第四章 贖罪(1)
冬の終わりが近づいたある日の早朝。
濃い靄が立ち込める町の中を、ルルムはいつものように、マラーヤータの後に続いて歩いていた。
道は、夜の間に降った雨でまだぬかるんでいた。ところどころにできている水溜まりを避けながら、彼女はマラーヤータに遅れぬよう懸命に歩いていた。
目指しているのは、町外れの小高い丘。その丘はいつからか、悩める者たちが預言者の教えを求めて集う場所となっていた。
空気はひんやりと冷たく、何となく「あの日」の朝を思い出す。
ルルムは、嫌な記憶を頭から振り払うように、自身の足元だけを見つめ歩き続けた。
ぬかるみに足を取られぬよう慎重に勾配を登ってゆき、丘の頂上に出ると、小さな広場にはすでに十数人の男女が集まっていた。その中には、ネロの姿もあった。
早朝の丘の上は、いつも神聖な学びの場だった。しかしその日は、いつもと少し様子が異なっていた。
広場の中央に、乳飲み子を抱えた女が一人蹲っている。残りの者たちはその周りを取り囲んで、この若き親子を見下ろしていた。
群衆の間には、穏当ならざる空気が漂っていた。
「どうしたのか。あなた方は、何故この親子を囲んでいるのだろうか」
マラーヤータが集まった民たちに向かって尋ねると、その中から壮年の男が一人進み出て訴えた。
「マラーヤータ、この女は、私の家の甕の中から麦を一束、豆を一掴み、それに芋を2つ盗み出しました。私ははっきりとこの目で見たのです。どうかこの者に相応の罰をお与えください」
女はうなだれたまま動かずにそこにいる。腕の中の赤子は不機嫌そうに泣いていた。
「それは誠のことか」
マラーヤータが女に尋ねると、その若い母親はうなだれたまま、消え入りそうな声で「はい」と答えた。
今度は別の女が群衆の中から歩み出て、親子の隣に膝をつき、マラーヤータへ訴えた。
「後生でございます。この者に、どうかお慈悲をお与えください。彼女は夫を病で失くしました。ご覧の通り、幼い赤子を抱え、必死に生きております。私たちも哀れに思い、食べるものを少しずつ分け与えてきたのですが、それでも足りず、乳飲み子に与える乳も満足に出なくなってきたのです。こういうわけで、やむにやまれず、罪を犯してしまったのです。何卒、お慈悲をお与えください!」
マラーヤータは目を細め、じっと親子を見つめた。
ルルムは、皆の話を聞いて、この親子がひどく気の毒に思えてきた。あの女の人だって、盗人になどなりたくはないはず。だが、我が子を守るため、苦しみながらも罪を犯したに違いない。親は子どものためならば、どんなことをしてでも助けてあげたいと思うものではないか。
ルルムの胸に、ふと悲しい感情が去来した。
その時、マラーヤータが口を開き、そこにいる全員に語りかけた。
「この者には同情すべき事情がある。子を守り育てるという美しき使命もある。しかし、犯してしまった罪は、消えることはない。相応の償いがなされない限りは」
それを聞き、今度は別の方から、若い男の声が問いかけた。
「それでは、罪を償うために、この者は何をすべきでしょうか」
声の主はネロであった。彼は、真っ直ぐに預言者を見つめ、答えを待っている。
再びマラーヤータは目を開き、ネロを正面に見据え、彼の問いに答えた。
「罪を悔い改め、奪ったもの全てをもとのままに返すことができれば、贖罪は成る」
すかさず、さっきの女が母子の前に出て、力を込めて訴えた。
「この母に、盗んだものを返すことなどできません!彼女はもう何日も食べ物を口にできず、弱りきってしまいました。もう他人から盗むより他はなかったのです!そして慚愧の念に苦しみながら、わが子に乳を与えんがため、それらを食べたのです」
マラーヤータは目を閉じて、じっと思案を巡らせているようだった。
その場がしばらく重苦しい沈黙に包まれたのち、ネロが口を開いた。
「誰かから何物かを奪ったものを罪人と呼ぶならば、ここにいる私たちはみな等しく罪人と呼ばれるべきです。我々は先住の民から、このチュニスを奪いました。その罪も、消えることはありません。私たちも生きるために奪いました。それを、もとのままに返すことは最早できません。この親子と一緒です。一体私たちは、この罪をいかにして償うべきでしょうか」
マラーヤータは少し驚いたように目を見開き、やがて静かに答えて言った。
「私たちの罪は、消えることはない。命つきるその時まで、永遠に背負わねばならない。だがその罪は、あるいは軽くすることが出来るかもしれない。罪を悔い改め、善き行いに励むこと。その分だけ、罪を軽くすることができるだろう」
ネロはふたたびうなずいた。
「それならば、私はこの親子に、麦を一束譲りたいと思います」
ネロはそう言って、自分の家の甕の中から麦を一束持ち帰り、親子の前に置いた。
それを見て、他の者達も次々と自分達の家から麦や豆、芋、干し肉、木の実などを持ち帰り、同じように親子の前に置いていった。
乳飲み子の母は涙を流しながら、目の前の山から麦と豆と芋を手に取り、自分を訴えた男へ差し出した。
男の方は、思いもよらない出来事に戸惑う様子を見せたが、差し出された食べ物を受けとると、そこから豆をひとすくい取って彼女の前に置いて言った。
「これは私の罪のために」
一部始終を見届けて、マラーヤータは言った。
「尊いことだ。皆に天の祝福のあらんことを」
皆の表情は、曇りが取れてどことなく晴れやかに見えた。
この一部始終を見ていたルルムは、静かで深い衝撃を受けていた。彼らが起こした不思議な行動は、少女に深い感銘を与えたのだった。




