第9話「交渉」
馬車の音が止んだ。
蹄の音、車輪の音、護衛の革靴が石畳を踏む音。それらが順番に消えて、最後に静寂が来た。
私はそれでも、薬研を回し続けた。
マリアが窓から離れて、私の斜め後ろに立った。音で分かった。いつも観察する時に使う位置だった。
「先生、何人来ましたか」
「馬車が三台なら、護衛を合わせて十人前後でしょう。一台は使者。一台は護衛の荷物。もう一台は、念のため用意した空車だと思います」
「空車は、何のためですか」
「私が即日同行すると踏んでいたのでしょう」
マリアは何も言わなかった。
私は薬研の中の黄連の根が、充分に細かくなったことを確かめて、手を止めた。すり鉢の縁を布で拭いて、棚の上に置いた。それから、立ち上がった。
診療所の戸口を開けると、男が三人、入り口の前で待っていた。
先頭の男は四十代の半ば、銀糸の刺繍が入った深青の外套を着ていた。王都の高官が正式な訪問に使う色だった。後ろの二人は護衛で、剣は佩いていたが、刃に手をかけていなかった。
男は私を見て、一礼した。腰を深く折る礼だった。
「エルダースの治癒師、アイリス殿。私はリュッカー卿、王家の使者にございます」
「リュッカー卿」
「お時間をいただけますか」
私は戸口から一歩脇に寄った。
「どうぞ」
診療所の卓の前に、リュッカー卿を座らせた。護衛の二人は外に残った。マリアが茶の用意をした。私は卓の向かいに座った。
リュッカー卿は茶を一口飲んでから、話を始めた。
「単刀直入に申し上げます」
「はい」
「アイリス殿に、王都にお戻りいただきたい」
私は卓の上で、両手を組んだ。
「続けてください」
「現在、王都では黒沈熱の患者が増え続けております。神殿の薬師たちは懸命に対応しておりますが、処方が効かない。発症から一週間で、高熱と紫斑が重なり、それ以降は手の施しようがなくなっております」
「死者数は」
「現在までに、七十三名です」
私の手の中で、何かが沈んだ。
七十三。
文を出した時点で五十一人だったから、二十二人が増えたことになる。
「神殿は、現在どういう処方を使っていますか」
「神殿の典籍に記された処方を」
「煎じ時間は」
「二半刻、と聞いております」
私はうなずいた。それ以上は言わなかった。
「アイリス殿」
リュッカー卿が、少し声を落とした。
「エリーゼ殿下——新聖女様は、光治癒魔法を尽くされました。しかし、根治には至っておりません。半日以内に熱が戻ります。患者の中には、施術を拒む者も出てきております」
私は彼の顔を見た。彼は視線を外さなかった。
「殿下は、そのことを、自らの責任と感じておられます」
「エドワード殿下の話を、今はしなくて結構です」
リュッカー卿が少し止まった。
「……失礼しました」
「王都に戻ることを求めているのですね」
「はい。アイリス殿を聖女として、正式に地位を回復した上で、疫病の対応に当たっていただきたい」
私はしばらく、卓の上の茶杯を見ていた。湯気が細く立ち上って、消えていた。
「リュッカー卿」
「はい」
「王都には戻りません」
卓の向こうで、リュッカー卿の肩が少し動いた。
「理由を、お聞かせ願えますか」
「私は今、治癒師です。辺境エルダースの治癒師です。ここに患者がいます。ここを離れる理由がありません」
「しかし、王都にも患者が」
「います」
私は彼の言葉を遮らなかった。最後まで聞いてから、続けた。
「ですから、条件をお伝えします。私が戻らなくても、王都の患者が助かる条件です」
リュッカー卿は、少し前のめりになった。
「聞かせてください」
「三つあります」
私は立ち上がって、棚から紙を一枚取った。書かれていないただの紙だった。卓の上に置いて、座り直した。
