第六章 意志(6)
戦闘が始まって半刻ほどたったころ、帝国軍の激しい攻撃の前に、ついに防塁は破られた。
「もういい!退け!」
前線が突破されたことを見てとると、入口を守っていた天の民の兵士たちは守備陣を放棄し、一斉に洞窟の奥へと退却を開始した。
帝国軍は、勢い神殿の内部へと殺到する。
だがそこに待ち受けていたのは、闇の迷宮に潜む罠の数々であった。
視界の利かぬ洞窟の中で、帝国軍の兵たちは仕掛けられた窪地や石に足をとられ、あるいは柱や壁に遮られ、思うように進軍できずに混乱した。さらに暗闇の中から襲い掛かる敵の影に怯え、前線は一種の狂乱状態に陥った。
ネロたちは巧みに動いて敵兵を翻弄した。決戦を選んだ戦士たちはこの上なく勇敢に戦った。敵の眼を欺いて攻撃を仕掛け、即座に退き、別のところで再び斬りかかってゆく。敵陣をかき乱し、幾人もの敵兵を屠り、自身が斃れるまで戦い続けた。
そして、一人、また一人と討ち取られていった。
ネロも剣を手に仲間とともに退きながら戦った。やがてわずかな味方とも離れ離れになったことを知ると、暗い洞窟の岩場を走り、マラーヤータの元へ急いだ。
戦の趨勢は見えた。もう間もなく、この遺跡も敵の手に落ちる。
自分たちの命運も決したようだ。
だが、マラーヤータだけは、何としても生き延びてもらいたかった。
彼こそは、自分たち「天の意思」を信じる者すべての希望なのだ。
ネロは、神殿の最奥部の開けた空間へ走った。マラーヤータはそこにいた。
不思議な場所であった。何百年も昔に描かれたであろう壁画が、今なお色鮮やかに壁面全体に残されている。黒と、茶と、紫の顔料を用いて大きく描かれた異形の巨人と、大小様々な人の姿が描かれている。過去の出来事、あるいは伝承を描いたものなのだろうか。巨大な異形の神が人々を従えているようにも、互いに争っているようにも見えた。洞窟の高い天井からは、巨大な鍾乳石が幾つも垂れ下がっている。
おそらくはこの古代神殿を築いた古の民たちの、何か重要な秘密を描き残したものだと思われた。もしここを発見したのが考古学者の類であったなら、彼はきっと、人類の貴重な遺産を前にして、知的好奇心からくる興奮を禁じ得なかったことであろう。
マラーヤータは岩の上に腰を下ろし、松明を一つだけ灯して、目をつむったまま頭上を仰ぐように見上げて祈り続けていた。
「マラーヤータ!」
駆け付けたネロが、息を切らせながら自身を呼ぶ声を聞き、預言者は閉じていた眼を開いた。
「敵が迫ってまいりました。急ぎお逃げ下さい!今なら、味方が攪乱しているため、脱出する隙があります!私が必ずやお守り致します。どうか、お逃げ下さい!」
マラーヤータは、一つため息をつき、落ち着いた声で言った。
「・・・皆を犠牲にして、どうして私だけが助かることができようか。皆を導いてきた責任は、すべて私にある。私はこの身をもって、これまでの罪を贖わなければならない」
彼はそこまで言って、両目を伏せた。続く言葉は、声が震えていた。
「私は、天の声を聞き違えたのだろうか?あるいは、『天の意思』とは、あの日の出来事は、すべてが幻だったのだろうか?」
「違う!」
ネロは思わず声を荒らげた。
「マラーヤータ、あなたが私たちに示して下さった道は、希望に満ちていた。あなたが語る言葉は、私たちに生きる意味を与えて下さった。皆があなたの言葉を信じた。いや、あなたの言葉を真実にしようとした。あなたから教えられた『天の意思』は、今や私たち自身の意思なのです。あなたが負うべき責任があるとすれば、それは信じる者たちの希望を絶やさぬことです。ですから、何としても生き延びてください。『天の意思』の教義を、決して絶やさないでください!」
この、ネロの言葉に、マラーヤータも何か感じるところがあったようであった。彼は腰かけていた石から、ネロに肩を借りてよろよろと立ち上がった。
しかし、ついにこの場所にも、帝国軍の追手が現れた。
松明を持った兵たちが、次々になだれ込んでくるのが見えた。
ネロは、敵の先頭にいる将兵の姿を見て、驚いた。現れたのは、彼が仕留め損なった総指揮官と思しき女将校だったからだ。
「貴様がマラーヤータとやらか」
ハルディアは、冷淡な声でそう問い質してきた。ネロは答えず、手にした剣で彼女へ向かって斬りかかっていった。
鋭い斬撃は、しかし相手の剣に易々と受け止められた。
洞窟内に、甲高い金属音がこだまする。
そのまま流れるような剣捌きによって、ネロは剣身から巻き取られるように引き込まれ、強い力で岩の大地へ叩きつけられた。
ネロは背中を強打し、痛みに思わず呻いた。
冷酷な女将軍は動きに淀みがない。また敵の命を奪うことに、些かの躊躇も持ちえない。彼女はそのまま、剣の切っ先でネロの喉を刺し貫こうとした。
だが突然頭上で轟音が響いたことで、その動きは中断させられた。
ハルディアが頭上に目を向けると、異形の巨人が描かれている辺りの壁面に大きく亀裂が走り、そこから勢いよく水が噴き出してきているのが見えた。
さらに大きな揺れが、洞窟内全体を震わせた。悲鳴のような破裂音が響き渡り、天井の石柱が崩れ始めた。
洞窟全体の崩落が始まったようであった。
「ハルディア様!」
メティウスが叫ぶ声を聞き、ハルディアは咄嗟に後ろへ飛びのいた。と同時に、ネロも素早く後じさる。直後、巨大な石柱が地面に激突し、凄まじい轟音を立てた。
「崩れます!直ちに洞窟の外へ!急いでください!」
メティウスが血相を変えてハルディアへ進言した。ハルディアはマラーヤータの方向を一瞬だけ見たが、崩れ落ちる土砂に遮られてもうほとんどその姿は見えなかった。
「撤退だ!急げ!」
ハルディアは大きく叫び、急いで洞窟を引き返したのだった。




