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side標的 殺意と煩悩に揉まれる日々

「うわっ!? 何でこんな所にスライムが……いや我が妻かこれは」

「でへへへへ~」


 俺は無言で大きく迂回した。

 最近は屋敷内でよくスライムを見かけるようになった……と思ったら至福に蕩けた妻だった、という究極の奇妙に遭遇する。


 暗殺者以前に、果たして彼女は人間なのかと割と真面目に考える日もある。

 何がそこまで彼女を炙った美味しそうなチーズのようにさせるのか。

 ……お、美味しそうなのはチーズであって断じて彼女のことではない。


 いや、話を戻そう。

 わかってはいる。原因は俺だ。

 一応警戒しながらも避けていたのを悟られたようで、逆に距離を詰めようと画策しているようなんだ。しかも以前よりもごり押しで。はぁ、悪く言えば諦めの悪い、良く言えば芯の強い女だよ。


 何故避けているのかは、あの覗きの夜から暫く、捕まえて抱き寄せた薄布越しの感触やその間の彼女の体温やら呼気などの記憶がどうにも鮮烈で照れ臭くて、不埒な考えすら浮かぶのが堪らなく悔しく気まずくもあって、そんな内心の動揺を気付かれたくなかったから逃げたんだ。我ながら情けなくもな。弱みを見せてしまって握られるよりはマシだろう。


 しかし厄介にも、彼女はもう屋敷の中ではどこにでも出る。一般的に嫌われがちな黒い甲虫が擬人化したのが彼女だと言われても納得してしまうだろう。

 新妻から慕われるのは普通の夫なら浮かれることかもしれないが、俺としては複雑だ。


 最早俺を殺したいのか愛でたいのかよくわからないから逆に怖い。


 だがしかしだ、蕩けた新妻に遭遇しても表情を一切変えないなど根気強くガードを緩めずに過ごしていたら、ある日、ついに、とうとう、ようやく、暗殺者らしい動きを見せたんだ。

 俺の新婚苦行の日々ももうすぐ終わると感動すらしたよ。


 目を合わせない間に、向こうにどんな心境の変化があったのかは知らないが、彼女は鼻息も荒く真っすぐに俺の目を見て胸中でこう息巻いた。


『今日こそは目的達成目的達成目的達成目的達成目的達成目的達成目的達成するわよーーーー!!』


 目標達成とはそれ則ち俺の暗殺だろう。


 ふっ、油断大敵とはよく言ったものだ。何も気付かないふりをして攻撃をいなしてやる。そして逆にこちらから強烈な一撃を見舞ってやろうではないか! 昏倒させたら縛って国王に突き出してやる。


 彼女は迷いのない足取りで、旦那様ご機嫌用と廊下をこちらに歩いてくる。


『あと少しあと少しあと少しもうちょっと~っ』


 正面から胸を突くつもりだろうか、それとも狙いは首?

 何にせよ密かに身構えいつでも防御できるようにしておく。


『よしっ、よしよしよしよしよぉーしっ、今だわ!』


 叫びと同時に、彼女の爪先が床で躓いてふわりと前方に体が浮く。


「あぁっ……!」

「なっ」


 おいおいマジか、と俺は内心唖然とした。これは大事な場面でまさかのドジっ娘発動かと。

 そう思って咄嗟に両腕を伸ばして受け止めようとしていた。


 されど刹那、実はこれは陽動で、俺の無防備を狙ったものかもしれないとハッとしたが時既に遅し。抱き留めてしまった自分にぬかったと焦ったが、隠しナイフでグサリとはならなかった。


『ぐへへへへへへやったわやったあああーーーーっ! ついにどさくさ抱き着き成功っ。きゃー素敵な胸板にダ~イブできちゃったあああ~っ、ミントみたいな良い匂いにすーはーすーはーしていい? あの夜は石鹸の香りだったけどこれもまた乙っ、だけど背中から密着だったから物足りなくて欲求不満で夜も眠れなかったのよね~。真ん前から思う存分行きたかったのをついにやってのけたわ。うふふふついでにマーキング宜しくすりすりしちゃおっと~ん。本当は裸体にそうしたかったけど、今回は服の上からで我慢するわ。あぁそれでも隠し切れない男の色気と手で叩くといい音がしそうな鳩胸さんだわ~ん!』


 くっ、精神への破壊力でかいなっ!


