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ノアの終焉  作者: 齋藤昴
第2部
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第五章 キフカスの悲劇(4)

 敵の予想外の抵抗は、メティウスを青ざめさした。

 騎兵部隊を押し返した敵軍は勢いに乗り、逆にこちら側へと攻め寄せようとしていた。

(厄介なことになった)

 メティウスは、思わず心中でそう呟いた。

 戦場で、「勢い」に乗った敵を相手にするのは、誠に厄介なことであった。

 戦には流れというものがある。どれだけ緻密な策を練って望んでも、流れは水物である。序盤の折衝で優勢を築くことができれば、有利な側は「勝利」を意識するようになる。その瞬間、死の恐怖は遠のき、代わって高揚が精神を支配する。精神の高揚は一種の麻薬に近い働きをする。恐怖を忘れ、痛みを鈍らす。そうなれば、身体のどこに傷を受けようと、味方の兵が何人倒れようとも、怯むことなく攻め続けることができる。軍は燃え広がる炎のように、止まることなく進み続ける。反対に、不利な側は怯み、恐れ、崩壊が始まる。そこまで行くと、もう手がつけられなくなってしまうのだ。

 さらに、背後の総司令官の存在が、より彼らを青ざめさしているのだった。

 冷徹な指揮官は、無能な者を許さない。戦に勝利することは当然として、その過程に於いても、帝国の軍に相応しくない失態を演じれば、たちどころに厳しい処罰が下されるのであった。

 だからこそ、今の流れは非常にまずいのであった。

 しかしここで、先ほどナブロと名乗った男が、助け船とばかりに進み出て、ハルディアに進言をした。

「いかがかな。ここは、我らが力がお役に立てるかと」

 ナブロと名乗った男は、胸元から首飾りを出してハルディアへ見せつけた。禍々しい紋様が刻まれた宝石のような石は、琥珀色の光を放って輝いていた。

「お望みであれば、今ここで、我らの力をもって帝国の勝利に貢献いたしましょう」

「・・・ロキのような死神を、新たに生み出そうというのか?」

 ハルディアの眼が一段と厳しさを増す。ナブロは軽く笑って答えた。

「そうできれば、『力』の回収もしやすくはなります。が、今は帝国への忠誠を示すことを優先いたしましょう」

 ナブロは右の指先で、真っ直ぐ前を指し示した。指の先は、勢いに乗る敵陣をさしている。

 ハルディアはしばらく無言でナブロの方を見ていたが、やがて口を開いた。

「・・・では、お前たちの言う『忠誠』とやらを見せてみよ」

「御意」

 ハルディアの言葉を聞き、ナブロは数歩前へ出て、敵陣を向いて立った。そのまま両腕を前に差し出し、掌を空へ向け、何か呪文のようなものを唱え始めた。すると首飾りが強く輝き始め、ナブロの全身から禍々しい瘴気のようなものが立ち上ぼり、空へ上っていった。

 空が、ゆっくりと黒い雲に覆われていく。湧き出した雲によって日の光が遮られ、見る間に辺りが暗くなっていった。

 そのうちに強い風が吹き始め、大気が冷えてゆく。やがて雨が降り始め、それと同時に低い雷鳴が響き始めた。

 そこでナブロは勢いよく両手を空へ向かって突き出し、大声で叫んだ。

「罪禍の焰よ、その火で愚かな者どもを焼き尽くせ!」

 ナブロが叫んだ直後、目の眩むような閃光が走り、続いて鼓膜が引き裂かれるほどの轟音が響いた。もうその次の瞬間には、敵軍の中心から、巨大な炎の柱が立ちのぼっていた。

 忽ち、悲鳴が上がった。

 炎に包まれた人影が列を飛び出し、転がり、折り重なって倒れていく。

 一瞬のうちに、地獄のような光景がそこに現れていた。

 ナブロはゆっくりと振り返って言った。

「これが、アウラ様の『力』の一片ですよ」

 誇らしげな横顔は、赤く照らされていた。

 ハルディアは険しい顔をしたまま、黙って炎の方を見つめていた。

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