第六章 意志(1)
ウラヴァスは、切り立った岩山が立ち並ぶ険しい山岳地帯である。
歪な山肌を空へ向かってさらけ出し、山間には一日中日の光が届かない深い渓谷が口を開いていた。
その様態はさながら、険しく、鋭く、人の訪れを拒むかのように立ちはだかる、岩の巨人の群れだった。その岩肌には所々、永い年月のうちに風雨が削り取った鍾乳洞が開いていた。
かつて、この地を神聖な場所とあがめた古代の民がいた。今はどこにもその姿を見ることはできないが、彼らがまた長い年月をかけてこれら鍾乳洞の中を削り、神殿を築いた跡が残されていた。
天然の洞窟を利用した山腹の神殿は、回廊がいくつも迷路のように入り組み、闇の奥深くどこまでも広がっているようだった。
この地に逃れてきた天の民たちは、その古代の遺跡の中へと身を潜めていた。
彼らは皆怯えていた。異教の神々の像が横たわる地下神殿の奥で、一条の希望に縋るように、マラーヤータの傍へ集まっていた。ネロも、その集団の中にいた。
彼は、ウラヴァスへ逃げてきた人々の中に、ルルムの姿を探していた。だが、ここにいる者の中から彼女を見つけ出すことはできなかった。
「マラーヤータ」
彼は、預言者へ尋ねた。ルルムがいつも行動を共にしていた彼になら、行き先が分かるかもしれないと思ったのである。
「教えて下さい。ルルムは、ここへ逃れてきているのでしょうか?」
ネロの問いに、マラーヤータはゆっくりと首を横に振って答えた。
「わからない。ここへ逃げてくるとき、あの子は一人で街の入り口へ飛び出していった。それきり、会ってはいない」
「そうでしたか・・・」
ネロは落胆した。どうやら、自分が街の入り口で会ったのが最後だったようだ。あの後、気がついたら彼女はどこにもいなかった。跡形もなく、どこへとも知れず消え去ってしまったのだ。
ルルムは何処へ行ってしまったのだろうか。
ここではない、どこか別の場所へ逃げていったのだろうか。そうであってくれれば良いと、ネロは願わずにはいられなかった。
ネロは、自分の懐から一冊の紙の束を取り出しマラヤータヘ見せた。
「私が目を覚ましたとき、傍にこれが落ちていたのです」
マラーヤータはネロが差し出した紙の束を受けとると、驚いた表情をした。
それは、ルルムがずっと書き留めていた預言者の言行録だったのである。チュニスから逃げ出すときに、彼女が大事に持っていた筈のものだった。
「君は、これを読んでみたかね?」
マラーヤータの問いに、今度はネロが首を振った。
「いいえ。私は字が読めませんので」
マラーヤータはその書物にそっと手を添え、ゆっくりと、はっきりとした声で、ネロとそこにいる民たち全てに語った。
「あの子はずっと私の傍にいて、この書を書き続けていた。これは、私たち『天の意思に従う民』の、長い長い旅の記録だ。私たちがいかにして天の意思を知り、さ迷い、出会い、あるいは別れ、苦難の道を歩んだか」
マラーヤータは手元の書を開いて、そこに書いてある一節を読み上げていった。
その一節は、いつか祈りの丘の上であった、気の毒な親子の救いの場面だった。
罪とは何か、いかにして人は救われるのか。
あの出来事を通して問われた真理が、ルルムの瑞々しい感性でそこに書き記されていた。
まるで物語のようだと、ネロは思った。ルルムの目を通して見た、自分たちの物語。彼女は、自身が生きる物語を、そのすべてをかけて記していたのだ。
ネロは、初めて彼女の心の内に触れたような気がした。自然と胸が熱くなった。
その時、民の中から、怯えた声で問う者がいた。
「マラーヤータ、『天』は、果たして我らをお守り下さるのでしょうか?私は、キフカスの部隊にいて、あの戦いに加わっていました。私は勝利を信じていました。私だけでなく戦士たちの誰もが、気力に満ちておりました。『天の意思』を固く信じ、過去のどの時よりも勇敢だったのです。しかし敵は、恐ろしい魔術によって、私たちのただ中に巨大な炎の柱を呼び起こし、その炎で勇敢な戦士たちを無慈悲に焼き殺していきました。私たちは、何故敗れたのでしょうか?私たちは、滅びゆく運命なのでしょうか?」
マラーヤータは、その言葉を聞き終わると、その場にすっと立ち上がった。
薄暗い洞窟の中で、そこにいるすべての者の視線が集まる。
「天は我らと共にある。天の意思は間違いなく、私たちに自由の道をさし示している。そしてそこには、試練もある。私たちは、自由の光の中を生きることは、恐るべき苦難を伴うということも知った。これまで多くの血が流れた。私たちがこの道を進む限り、さらに多くの血が流れるだろう、それは避けられないのだと思う。私は確かに天の意思を聞いた。天を信じる。だから、この道を進み続ける。しかしもし君たちの中に、その苦難に耐えられぬ者があれば、私から去るが良い」
皆黙って、預言者の言葉を聞いていた。その場で泣き出す者もいた。
ネロは、強い決意を秘めた眼で、じっとマラーヤータを見つめていた。




