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第8話「決断」

夜明けに、子供の額に手を置いた。


 熱は三十七度九分まで下がっていた。紫斑は淡いまま、これ以上広がる気配はなかった。呼吸は浅いが、苦しげではない。


「峠を越えました」


 私が言うと、母親が膝から崩れた。今度は声を出して泣いた。父親が壁の前で頭を下げ続け、何度も「先生」と言った。私はその「先生」が、私一人に向けられたものではないことを知っていた。マリアにも、ブレナーにも、向けられていた。


 戸口の外で、ブレナーが立っていた。早朝の冷たい光の中で、その顔は一夜で老けたように見えた。


「ブレナーさん」


「ええ」


「子供は助かりました」


「聞いていました。母親の泣き声で、分かりました」


 彼は中へ入らなかった。土間の入り口で、両手を膝に置いて頭を下げた。私はその姿を、しばらく見ていた。





 帰り道、マリアが私の少し前を歩いていた。籠の中で空の薬瓶が乾いた音を立てていた。ブレナーは隣を歩いていた。


「先生」


 ブレナーが、山道の中ほどで足を止めた。


「文の話ですが」


「はい」


「私の名で出してください。先生の名は出さないでください」


「いいのですか」


「私の名で出ないと、王都は読みません。先生の名は、まだ王都にとって、忘れたい名でしょう」


 私は黙って彼を見た。彼は私を見返さなかった。山の上の方の、まだ霧が残っている辺りを見ていた。


「忘れたい名、ですか」


「失礼な言い方をしました」


「いえ」


 私は首を振った。


「正しい言い方です」


 彼は何も言わなかった。私もしばらく何も言わなかった。マリアが少し離れて、私たちを待っていた。


「ブレナーさん」


「ええ」


「文には、何を書きますか」


「処方を書きます。配合と煎じ時間と、介入の条件を。それだけです」


「私の名前は、本当に出さなくていいのですか」


「出すと、王都は処方を捨てます」


 彼の声には怒りはなかった。事実を述べる声だった。私はそれが、二十五年、辺境で薬師をしてきた人間の声だと思った。


「分かりました」


「先生、もう一つ」


「はい」


「この文で、何人助かるかは、分かりません」


「ええ」


「ですが、私の祖父の帳面が、二十五年前に書いた警告は、もう外れません。地方の薬師は忘れるな、と書いてあった。私は忘れていなかった。先生も忘れていなかった。それで充分です」


 私はうなずいた。


 空が少し白んでいた。山の稜線の向こうで、王都の方角の雲が薄く赤くなり始めていた。





 その日のうちに、文を書いた。


 ブレナーの家の卓で、彼が口述したものを私が清書した。配合、煎じ時間、介入条件、投薬の間隔。それだけだった。私の名は一字も入れなかった。最後に、ブレナーが自分の名と、エルダースの所在を書き添えた。「祖父代より続く薬師、オットー・ブレナー」と。


 文は、エルダースから王都へ向かう商隊に託した。十日で着く、と商隊長が言った。


 私たちは見送らなかった。商隊が出る朝、私は普段通り診療所を開け、マリアと一緒に三人の患者を診た。風邪、関節炎、軽い火傷。生死に関わらない患者だった。


 その日の夕方、クラウス様の使いが来た。


「辺境伯から伝言です。王都の疫病の死者が、五十一人を超えたと」


 私はうなずいて、使いに茶を出した。


「先生」


「はい」


「辺境伯は、何もおっしゃいませんでした。ただ、先生に伝えるように、と」


「ありがとうございます」


 使いが帰った後、マリアが私の隣に座った。


「先生」


「マリア」


「王都に文を出したこと、辺境伯は知っていらっしゃるのですか」


「知っているでしょう。エルダースの商隊の動きは、辺境伯の耳に入ります」


「それで、何もおっしゃらない」


「ええ」


 マリアは少し考えてから、また言った。


「優しい人ですね」


 私は彼女を見た。彼女の言葉の選び方は、いつも私の少し先を行っていた。





 文を出して、十二日が過ぎた。


 その間に、エルダースの診療所には、いつも通りの患者が来た。隣村から運ばれてきた子供の高熱が一件あった。黒沈熱ではなかった。普通の風邪をこじらせたもので、三日で回復した。


 マリアの治癒術の練習は、少しずつ精度を上げていた。今では、私が線を引いた魔力経路を、九割の正確さで追えるようになっていた。


 ブレナーの家にも、何度か顔を出した。彼は祖父の帳面を、別の項目から私に読ませてくれた。「冬至前の咳病」「夏越しの腹痛」。私の知らない名前の病気が、いくつもあった。


