源氏物語は元祖女性週刊誌?
源氏物語は元祖ゴシップなのではないか
私は昔から、古典文学というものに少し違和感がある。
学校で習うと、とにかく偉そうなのである。
『源氏物語』といえば、日本文学史上最高峰の長編小説。紫式部は世界最古級の長編小説を書いた偉大な女性作家。人間心理を繊細に描いた名作。
もちろん、それは間違いではないと思う。
しかし、私はある時ふと思った。
これ、当時の人たちは本当にそんな高尚な気持ちで読んでいたのだろうか。
もっと単純に、
「光源氏、今度は誰のところに行ったの?」
「この女の人、どうなるの?」
「正妻にバレないの?」
「また別の女?」
みたいな気持ちで読んでいたのではないだろうか。
つまり私は、『源氏物語』にはかなり強い「ゴシップ性」があると思っている。
現代人はゴシップという言葉を少し低俗なものとして扱う。
芸能人の熱愛、不倫、離婚、誰と誰が仲が悪い、誰が誰を嫌っている。
女性週刊誌などに載っていそうな話である。
しかし、人間は昔からこういう話が好きだったのではないだろうか。
考えてみれば、平安時代の宮廷社会は、ものすごく狭い。
現代の大都市のように、知らない人間が何百万人も住んでいる社会ではない。
同じような身分の人間が、同じ宮廷の中で生活している。
誰が誰のところへ通った。
誰から手紙が来た。
誰の和歌が上手かった。
誰の字が下手だった。
誰の衣装の色合わせが美しかった。
誰が気が利かなかった。
そんな情報が、そのまま人間の評価につながる。
要するに、ものすごく濃密な「評判社会」だったのではないかと思う。
しかも平安時代には、今のようなテレビもインターネットもスマートフォンもない。
となると、人間そのものが最大の娯楽になる。
恋愛も噂も人間関係も、全部コンテンツである。
そう考えると、『源氏物語』が大流行したのは当然なのではないだろうか。
光源氏という超有名人の恋愛遍歴を中心に、正妻、愛人、過去の女、身分の高い女、低い女、嫉妬する女、諦める女、傷つく女が次々登場する。
現代に置き換えたら、とんでもない大型芸能ゴシップである。
ところが、現代ではこれを「文学」と呼ぶ。
ここで私は疑問に思う。
もし『源氏物語』が芸術なら、女性週刊誌も芸術として認めてもいいのではないだろうか。
こう言うと怒る人がいそうである。
「源氏物語と女性週刊誌を一緒にするな」
と言われそうだ。
しかし、私は題材の話をしている。
不倫や恋愛や人間関係を扱ったから低俗であるというなら、『源氏物語』だってかなり危ない。
逆に、不倫や恋愛や噂を扱っていても、それを巧みに構成し、人間心理まで深く描けば芸術になるというのであれば、女性週刊誌の中にも芸術に近づくものがあっても別におかしくない。
写真の撮り方。
見出し。
文章。
人物の描写。
読者に「次を読みたい」と思わせる構成。
これらも全部、表現技術である。
もちろん私は、女性週刊誌の記事が全部『源氏物語』と同じ価値だと言っているわけではない。
そこは全然違う。
ただし「高尚な題材だから芸術で、俗っぽい題材だから芸術ではない」という考え方は変ではないかと思っている。
そもそも芸術というものは、後世の人間が勝手に高尚にしている部分もある。
浮世絵だって、今では美術館に飾られている。
しかし当時から、現代の美術館に置かれているような扱いだったわけではない。
歌舞伎だって庶民の娯楽だった。
小説だって娯楽だった。
その時代の人間が面白がって楽しんでいたものを、後の時代の人間が、
「これは文化である」
「これは芸術である」
「これは古典である」
と言い始める。
つまり、大衆娯楽と芸術は、最初からきれいに分かれているわけではないのではないか。
私は『源氏物語』も同じだと思う。
最初から千年後の文学研究者に分析されるために読まれていたわけではない。
まず面白かったのだと思う。
そして、人間は他人の恋愛が好きである。
他人の秘密も好きである。
誰と誰が付き合った。
誰が振られた。
誰が嫉妬した。
誰が裏切った。
これは現代でも変わらない。
では、なぜ無数にあったであろう噂話の中から『源氏物語』だけが長く残ったのか。
そこには、やはり紫式部の力があったのだと思う。
単なるゴシップなら、その時代が終われば価値がなくなる。
