side標的 撹乱される日常
何も出していないのに、ご馳走さまとか言われた。……俺は知らず知らずに何かを奪われたのだろうか。わからない。
一つわかるのは、相手を甘く見ていたと言うことだ。
魔物との戦闘じゃ敵を過小評価するなど死に繋がる愚かさだと言うのに。
俺は妻を見誤っていたんだ。
例えば、暗殺者とは把握していても、よもや可憐な見た目でガチの暗殺業だとは思わなかったが、問題はそこじゃない。もしもそれだけが対処すべき点だったならどれ程簡単だったろう。
翌日。文字通り早くも強敵との対峙は始まった。
「おはようございます旦那様。早朝からの鍛錬お疲れ様でっす。ささっ、汗拭きタオルをどうぞ。水分補給にと冷たい果物ジュースも用意致しましたので、是非そちらも」
爽やかな良妻の微笑みを浮かべ、彼女はブラッドリー家の鍛錬場にやってきた。
『きゃーっ上半身裸っ、半裸よ半裸、眼福胸板腹筋おへそっ、しっとり汗したお顔もどうしてそんなに素敵なのお~っ! その汗絶対フローラルな男臭よね。嗅ぎたい嗅ぎたい嗅ぎたい~っ。ううんむしろ彼の顔の汗になりたいっ、地肌に張り付きたいっっ』
彼女の微笑んで直接声に出した台詞と内面とのギャップが半端なく、俺は俺の能力がおかしくなったのかもしれないと一瞬危ぶんだ。
同じく鍛錬後の部下たちの思考に別段おかしなところはなかったので、彼女の思考だけがおかしいのだと安堵したが。
いや、妻が変態で安堵するとか……。
何だか人生が死ぬ以外で終わりそうな気がして頭を振り気持ちを切り替えた。
この日も差し入れには何も仕込まれてはいなかったので、警戒していた部下たちに安全だと見せるために、俺が最初に飲み干して、皆で全部美味しく頂いた。
それ以来、彼女は早朝からの鍛錬は勿論、食事や執務時間にも予告なく押しかけてきては図々しく居座り、他愛のない会話を試みる一方では惜し気もなく内面の破廉恥さを露呈して行った。
どこまで褒めれば気が済むのかと、恥ずかしくてついつい顔を赤くしそうだったが、日々の訓練の賜でどうにか出さずにいられた。
俺もわざわざ能力で探るのがいけないが、その時その時敵が何を考えて近付いてきたかを把握しないことには、暗殺者相手に幾つ命があっても足りない。致し方ないんだよ。
これまでのところ、まだ妻は俺を暗殺しようとする様子はない。偵察段階だと言い聞かせているようだ。さすがはプロ、慎重だ。
姿を見せた彼女のその時の意向をチェックするのが日課になりつつある中で、彼女に付き合わされ顔が好きだ云々との内心を聞きながら、俺はいつも冷淡にしか応対しないでいる。比喩ではなく、いくらベタ褒めでも後ろ手にナイフを隠し持っている相手に心を許せるわけがない。
「用件が済んだならさっさと部屋に戻れ」
その日も書斎で抑揚なく命じれば、彼女は頬をヒクヒクさせた。
「わ、かりました。それでは御機嫌よう旦那様」
『あ~~~~っこの冷血漢! 腹立つ腹立つ腹立つやっぱさっさと暗殺してやる~っ。でも悔しい悔しい悔しい悔しい~~~~っっ、突き放されてもその罪な顔で言われたら弱い~~~~っっ、顔を好き過ぎるあたしの馬鹿~~~~っっ、でも好きっっ!! 抱いてっっ!!!!』
正直、噴き出しそうだった。
どうやったら人間こんな中身になるんだろうか。それとも常に感情を抑圧して残酷な任務をこなす世の暗殺者たちはこんな風なのだろうか。
「いや、そんなわけないだろう。阿保か俺は」
彼女がおかしいんだ。プリプリしてバタンと乱暴に扉を閉めて出て行った後で、ややあってそう独り言ちた。本当に調子が狂う女だ。




