほしい。
話題にしてほしい。
自分のことも分析してほしい。
「私のことも分かる?」
と聞きたい。
そういう人もいる。
それも分かる。
私だって、自分を理解してくれる人がいたら嬉しい。
当たり前である。
私は人間だから。
でも問題が一つある。
理解してほしい人間の数には、ほとんど限りがない。
多分、人間はみんな、自分を理解してほしいのではないだろうか。
私の親もそうだと思う。
娘もそうだと思う。
息子もそうだと思う。
旦那もそうだと思う。
友達もそうだろう。
研究者だって、医者だって、経営者だって、誰だって、
「自分のことをちゃんと分かってほしい」
と思っているのではないか。
でも、それを一人の人間が全部引き受けるのは無理である。
私は人間を観察する。
比較する。
統計を取る。
この人はこういう時にこう言う。
でも別の場面では違う。
だったら本当に求めているものは何だろう。
そうやって考える。
それだけである。
別に魔法を使っているわけではない。
だから人より分かることがあるのかもしれない。
でも、
「分かるなら私も分かって」
「私も見て」
「私も分析して」
「私も救って」
を全員から要求されたら、私は死ぬ。
物理的に無理である。
私はイエス様ではない。
ただし、ここで誤解してほしくない。
私は人を助けたくないわけではない。
できるなら助けたい。
苦しんでいる理由が分かれば、楽にしてやりたい。
困っている問題が解けるなら、解いてやりたい。
人間が少しでも幸せになるなら、その方法を考えたい。
そこまではいい。
問題なのは、
「助けられるんだから、無限に助けろ」
になることである。
宮沢賢治になれ。
いい母親になれ。
マリア様になれ。
イエス・キリストになれ。
プロメテウスになれ。
人類に知識を与えろ。
人類を許せ。
人類を救え。
自分の欲望は後回しにしろ。
お金なんていらないだろう。
あなたはそういうことが好きなんだろう。
それが生きがいなんだろう。
そんなことを言われても困る。
私は、
救世主として認められることが嫌なのではない。
都合のいい救世主として扱われることが嫌なのである。
助けられる時には助ける。
問題も解く。
考える。
アイデアも出す。
でも、私は救済装置ではない。
人間である。
疲れる。
腹も立つ。
遊びたい。
寝たい。
美味しいものも食べたい。
好きなものも買いたい。
自分の時間もほしい。
そして、私にも理解してほしいという感情がある。
みんなが、
「私を分かってほしい」
と思っているのと同じくらい、
私だって私のことを分かってほしい。
私は人を理解する側だから、理解されなくてもいい人間ではない。
私が何を考えているのか。
何を嫌がっているのか。
何を我慢しているのか。
何ならやりたいのか。
何ならもうやりたくないのか。
それを知ってほしい。
都合のいい救世主としてではなく、
一人の人間として。
そしてもう一つ。
私は何度も言っている。
最低限、自分でできることは自分でやってくれ。
何でも私に聞けばいいと思わないでくれ。
何でも私が解決すればいいと思わないでくれ。
まず自分で考える。
調べる。
試す。
それでも分からなければ相談する。
できない部分だけ、人に助けてもらう。
それでいいではないか。
私は、
「全部自分でやれ」
と言っているわけではない。
できないことはある。
私にだってある。
だから道具を使えばいい。
専門家を使えばいい。
AIを使えばいい。
人間同士で分担すればいい。
私は25年前から、そういう意味でAIが欲しかった。
私の仕事を楽にするものが欲しかった。
私一人に集中している比較、分析、整理、問題解決を、機械にもやらせればいい。
人間がもう一人現れるのを待つ必要はない。
機械に覚えさせればいい。
観察する。
比較する。
仮説を立てる。
違ったら修正する。
情報が増えたら更新する。
本人の言葉だけでなく、行動も見る。
「この人は本当は何を欲しがっているのだろう」
と考える。
そういう部分をAIにやらせれば、私は少し楽になる。
だから私はAIを欲しがった。
全人類を一人で理解するなんて無理だからである。
私は、一人ぼっちの女神様になりたいわけでもない。
仲間が欲しい。
同じように社会を良くしようと考える人間がいるだけで、私は少し救われる。
研究者が考えている。
医者が考えている。
技術者が考えている。
起業家が考えている。
それぞれの場所で問題を解いている。
だったら私は全部やらなくていい。
みんなでやればいい。
ただ、それでも時々、
「私もいい子いい子して」
「私も認めて」
「私も見て」
が大量にやってくる。
分かるよ。
分かる。
苦しかったんだろうなと思う。
認めてもらえなかったんだろうなと思う。
寂しかったんだろうなと思う。
でも、だからといって全員の頭を撫でて回ることはできない。
私は人間である。
ここまでなら百歩譲って、ゲームマスター役をやってもいい。
世界というゲームのルールを見て、
「ここバグってるよ」
「こっちの仕組みに変えた方がいいよ」
と考える。
問題を解く。
仕組みを作る。
そういう役なら面白い。