「…………どこ行った殺意ッ」

「え、はい? 何か? よく聞き取れませんでした」

「気にするな……」

「受け止めて下さりありがとうございました。おかげで転ばすに済みましたわ」


 頬を染めて俺の胸元から無垢な目で見上げてくる、プロ暗殺者。

 くっ、殺し屋が無垢な目とか……っ。


 一体全体どうなっているんだこの女の頭の中は!

 いや、わかっている。俺への煩悩、エロで満載だとはっ! 殺意は現在おそらく毛くらいしか抱いていないだろう。

 今も内心では『ぐへへむふふ』と俺を嘗め回して嫌な笑いをしている。

 あぁ、山賊のボスに捧げられた生娘にでもなった気分だ。


 いっそガチの殺るか殺られるかのバトル展開なら勝算もあるというものを。


 いや待て、これこそ俺を油断させる長期的な作戦の一つに違いない! 短期暗殺計画改め、この屋敷に根差し馴染んだ時に不意打ちすると言う策だろう。国家レベルでのスパイによくある手法だ。


 そうは思っても、上機嫌な猫のように懐いてくる相手を突き放すこともできず、俺は廊下に間抜けにも棒のように突っ立ったまま、謝意を述べる新妻の欲求の捌け口になっていた。

 時に、女とはげに恐ろしき生き物だと痛感した。


 そして、この彼女にとっては成功体験の日からすっかり遠慮は消え去り、より一層の大胆不敵を地で行った。


 とある日は、鍛錬の差し入れに普通に美味しい果実水を持ってきた。この頃では部下たちも中々に美味なたまの差し入れを楽しみにしていて、彼女へは好意的に接している。そもそも大公妃なのだから俺ならともかく彼らに露骨な形での無礼はできないんだった。

 やはり毒は入れてはなく、彼女の方も作るのを楽しんでいるようだ。今日は特に自信作だとか。そんな風な可愛い奥さんみたいな言動には俺もついつい和みそうになる。


 しかし早まるなかれ、汗で不快になり上を脱いだ途端目を皿のようにして俺を凝視、怒涛の破廉恥思考が浴びせられた。


『待~ってましたーっ! ぃよおーっし、今日の狙いは尊きあの背中! 左右の肩甲骨さんたちあたしの愛の体当たりと頬擦りを受け止めてね。ふふふふ後ろを向いた時が千載一遇の大チャーンス。鍛錬後の汗香る背中にむしゃぶりついて一気に骨身まで攻めてやるから覚悟なさいな!』

「…………」


 ハッ、骨身とは随分と力業だ。暗器は斧か何かか?

 何も気付かないふりをして背を向けると、近付いてくる足音が。

 一気に飛び掛かってくるか? ならばこちらはササッと避けてしんぜよう。そうやすやすと殺られる俺ではない。


 真後ろすぐに気配が迫り、俺は己の命を囮にすらした緊張に汗しながら回避行動へスタンバる。

 来るなら来い!

 刹那。


 スルリと脇から腕を回してきてバックハグされた。


「…………は?」


 てっきり背中から不意打ちの刺突かと思っていたから肩透かしを食らったよ。小さく漏れ聞こえた「ぐふっ」という笑い声に、何となく彼女とは目を合わせない方が無難に思えて、決して振り返ったりはしなかった。たぶんそれで大正解だろう。もしも振り返ってしまえば能力が更新されて……我知らずぶるりと体が震えた。

 これも油断させる一手だろうが、手強いな。まだ欲望優先して本性を晒そうとはしない。


 とある日も、


『今日こそは動けないくらいに絡め取ってやるわ!』


 そんな息巻きの真の標的は縛ってからの俺の命ではなく、指だった。


 五指を絡めての恋人繋ぎ。それで屋敷の庭をルンルンランランな彼女と共に散歩させられた。

 くっ、断れなかった俺は一体……っ。


 そんな風にして彼女は事あるごとに俺への接近接触を繰り返し、俺は無駄に警戒して空回り、彼女はスキンシップに一人満たされ大興奮するという、俺にとっては無念の日が暫く続いた。

 煩悩なのか殺意なのか……いや煩悩でしかなかったんだが、紛らわしいんだよ!


 だが、どこか擽ったさも感じていた。

 いつのまにか、彼女の好意を満更でもないと感じていた。

 わかっていたのに迂闊にも、これが当たり前のような妙な慣れも感じてしまっていた。


 ……どうせこれが狙いで、そもそも俺たちは初めから終わっていたと言うのに。

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