第10話「辺境の聖女」
それから、二十日が過ぎた。
エルダースに、春の終わりが来た。山の雪が消えて、麓の小道に草が出た。診療所には、季節の変わり目が来ると必ず増える患者が来た。春の乾燥で喉を傷めた老人、雪解け水で腹を壊した子供、農作業を再開して手首を捻挫した若い男。生死に関わらない患者だった。
マリアは毎朝、私より早く診療所に来た。薬草を量り、煎じ薬を準備し、帳面に前日の患者の経過を書いた。字は丁寧ではなかったが、観察の記録は正確だった。
クラウス様の使いが来たのは、二十日目の昼だった。
「辺境伯から伝言です。王都の疫病の死者が、三十二日ぶりに増えなかったと」
私はうなずいた。
「三十二日前、というのは」
「リュッカー卿が戻られた日の翌日からです」
マリアが私を見た。私は使いに茶を出した。
「辺境伯は、他には何もおっしゃいませんでしたか」
「はい。ただ、先生に伝えるよう、と」
「ありがとうございます」
使いが帰った後、マリアは何も聞かなかった。薬草の仕分けを続けながら、窓の外を見ていた。
五日後、王都の薬師会から、ブレナーの家に書状が届いた。
ブレナーが私に持ってきた。封は彼が切っていた。私に渡す前に、自分で読んでいた。
「先生」
「はい」
「名前が、入っています」
私は書状を受け取った。王都薬師会の公式書簡で、黒沈熱の処方について、以下のことが記されていた。
配合と煎じ時間の正式な改訂。エルダース薬師オットー・ブレナーの家伝記録を根拠として承認。薬師会の典籍への追記が来月中に完了する見込み。
「ブレナーさん」
「ええ」
「祖父代からの記録が、残ります」
ブレナーは何も言わなかった。しばらく、窓の外を見ていた。窓の向こうに、山の稜線があった。
「先生」
「はい」
「感謝は、どこに届ければいいですか」
私は少し考えた。
「祖父の帳面に、でしょうか」
ブレナーが、短く笑った。私は彼が笑うのを、初めて見た。
さらに七日が過ぎた頃、正式な書状が来た。
王家の紋章が押された封書で、エルダースの診療所に届いた。差出人の欄には、宮廷の官房名が書かれていた。エドワード殿下の直筆ではなかった。
内容は短かった。
アイリス・フォン・ヴァルテリアの王国神殿聖女の地位を、当人の申請があれば復帰を認める。また、王都での治癒師としての活動を希望する場合、適切な待遇を用意する用意がある。
「申請があれば」という一文が、私には丁寧な書き方だと思った。来いとは言っていなかった。
私は卓に座って、一通の返書を書いた。
官房に宛てた、短い文だった。
> 謹んで拝受いたしました。
> 私は現在、辺境エルダースにて治癒師として働いております。
> 地位の復帰は不要です。
> 患者が必要とする限り、ここに留まります。
> 辺境エルダース、治癒師アイリス
翌日、エルダースを通る隊商に託した。
商隊長は、今回は私の名を見て何も言わなかった。
返書を出した日の夕方、クラウス様が直接診療所に来た。
いつもは使いを通す人だった。私は少し驚いた。
「急患でしょうか」
「違います」
クラウス様は入り口のところで立っていた。診療所の中を見回した。薬棚、土鍋、帳面が積まれた卓、薬研。
「狭いですね」
「十分です」
「手が足りていますか」
「マリアがいます」
クラウス様はマリアを見た。マリアは薬草の束を手に持ったまま、辺境伯と視線を合わせた。怯えなかった。
「先生の弟子です」
「はい」
「いくつですか」
「十四です」
「賢そうだ」
「賢いです」
私が言うと、マリアが少し顔を逸らした。照れているのか、迷惑に思っているのか、私には分からなかった。
「先生」
クラウス様が、また私を見た。
「王都からの書状は、受け取りましたか」
「はい」
「返書は」
「出しました」
「何と書きましたか」
「断りました」
