第7話「王都の失敗」
夜明け前に診療所を出た。
月はまだ西の山に残っていた。マリアが籠を背負い、ブレナーが先に立って山道の入り口を案内した。ベルナー集落まで、徒歩で二刻半。馬は持っていないので、歩くしかなかった。
「先生」
ブレナーが歩きながら、振り返らずに言った。
「昨夜、私は寝なかった」
「眠れなかったのですか」
「眠らなかった。先生が話した二百年前の病気を、自分の書物で全部探した」
ブレナーが懐から、小さく綴じた手書きの帳面を取り出した。歩きながらも、それを傷めないように両手で持ち直した。
「祖父の代の記録だ。祖父は若い頃、王都の薬師組合の見習いだった。組合の地下に、各地の流行病の記録があったらしい。祖父は写しを残していた」
「拝見してもいいですか」
「歩きながらでは難しい。集落についたら見せます。ただ、一つだけ」
ブレナーが声を低めた。
「祖父の記録に、『黒沈熱』の項があった。先生が昨夜言った病名と一致した」
私はうなずいた。
「処方も、書かれていましたか」
「黄連、大黄、山栗の樹皮。三つの組み合わせ。配合比は——」
ブレナーが立ち止まり、空に向かって少し考えた。
「黄連二、大黄一、山栗三。煎じる時間は四半刻」
私の知っている処方と、ほぼ同じだった。違いは煎じる時間が、私の記憶では二半刻だったことだ。
「ブレナーさん」
「はい」
「あなたの記録の方が、おそらく正確です。煎じる時間は、神殿の書物では二半刻と書かれていましたが、それでは山栗の苦味成分が抽出されすぎる。四半刻が正解です」
ブレナーが、初めて私の顔を見た。
「先生は、なぜ煎じすぎが分かるのですか」
「学院時代に、別の処方で同じ失敗をしました。苦味成分は、適切な量を超えると逆に毒になる」
「……なるほど」
ブレナーが帳面をしまった。
「私は二十五年、薬師をやってきた。しかしこの帳面の処方を、実際に使う日が来るとは思っていなかった」
「来ない方が良かったのですが」
「全くです」
二人は歩き続けた。マリアが少し後ろから、籠の中身を時々確認していた。
ベルナー集落に着いたのは、日が中天に達する少し前だった。
集落の入り口で、二十代後半の女性が私たちを待っていた。子供の母親だった。顔が青ざめていて、目が落ち窪んでいた。
「ブレナー様、先生」
「奥さん、状態は」
「夜中に、紫の斑が出始めました。胸と、両腕の内側に」
私の手の中で、何かが沈んだ。
紫斑。発症後四〜七日。
今が、最後の境界線だった。
「お子さんのところへ案内してください」
母親の家は、集落の奥にあった。粗末だが清潔に保たれた小屋で、寝床に八歳の男の子が横たわっていた。額に汗をかいて、浅い呼吸をしていた。私は枕元に膝をつき、まず首の後ろに手を当てた。固い。次に目を開けさせて、瞳孔の対光反射を確かめた。やや遅い。最後に、胸元の布を少しめくった。
紫の斑が、肋骨に沿って三つ、淡く広がっていた。
まだ、初期段階の紫斑だった。
「ブレナーさん、火を起こせる場所はありますか」
「外の竈で」
「マリア、煎じる道具を出して。湯はすぐに用意する」
マリアが籠から土鍋と布を取り出した。ブレナーは外の竈で薪を組み始めた。母親は私の傍らで、何をしていいか分からずに立っていた。
「お母さん」
「はい」
「お子さんに、温めた水を少しずつ含ませてください。一度に飲ませないで、唇を湿らす程度から」
「はい」
「それから、私が今から煎じる薬を、決まった時間ごとに飲ませることになります。途中で意識が戻っても、必ず時間通りに。途中で止めると、最後まで効きません」
「分かりました」
母親の手が震えていた。私は短く付け加えた。
「間に合います」
それだけ言って、外の竈に向かった。
ブレナーが薪に火を入れていた。私は籠から黄連、大黄、山栗の樹皮の内側を出した。配合は、ブレナーの帳面の通り——二、一、三。私は計りで量を測って、土鍋に入れた。水を入れて、火にかける。
四半刻。砂時計を持っていなかった。
「マリア。あなたの脈を測って、心の中で四半刻を数えて」
「はい」
マリアが目を閉じて、自分の手首に指を当てた。
火がぱちぱちと薪を鳴らした。鍋から、苦い薬草の匂いが立ち上った。
私は土鍋を見ながら、王都のことを考えていた。
もしこの処方が正解だとしたら——王都では今、誰もこれを試していないということだった。新聖女エリーゼも、神殿の薬師たちも。彼らは光治癒魔法に頼って、古い書物を読まなかった。
二十一人が死んだのは、知識の不足ではなく、知識を探さなかったことの結果だった。
「先生」
マリアが目を開けた。
「四半刻、過ぎました」
私は土鍋を火から下ろし、布で濾した。煎じた液は、黒に近い濃い茶色だった。湯気が苦い。
子供のところへ戻った。母親が温めた水を、少しずつ口に含ませていた。子供の唇が、わずかに湿っていた。
「お母さん。この薬を、ひと匙ずつ。間隔は二刻ごと。最初の一杯はいま」
母親が匙を受け取った。手は震えていたが、動きは正確だった。子供の唇に匙を当て、少しずつ流し込んだ。子供がわずかに咳き込んだが、飲み込んだ。
