第五章 キフカスの悲劇(5)
突如強烈な熱風が右側から吹き付け、ネロは馬ごとよろめいた。彼は一瞬熱さのために顔を伏せたが、すぐに何事が起こったかを確かめるため、熱の方向へ顔を向けた。
そこで目に入った光景は、およそ現実離れしたものだった。
彼のすぐ目の前に、巨大な炎の柱が燃え盛っていたのである。彼の視界からでは、ほとんど炎の壁のようになって、目の前を覆っていた。
衝撃的であった。ネロには一体何が起こったのか理解ができなかった。
炎の中から、火だるまになった男たちが飛び出し、地面を転げまわっている。何かが焦げるような嫌なにおいが、鼻孔を刺激した。
天の民の軍は、あっという間に半狂乱となり、崩壊を始めていた。
ネロは怯えて暴れる馬を必死になだめながら、狂乱する部隊へ向かって叫んだ。
「退け!急いでここを離れるんだ!」
ネロの声が届いたかは分からない。自軍は完全に混乱に陥り、壊走を始めていた。
まさに悪夢であった。
何が起こっているのか?
敵が、何か恐ろしい力を使ったとでもいうのだろうか。
天は、我らの味方ではなかったのか?これが、天が示す運命だとでもいうのか?
頭の中に、いくつもの疑問が沸き起こる。しかしそれを考える暇もなく、ネロは防戦に追われることとなった。
帝国軍の容赦のない追撃がはじまった。
統率を失った天の民たちは、なすすべもなく討たれてゆく。
それはもはや戦闘ではなく、非道な殺戮と化していた。
襲い来る殺戮者を潜り抜けながら、ネロたちは必死に逃げるしかなかった。
キフカスでの敗北が伝わると、チュニスは騒然となった。
すぐにでも帝国軍が攻めてくるのではという恐怖に、すべての住民はおののいた。
マラーヤータは、町を出て北方のウラヴァス山地へと逃げることを決め、皆それに従うこととなった。
人々が慌ただしく逃げ出してゆく中、ルルムは悲壮な顔をして町の入り口に立っていた。
キフカスの方角から、傷ついた兵士たちが逃げてくる。皆、青ざめた表情をして、ウラヴァスへと逃げる集団に加わった。
中には町へ辿り着いたはよいもののそこで力尽き、倒れたまま動かなくなってしまう者もいた。
誰かを待つように、ルルムはキフカスの方角を見つめ続けていた。
空は、砂埃で霞んでいる。
逃げてくる兵士たちの姿も徐々に少なくなり、やがて見かけなくなった。
それでも彼女は、そこに立ち続けた。
しばらくそうしていると、砂埃の中に一つの小さな影が現れた。
影は、だんだんこちらへ近づいてくるにつれ、徐々に大きく、はっきりと見えるようになった。
やがてそれは、一頭の馬であること、その背中に人が一人覆いかぶさるように乗っていることが見て取れるようになった。
ルルムは思わず目を見開いた。
馬の背に乗っていたのは、ネロだった。
ルルムが駆け寄ると、馬は足を止めた。そしてネロはずり落ちるように馬の背から地面へ降り立つと、崩れるように仰向けに横たわった。
彼の衣服には、どす黒い染みが広がっていた。顔は、苦悶に歪んでいた。
ネロはうっすらと眼を開けて、悲しそうなルルムの顔を見つけた。
彼はその顔に、僅かに安堵の表情を浮かべ、息も絶え絶えに彼女に言った。
「・・・君も、逃げろ・・・」
伝えたいことは沢山あった。しかし、今はそれを伝えるだけで精一杯だった。
最期にまた彼女に会うことができて満足したのか、ネロは穏やかな表情で、そのまま息を引き取った。
ルルムの眼に、大粒の涙が溢れた。零れた涙は、ネロの頬へと落ちていった。
彼女の記憶に、かつてネロと話したときのことが蘇る。春の訪れを感じられる、穏やかな日。彼はマラーヤータの言葉を噛みしめるように語っていた。
今もはっきりと覚えている。生きる意味を見つけた、優しく晴れやかな顔。
いくつもの苦しみがあった。それらを乗り越え、やっと見つけたと思った。
それが今、すべてが壊れ、消えようとしている。大切な人も、自分の居場所も。
深い悲しみは、暗い幕のように彼女の心を覆っていった。と同時に、やるせない、途方もない虚無感に飲み込まれそうになる。
『この命は、皆のために使いたい。もちろん、私自身の望みで』
ネロはそう言っていた。
父や、ネロや、マラーヤータや、天の民の人たち。自分を優しく迎え、守ろうとしてくれた、かけがえのない人たちの顔が浮かんだ。
感情が溢れ、喉にこみあげる。
その時、ルルムの脳裏に、マラーヤータの声が鮮明に蘇ってきた。
『あなたの命は、あなた自身のために使いなさい』
自分は、この命をどう使いたいのだろうか。
父が繋いでくれた命を。
ルルムは自然と、右手をネロの胸元へ当てていた。
彼女が目を閉じると、まばゆい輝きが彼女の体を纏いはじめた。
光は段々強くなり、ネロの体をも優しく包み込んでゆく。
光の中、ルルムの姿は淡く透き通るように変化し、ゆっくりと消えていった。
頬に風の当たる感触を感じ、ネロは眼を開いた。
その場に起き上がり、あたりを見渡す。周囲は静まり返り、彼の他は誰の姿も見当たらなかった。
不思議なことに、体中の痛みは嘘のように消え去っていた。自分の腹に手を当ててみると、そこにあった筈の傷は、跡形もなく消えていた。
一体何が起こったのだろうか?
ネロには、自分の置かれた状況が理解できなかった。
困惑しながら立ち上がろうとしたとき、右手に何かが触れた。
一冊の紙の束が、地面に砂をかぶって落ちている。
彼はそれを拾い上げ、その場を立ち去った。




