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ノアの終焉  作者: 齋藤昴
第2部
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第五章 キフカスの悲劇(1)

 帝都は、未だかつてないほど恐れ、憤っていた。

 恐れの理由は、彼らが長年蔑んできた奴隷たちが、逃亡するにとどまらず、自分達に対して牙を剥いたという事実である。市民たちはこれまで、そのようなことが起こり得るということ自体、考えたことすらなかった。彼らは完全なる傲慢の内にあった。しかし、もはや市民は安全ではなくなった。こうしている間にも各地で奴隷たちの逃亡はとどまることなく続いており、次々とチュニスに合流しているに違いなかった。今や、彼らがさらに力をつけ、ほかの都市をも奪い取るのではないかという話が、まことしやかに囁かれるようになっていた。

 憤りの理由は、彼らの誇りが傷つけられたという思いにある。広大な領土の中に、無数に存在する都市の一つ一つは、彼らの誇りである。その一つが奪われたということは、彼らの誇りがひどく傷つけられたということに他ならない。そこが例えどれほど辺鄙な場所であっても、絶対なる帝国の支配が崩されたことに変わりはなく、一時的であれ自分たち以外の勢力によって占領されているのは耐え難い屈辱なのであった。

 そうしたわけで、6月になって遂に皇帝からチュニス討伐の勅諭が示された時は、帝都中の市民がこれを熱烈に支持した。カレドニアの大通りをハルディア率いる討伐軍が行進して出陣してゆく時には、帝都中に割れんばかりの歓声が響いたのである。

 帝国軍の編成は、軽装歩兵1万8000、重装歩兵6000、弓兵3500、騎兵2500、工作兵800、傭兵1500、それに補給部隊がおよそ6000の総勢3万8000余り。副指揮官には裁定の神ユリウスの末裔ポルポネス家のメティウスが任官された。その軍勢は、帝国の軍としては必ずしも大軍と呼べる数ではなかったが、逃亡奴隷討伐のために集められた軍であることを思えば過剰なほどの精鋭を擁した部隊であった。

 討伐軍は帝都カレドニアを出陣した後、プロネシレ街道を北上しチュニスを目指した。カレドニアからチュニスまでは、街道を通って概ね13日で到達する道のりだった。

 一方、天の民の側も、帝国側の動きを常に警戒しており、この動きをいち早く察知することとなった。彼らも帝国軍を迎え撃つべくチュニスを出陣し、南方のキフカス平原へと進軍した。その正確な数についての記録はないが、驚くべき事に一説では帝国軍を上回る軍勢であったとも言われている。

 天の民達がキフカスを決戦の地に定めた理由は、その地形にあった。

 キフカス平原は年間を通して降雨が少なく、まばらに草地が存在するだけの乾燥地帯に当たる。今は雨季のため、比較的草地は多めだが、それでも平原の大部分は剥き出しの大地が広がっていた。キフカスはチュニスへと続く街道の途中にあった。その地形は緩やかに起伏し、いくつかの丘陵を形作っていた。彼らはこの丘陵上に先に布陣することで、地形的に有利な条件で敵を迎え撃とうと考えたのである。

 彼らはこの数カ月の間に、十分な軍備を整えることに成功していた。今やチュニスには帝国各地から脱走奴隷が集まるようになり、兵の数を揃えることが容易となった。そして全ての兵士たちに余すことなく装備をいき渡すのに、ほとんど全ての民が、言うなれば不眠不休の体制で、武器や防具などの生産に当たった。昼も夜も、鉄を鋳造する窯の火が消えることはなかった。

 また、チュニスに残されていた馬を用いて、騎兵の養成も行っていた。およそ百名の兵士たちが、騎馬の訓練を経て騎兵として錬成された。ネロもその一人だった。

 それでも、急ごしらえの軍は、装備に於いても統率に於いても、帝国軍に比すると大きく劣っていた。敵に勝るものがあるとすれば、信仰心に裏付けられた極めて高い士気である。と同時に、少しでも戦略的に有利な状況を手にする努力も惜しまなかった。

 最早、彼らの軍は、半年前にチュニスを奪った時とは比べ物にならぬ程、量においても質においても凌駕していたのである。

 彼らは、狙いどおり最も高く広い丘陵上に、左右に展開して陣を敷いた。そして遅れて到着した帝国軍を南方に見下ろす形で対峙したのだった。

 主従の関係が存在しない、それでいて統率が保持されている歴史上極めて稀有な軍団が、帝国軍の前に立ちはだかったのである。

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