昨日の芸能ニュースを二百年後の人間が読んでも、登場人物を知らなければあまり面白くない。
ところが『源氏物語』には、嫉妬、執着、孤独、老い、喪失、身分差、愛されたい気持ち、愛されても満たされない気持ちなど、時代が変わっても残るものが入っている。
つまり、
「入口はゴシップ、奥は人間心理」
だったのではないだろうか。
私は、この二つを分ける必要はないと思う。
むしろゴシップだからこそ、人間心理が一番よく見えることもある。
人間はどうでもいい相手には嫉妬しない。
興味があるから怒る。
好きだから苦しむ。
自分より評価される相手がいるから腹が立つ。
『源氏物語』も『枕草子』も、そういう人間の生々しさが面白い。
清少納言と紫式部についても同じである。
よく二人はライバルのように扱われる。
実際には宮仕えの時期も少しずれていて、直接二人が毎日のように喧嘩していたわけではないらしい。
しかし紫式部が清少納言について、かなり辛辣なことを書いているのは事実である。
これも私は面白い。
現代風に言えば、
「知識をひけらかしてるけど、あの人どうなの?」
みたいなものだからである。
非常に人間臭い。
歴史上の偉人というと、私たちはつい人格まで完成された人のように考える。
しかし、偉い文章を書いた人間だって、嫌いな相手は嫌いなのである。
「あの女、なんか気に入らない」
と思うことくらいある。
むしろ、そこが面白い。
私は『枕草子』には現代のSNSに近いものを感じる。
「こういうものは素敵」
「これはダサい」
「こういう男は嫌」
「この瞬間が最高」
と、自分の感覚で世界をどんどん評価していく。
清少納言が現代にいたら、かなり人気のあるSNSアカウントを持っていたのではないかと思う。
一方で紫式部は、その人間関係をもっと長く観察する。
この人はなぜこんな行動をするのか。
その行動によって周囲はどう傷つくのか。
年月が経ったらどう変わるのか。
そういうところまで描く。
だから私なら、
『枕草子』は平安時代のSNS。
『源氏物語』は平安時代のゴシップを材料にした長編人間ドラマ。
と考える。
そして私は、こういう作品が千年残った理由を、「文学的に優れていたから」だけでは説明したくない。
それでは順番が逆なのではないだろうか。
まず、面白かった。
続きが気になった。
人に話したくなった。
何度も読まれた。
写本された。
語り継がれた。
その結果、千年残った。
千年残ったからこそ、後の学者たちが細かく研究するようになり、文学史上の大傑作と呼ばれるようになった。
もちろん、本当に優れていなければ千年も残らなかっただろう。
しかし、「優れていたから読まれた」だけではなく、
「ものすごく面白かったから残り、その面白さの奥に人間心理の普遍性まで入っていた」
と考えた方が、私はしっくりくる。
これは夏目漱石にも少し似ている。
『こころ』なども、授業では「近代的自我」など難しい言葉で説明される。
しかし普通の読者からすれば、
「先生とKとお嬢さんの間に何があったんだ?」
という興味でページをめくる部分がかなり大きい。
人間は難しい思想だけでは物語を読み続けない。
まず先が気になるのである。
誰が誰を好きなのか。
どうなるのか。
秘密は何なのか。
この欲望は、平安時代も明治時代も令和も、それほど変わっていないのではないだろうか。
だから私は、ゴシップを文学より下に置く必要はないと思っている。
ゴシップとは、ものすごく原始的な「他人の人生への興味」なのかもしれない。
その興味を一瞬だけ満たして消えるものもある。
そこから人間そのものを描き切って、何百年も残るものもある。
『源氏物語』は、その後者だった。
そう考えると、私は紫式部を少し身近に感じる。
千年後の教科書に載る大文学を書こうとしていた人というより、
「この人間関係、面白いでしょう」
と読者の顔を思い浮かべながら物語を書いていた一人の作家に見えてくる。
そして読者たちは、
「それで光源氏、次はどうなるの?」
と思いながら続きを待った。
もしかすると文学というものは、最初からそんなに高尚なものではないのかもしれない。
人間の野次馬根性から始まって、その中に本物の人間心理が残った時、後世の人間がそれを「芸術」と呼ぶのではないだろうか。