「一つ目。神殿の典籍の煎じ時間を、正式に訂正すること」
「典籍の、改訂ですか」
「二半刻ではなく、四半刻です。二半刻では山栗の苦味成分が抽出されすぎる。処方の配合は合っています。煎じ時間だけが誤記です。二百年の写しを重ねる過程で生じたものと思われます。神殿地下書庫の原典と、王都薬師組合の写しとを照合すれば確認できます。私の文に書いた通りです」
「神殿は、それを公式に認めることになりますが」
「はい」
「……承りました。続けてください」
「二つ目。今すぐ、王都の薬師を一人連れてくること」
リュッカー卿が、わずかに首を傾けた。
「……今すぐ、とは」
「馬車に同行している方の中に、薬師はいますか」
「一名、おります。万一の場合の御身の治癒のために」
「その方を呼んでください。今から四半刻、処方の手順を直接お教えします。煎じ方、配合比、介入のタイミング、投薬の間隔。口頭ではなく、実地で。材料はここにあります」
リュッカー卿は、少し間を置いてから立ち上がった。
「……少々お待ちください」
薬師の男は、四十代の前半に見えた。外套の襟に、王都薬師組合の証章をつけていた。名をテーデル・ファルテといった。
「アイリス先生」
彼は診療所に入るなり、一礼した。
「お名前は、存じております。神殿にいらした頃に、何度か遠くから拝見したことがあります」
「テーデルさん」
「はい」
「今からお教えすることを、王都に持ち帰って広めてください。薬師組合の方々に」
「はい」
「記録しながら聞いてください」
テーデルが懐から帳面と炭筆を出した。私はマリアに目配せをした。マリアが棚から薬草の束を出した。黄連、大黄、山栗の樹皮。
「黄連が二、大黄が一、山栗の樹皮の内側の白い層が三。まず計りで量を確認します」
テーデルが、書き取りながらうなずいた。
「配合は、これまで王都で使われているものと同じはずです。変わるのは煎じ時間です」
「四半刻、と」
「はい。砂時計があれば確実です。なければ、脈拍で計ることもできます」
マリアが口を挟んだ。
「先生、私の脈を使いますか」
「使ってください」
マリアが自分の手首に指を当てた。テーデルが驚いた顔でマリアを見た。
「この子は弟子ですか」
「はい。マリアといいます。脈の計時は、彼女の方が正確です」
テーデルが帳面に何かを書き加えた。マリアは動じなかった。
四半刻、土鍋を火にかけた。煎じる間、私はテーデルに投薬の条件を説明した。
「発症後、三日以内が介入の目安です。四日以降は、薬の効果が体の損傷に追いつかなくなります。三日以内でも紫斑が出た場合は、介入直後に効果が出にくいことがある。根気よく続けてください」
「投薬の間隔は」
「二刻ごと。最初の一杯を飲ませた後、必ず間隔を守ってください。途中で止めると効きません」
「意識のない患者には」
「匙で、少しずつ。唇から垂らす程度でも構いません。飲み込む力が残っているなら、繰り返します」
テーデルは黙々と書き続けた。炭筆の走る音だけが聞こえた。
マリアが「四半刻です」と言った。
私は土鍋を火から下ろして、布で濾した。黒に近い、濃い茶色の液が、椀に落ちた。
「匂いを確認してください」
テーデルが椀の上に顔を近づけた。
「苦い」
「苦くなければ、山栗の成分が足りていません。苦すぎたら、煎じすぎです。今の濃さが正解です」
テーデルが、帳面に「苦い匂い、正常」と書いた。
私はそれを見て、何も言わなかった。
テーデルが帳面を閉じた時、リュッカー卿が診療所の戸口に立っていた。
「三つ目の条件を、まだ伺っておりません」
私はテーデルに椀を預けて、向き直った。
「三つ目です。この処方の発見者として、オットー・ブレナーの名を正式な記録に残すこと。エルダースの薬師、ブレナーの祖父代より伝わる記録が、この処方の根拠の一つです。私の名は不要です。ブレナーの名を残してください」