クラウス様は少し間を置いてから言った。
「断るとは思っていました」
「そうですか」
「そう思っていましたが、念のため聞きたかった」
彼は部屋の中に一歩入って、入り口の柱に手をついた。視線が私の高さまで下がった。
「先生」
「はい」
「エルダースに、永く居てくれますか」
私は彼を見た。
彼は続けた。
「今の診療所より広い建物を用意します。住まいも。材料費も出す。エルダースの町費から出せる範囲で、正式な手当も出します」
「クラウス様」
「先生が来てから、半年で三人の重篤患者が回復しました。先週、ベルナー集落の親が、子供の名前に『アイリス』と付けました。そういう場所に、先生はいる。聖女の称号がなくても」
私はしばらく、彼の言葉を受け取っていた。
王都で働いていた十年間、私は役に立つことをずっと考えていた。神殿で、宮廷で、「聖女」として、必要とされることを考えていた。それが、ある日不要になった。
エルダースに来て気づいたのは、必要とされることと、理解されることは、別のものだということだった。
「クラウス様」
「はい」
「ここに居ます」
クラウス様が、わずかに表情を変えた。口元だけで笑ったような、笑っていないような顔だった。
「よかった」
彼はそれだけ言って、診療所を出た。
翌朝、マリアが一人で患者を診た。
私はわざと遅く診療所に来た。戸口から中を見ると、マリアが老人の腕を取って脈を測っていた。老人は、先月から通っている関節炎の患者だった。
マリアが老人に何かを言った。老人が帳面を開いた。マリアが、帳面に数字を書いた。
私は入らなかった。
少しの間、外から見ていた。
マリアの指の動きは、まだ私より遅かった。計測に時間がかかった。でも、途中で迷わなかった。分からない時に、分からないと言える子だった。それは、教えて身に付くものではなかった。
私が中に入ると、マリアが顔を上げた。
「先生、関節炎の経過で確認したいことがあります。前回より可動域が広がっているのですが、気候の影響と考えていいですか。それとも薬の効果ですか」
「どちらだと思いますか」
マリアは少し考えた。
「先週から乾燥が続いているので、気候が主で、薬が補助だと思います。ただ、薬を止めた場合に戻るかどうか、まだ観察期間が足りません」
「正しい判断です」
老人が私を見た。
「先生、この子は本物の弟子ですね」
「ええ」
「私の孫に、勉強を教えてくれと言えますか」
「それは、マリアに直接お願いしてください」
老人がマリアを見た。マリアは少し考えてから言った。
「算術と字の読み書きなら、教えます。薬の勉強は、もう少し先にしてください」
夜、一人になった。
マリアは家に帰っていた。戸締まりをして、卓の前に座った。
帳面を開いた。今日の患者の記録を書いた。関節炎一件、喉の炎症二件、軽い熱傷一件。どれも、危険な状態ではなかった。
書き終えて、ペンを置いた。
窓を開けた。夜の空気が入ってきた。遠くの山に、まだ雪が残っていた。
王都のことを、少し考えた。
エドワード様の謝罪の手紙を思い出した。几帳面な字で、几帳面に書かれた後悔。あの手紙を読んだ時、私の中に何かが落ち着いた。落ち着いたというのが、一番近い言葉だった。
彼は間違いを認めた。私は今ここにいる。それだけのことだった。
怒りはなかった。
悲しみも、もうなかった。
ただ、今日の患者の顔があった。老人の手首の角度があった。マリアの迷わない声があった。
窓を閉めた。
引き出しから、別の帳面を出した。
表紙に、私は何も書いていなかった。中身だけがある帳面だった。
一ページ目に、こう書いた。
> 辺境エルダース、治癒師アイリスの記録
> 第二部 始まり
ペンを置いた。
薬研がまだ、卓の上にあった。明日の分の黄連が、まだ残っていた。
明日、患者が来る前に、摺り終えなければならなかった。