 穏やかな日々だった。


 十三日目の朝、ブレナーが息を切らして診療所に駆け込んできた。


「先生」


「どうしました」


「神殿から、文の返事が来ました」


 彼は懐から、封蝋のついた書状を出した。神殿の紋章だった。私は、その紋章を十年見続けてきた目で、それが本物だと知った。


 封を切ったのは、ブレナーだった。彼が読み、それから私に渡した。私は黙って読んだ。


> 辺境エルダースの薬師、オットー・ブレナーへ。

> 御提示の処方については、神殿薬師会にて検討した。

> 配合および煎じ時間は、神殿の典籍と異なる。

> 地方の伝承を以て神殿の処方に勝るものとすることはできない。

> 御親切には感謝するが、当方の対応は神殿の典籍に依る。


「神殿の典籍は、二百年前の写しのままです」


 私はそう言った。


「ええ」


「煎じ時間が二半刻のまま、ということです」


「ええ」


「煎じ時間を間違えると、薬は効きません」


「ええ」


 ブレナーはそれだけ言うと、文を卓に置いた。彼の手が、わずかに震えていた。怒りではなかった。怒りなら、もっと早く震える。これは、長く積もったものが、最後に表に出る震えだった。


「先生」


「はい」


「あと何人、死ぬのでしょうか」


「分かりません」


「死ぬのは、王都の貧しい人たちです」


「ええ」


「神殿の典籍を守るために、死ぬのです」


「ええ」


 私はその後、何も言わなかった。言葉では届かないことを、私たちは二人とも知っていた。





 その夜、私は診療所で一人になった。マリアは家に帰っていた。


 窓を開けて、王都の方角を見た。月のない夜だった。


 神殿の返事を、私はもう一度読んだ。「地方の伝承を以て神殿の処方に勝るものとすることはできない」。この一文を書いた人間を、私は知っているような気がした。たぶん、神殿薬師会の長老の誰か。私が地下書庫で会ったことのある、灰色の髭の老人。彼は、私が「黒沈熱」の記録を読んでいるのを見て、こう言った。「聖女様、それは古い病気です。今は流行りません」。


 今、流行っている。


 彼はおそらく、自分が書いた典籍の煎じ時間を、今も正しいと思っている。間違いを認めると、神殿の権威が崩れる。だから、ブレナーの祖父の帳面の方を「地方の伝承」と切り捨てる。それが、彼の仕事の守り方だった。


 私はその仕事の守り方を、十年間、近くで見てきた。だから、別に新しい怒りはなかった。ただ、覚悟は固まった。


 もう一通、文を書こう。


 今度は、私の名で。


 神殿宛てではない。第二王子エドワード宛てだ。彼は神殿の典籍を信じていない。光魔法を信じている。神殿の威信より、自分の婚約者の選定が正しかったことの方を、ずっと気にしている。彼にとって、疫病の対応失敗は、自分の選択の失敗と同義になる。だから動く。


 動かせる相手に、文を書く。


 私は卓に戻り、紙を取り出した。


 最初の一行を書こうとして、止まった。


 差出人の名を、まだ決めかねていた。


 「アイリス・フォン・ヴァルテリア」と書くのか。それとも、もう聖女の家名は使わないのか。


 長く考えた。


 ペンを置いて、夜明けまで考えた。





 翌朝、文は書き上がっていた。


 差出人の欄には、こう書いた。


> 辺境エルダース、治癒師アイリス


 家名はなかった。聖女の称号もなかった。ただ、今いる場所と、今の仕事だけが、私の名前だった。


 文の内容は短かった。煎じ時間と配合の訂正。介入条件。それだけ。最後に、こう書き添えた。


> 神殿の典籍は、二百年の写しを重ねるうちに、煎じ時間に誤記が生じた。

> 王都薬師組合の写しと、神殿地下書庫の原典とを照合されたい。

> 私はこれ以上、王都に何かを求めるものではない。

> ただ、患者が死ぬ前に、薬の煎じ時間が正されることを願う。

> 辺境にて、アイリス


 封をして、エルダースを通る隊商に託した。商隊長は、私の名を見て、一度だけ眉を上げた。それ以外、何も言わなかった。


 文が出た日の夕方、マリアが薬草の選別をしながら言った。


「先生」


「マリア」


「もし、王都から人が来たら、どうしますか」


「来ますか」


「来ます」


 マリアは私を見ずに、薬草を選り続けた。


「あの文は、来させる文です」


 私は彼女の手元を見た。乾いた黄連の根を、太さで三つに分けていた。指先に迷いがなかった。


「分かりました」


「先生、もう決めたのですか」


「ええ」


「教えてくれないのですか」


「マリア、これは私が決めることだから、私の口から先に答えを出すと、あなたの観察を邪魔します。来た人が誰で、何を持ってきて、私が何と答えるか。それを見て、あなたが自分で考えてください」


 マリアはうなずいた。それ以上は聞かなかった。


 彼女が私の弟子になって、初めて、私は彼女を「先生」と呼びたくなった。





 風が変わったのは、その三日後だった。


 エルダースの北の街道に、馬車の音が聞こえた。一台ではなかった。二台、もしくは三台。


 マリアが診療所の窓から、街道を見下ろした。


「先生」


「来ましたね」


「紋章が見えます」


 私は窓に立たなかった。卓の前に座ったまま、薬研を回し続けていた。


「何の紋章ですか」


「王家です」


 私はうなずいた。


 薬研の音だけが、しばらく診療所の中に響いていた。

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