私はそれを見ながら、自分の呼吸が浅くなっていたことに気づいた。深く一度、息を吸って、吐いた。
最初の一杯は、入った。
あとは、薬が体に届くかどうかだった。
次の煎じ薬の用意をしながら、ブレナーが私の隣に来た。
「先生」
「はい」
「先生は、王都に文を返すのですか」
私は手を止めずに、薪を継ぎ足した。
「分かりません」
「分からない」
「この子の容体が落ち着くまでは、何も決めません。決める材料が足りない」
ブレナーが小さくうなずいた。
「それで良いと思います」
彼が、自分の帳面をもう一度懐から出した。
「先生。この帳面は、先生の方が必要でしょう。お預けします」
「いいのですか」
「私は処方を記憶しています。先生が王都に文を出すと決めた時に、これがあった方が説得力が出る」
私は帳面を受け取って、両手で持った。色の褪せた表紙に、「薬草記録 シ集」と、薄い字で書かれていた。
「お預かりします」
「あと、もう一つ」
ブレナーが、少し躊躇してから言った。
「先週、王都から商隊が一つ来ました。雑貨の交易で、エルダースを通って来た者たちです。彼らから聞いた話があります」
「聞かせてください」
「神殿で、新聖女様の評判が落ちているそうです。光治癒魔法を熱病患者に施しても、半日で熱が戻る。三度目の施術で、患者本人から『もう来ないでくれ』と言われたとか」
私は手を止めた。
エリーゼ・フォン・ハーゼンブルク。半年前に私から「聖女」の称号を引き継いだ若い女。光魔法の輝かしい新世代と謳われ、宮廷から賞賛されていた。
彼女は——患者から「来ないでくれ」と言われていた。
私がいた頃には、なかったことだった。
「商隊の話によると」
ブレナーが続けた。
「神殿の薬師たちも、今は王都を離れ始めているそうです。失敗の責任を取らされる前に、地方に異動願いを出していると」
「神殿が、機能していないのですね」
「そう聞きました」
私は薪に視線を戻した。火が、また弱くなっていた。新しい薪を加えて、息で火を起こした。
神殿が機能していない、ということは、王都で死んでいく人が、これからも増えるということだった。
二十一人は、まだ序章だった。
「ブレナーさん」
「はい」
「私が王都に文を出すかどうかは、まだ決めていません。ただ、一つだけ確かなことがあります」
「何でしょう」
「この処方は、王都に届けば多くの人が助かります。ただし届ける方法と、誰が届けるかで、結果は変わります」
「と、いうと」
「私の名前で届けると、神殿は受け取らない可能性が高い。私を追い出した彼らの面目が立たないので」
「……あり得ますね」
「あなたの名前で届ければ、神殿は受け取るかもしれない。辺境の薬師からの善意の提供として」
ブレナーが、少し驚いた顔をした。
「私の名前で、ですか」
「処方の発見者は、あなたです。あなたの祖父の記録から復元したのですから」
「しかし、煎じる時間を訂正したのは先生です」
「四半刻が正解だと知っているのは、いま辺境にいる三人だけです。私とあなたとマリア。文に書く時に、それを明示する必要はない」
ブレナーがしばらく黙った。
「先生は、自分の功績を譲ろうとしているのですか」
「譲るのではありません。最も患者が助かる経路を選んでいるだけです」
「そうですか」
ブレナーが、低い声で短く笑った。
「先生は、私が見てきた治癒師の中で、一番、感情を持たない」
「持たないのではなく、優先順位が固定されているだけです」
「同じ意味かもしれません」
彼は土鍋の様子を見て、また計時を始めた。
夕方、子供の熱が、わずかに下がった。
三十九度四分から、三十八度九分へ。
大きな変化ではなかった。しかし、紫斑が拡大しなかった。胸の三つの斑は、淡いままで止まっていた。
母親が、その変化に気づいて、口を手で覆った。
「先生」
「まだ、安心はできません。明日の朝までに、熱が三十八度を切れば、峠を越えたと判断できます」
「はい」
「夜の間、二刻ごとの服薬を続けてください。私とマリアは、ここに泊まります。何かあったらすぐ呼んでください」
「ありがとうございます」
母親が、初めて泣いた。声を立てずに、ただ涙を流した。私はそれを見て、何も言わなかった。
言うべきことはなかった。
夜、私は小屋の外で薪に火を絶やさないようにしていた。マリアは子供の傍らで仮眠を取っていた。ブレナーは集落の家に一晩泊めてもらい、明日朝戻ると言って帰った。
私は懐から、ブレナーから預かった帳面を取り出した。月明かりで、薄い字を一頁ずつ読んだ。
「黒沈熱」の項の最後に、祖父の手書きの追記があった。
> 此ノ病、王都ニテハ忘レラレ易シ。神殿ノ光術ノ威光ニ依リ、古キ知見ヲ軽ンズル風潮アリ。地方ノ薬師ハ忘ルベカラズ。
二十五年前の警告だった。
その通りになっていた。
私は帳面を閉じて、火を見つめた。
王都の方角の空は、昨夜よりも暗く見えた。月が雲に隠れていた。
その雲の向こうで、二十一人の死者が、これから増えていく。
私はまだ、文を書くかどうかを決めていなかった。
ただ、決めるべき時が近いことは、感じていた。