「アイリス殿の名は、どこにも記載しないということですか」
「はい」
リュッカー卿は、しばらく私を見ていた。
「……アイリス殿。それでは、あなたには何も残りません」
「残ります」
私は卓の上の薬研を見た。
「今日、処方が伝わります。七十三人より多くなる前に、届きます。それで充分です」
リュッカー卿が、懐から封書を取り出した。
厚みのある紙で、封蝋に王家の紋章が押されていた。エドワード殿下が使う紋章を、私は覚えていた。
「殿下からの御親書です」
「はい」
「条件を御拒否された場合に、お渡しするよう言われておりました」
私は彼を見た。
「まだ拒否していません」
リュッカー卿が、少し止まった。
「……そうでした。失礼を致しました。殿下は——その、先に書かれたようで」
私は手を差し出した。
「拝読します」
封書を受け取った。重さがあった。
私は封を切った。手紙は、三枚あった。
読んだ。
文字は丁寧に書かれていた。エドワード様の筆跡は、昔から几帳面だった。几帳面に書かれた字で、几帳面に謝罪していた。
書いてあることを、私は一行ずつ読んだ。
選択の誤りを認める言葉があった。光魔法を優先した判断が、今の結果を招いたとする言葉があった。神殿の処方への過信を認める言葉があった。
最後に、こう書かれていた。
> 私の失態は、私が引き受ける。
> ただ、患者だけを助けてほしい。
> それだけを頼む。
私は手紙を読み終えて、三枚を揃えた。
診療所の中は静かだった。リュッカー卿は立ったまま、私を見ていた。テーデルは帳面を持ったまま、視線を落としていた。マリアは、私の斜め後ろに立っていた。
私は手紙を卓に置いた。
「条件を、そのままお伝えください」
「……承りました」
「三つすべての条件です。煎じ時間の訂正、薬師への直接指導——本日テーデルさんに行いました——そしてブレナーの名の記録。これで、王都の患者は助かります」
「聖女としての御地位については」
「要りません」
リュッカー卿が、深く一礼した。
「……アイリス殿」
「はい」
「殿下は、あなたが断ると思っていたようです。戻ることを」
「戻りません」
「それでも、感謝を申し上げます」
私はうなずいた。それ以上は何も言わなかった。
馬車の音が、来た時と逆の順番で遠ざかった。
蹄の音、車輪の音、護衛の靴音。最後に、また静寂が来た。
私はしばらく、戸口の前に立っていた。
北の街道の方角に、午後の光が伸びていた。
「先生」
マリアが、私の少し後ろから声をかけた。
「はい」
「殿下の手紙は」
「読みました」
「何が書いてありましたか」
私は戸口から離れて、卓の前に戻った。
手紙はまだ、卓の上にあった。私はそれを手に取って、もう一度だけ見た。それから、折り畳んで棚の引き出しに入れた。
「謝罪でした。事実の誤りを認める言葉でした。そして、患者を助けてほしいという言葉でした」
マリアが少し間を置いてから、また言った。
「先生は怒りませんでしたか」
私は窓の外を見た。
北の街道はもう静かで、馬車の姿はなかった。夕方の光が、遠い山の稜線に当たっていた。
怒るかどうか。
私の中に、何かはあった。名前をつけようとすると、すり抜けるものだった。怒りではなかった。悲しみでもなかった。長い時間をかけて、雨が石を削っていくような、静かな種類の感情だった。
窓から、視線を戻した。
「怒る相手ではありません」
「……先生」
「私は今、治癒師です」
卓の上の薬研を手に取った。昨日の続きが、まだ残っていた。
黄連の根を、また回し始めた。
診療所の中に、石を挽く低い音が響いた。