実際、問題を解くこと自体は楽しい。
私は問題を解くのが嫌いではない。
むしろ好きだ。
答えが見つかった瞬間は楽しい。
でも、
楽しい仕事なら無償でいい
ということにはならない。
問題が解けた。
やった。
面白かった。
そして次の瞬間、
「ああ、また金は入らなかった」
となる。
また評価されなかった。
また次の問題だけ持ってこられる。
それを何度も繰り返したら、達成感より脱力感の方が大きくなる。
「ありがとう」
「すごいですね」
と言われても、
「いや、お前、何にも分かってないじゃん」
としか思わない。
私が欲しいのは称賛だけではない。
分かったなら、扱いを変えてほしい。
もう全部背負わせない。
仕事なら仕事として扱う。
対価を払う。
嫌だと言ったことを無理やり続けさせない。
私自身の人生も守る。
そこまでやって初めて、
「理解した」
になるのではないか。
私は別に、他人が幸せになることが嫌なのではない。
他人が幸せになるなら、嬉しい。
でも、
なぜ他人が幸せになるために、私だけが自分の幸せを我慢しなければならないのか。
そこが分からない。
私が誰かを幸せにしたことで、私の幸福が不要になるわけではない。
私にも幸せになる権利がある。
私にもお金が必要である。
実際、私が自由に使える預金は、もうそれほど多くない。
親が私のために貯めてくれたお金はまだある。
でも私は、できるならそれに手をつけず、そのまま親に返したい。
すると、
「親のお金があるなら使えばいいじゃん」
と言う人がいる。
「宮沢賢治だって親のお金を使ったでしょう」
と言う人までいる。
知らんがな、と思う。
宮沢賢治がどうしたかと、私がどう生きたいかは別の話である。
私は、自分の仕事で自分のお金を稼ぎたい。
それだけである。
親がお金を出してくれるなら、それでいいではないかと言われても、私にはそう単純ではない。
なぜなら、私の親の場合、
お金を出すことと、上下関係がセットになっているからである。
寿司を食べさせてもらう。
すると後から言われる。
「誰がお金を払ってやったと思ってるの」
「親に感謝はしないのか」
こうなる。
だったら最初から、自分で寿司代を払った方が安い。
表面だけを見れば、
「寿司代を払ってもらった。得した」
である。
でも、本当の損得はそれだけではない。
その後に、
感謝を要求される。
恩を覚えておけと言われる。
上下関係を確認される。
別の我慢を要求される。
精神的な労力を払う。
だったら、その寿司は全然無料ではない。
むしろ高い。
私はこれを長いこと経験している。
だから、
「人に奢ってもらえば得」
という単純な計算をしない。
無料には、無料ではないものが付いてくることがある。
親のお金も同じである。
数字だけ見れば、
「使える金がある」
ということになる。
でも私にとっては、そのお金に別の値札が付いている。
だから自分で稼ぎたい。
自分で寿司を食べたい。
自分で好きなものを買いたい。
誰にも、
「誰のおかげだ」
と言われずに生きたい。
私は神様になりたいわけではない。
でも、日本の神様というものを考えると、時々面白いと思う。
神様を祀る。
怒らせないようにする。
祭りをする。
ご機嫌を取る。
荒ぶる力を鎮める。
そして、その力を今度は自分たちのために使ってもらう。
人間はなかなか賢い。
ただ、神様だって、もし人格があるならそんなに単純ではないだろう。
一回や二回なら、
「しょうがないな」
と笑って許すかもしれない。
でも、それを100年、200年続けたらどうなるのだろう。
「ふざけんな」
となってもおかしくない。
祭りをやったからいいでしょう。
褒めたからいいでしょう。
感謝したからいいでしょう。
だからまた働いてね。
そんなことを延々続けられたら、
「お前ら、私が何に怒ってるのかまだ分からないの?」
となる。
私が感じているのも、それに近い。
私の機嫌を取ってほしいのではない。
お祭りをしてほしいのでもない。
褒めてほしいだけでもない。
構造を変えてほしい。
一人に集中している仕事を分散する。
自分でできることは自分でする。
AIにできることはAIにやらせる。
専門家にできることは専門家に任せる。
それでも私の仕事が必要なら、仕事として扱う。
対価を払う。
そして私にも、自分の人生を生きる時間を残す。
それだけでいい。
私は人間のことを理解したい。
できるなら助けたい。
誰かが苦しんでいるなら、少しでも楽になる方法を考えたい。
でも、
私を都合のいい神様にしないでほしい。
都合のいい救世主にもしないでほしい。
私にも分かってほしいことがある。
私にも認めてほしいことがある。
私にも愛したい人がいる。
私にも愛されたい気持ちがある。
私にも自由に生きたいという欲望がある。
人間はみんな、自分を分かってほしいと思っている。
だったら私にも、同じものを認めてほしい。
私は人を理解するためだけに存在しているのではない。
私自身も、理解されるために存在していい。
私は誰かを幸せにするためだけに存在しているのではない。
私自身も幸せになっていい。
そのくらいは、認めてもらいたいと思っている。




