第二章 チュニスの屈辱(1)
カレンツァ帝国北部の平原の大半は、内陸部の荒涼とした乾燥地帯である。しかし東部のバルサ盆地だけは、一年を通じて豊富な雨量に恵まれ、豊かな穀倉地帯が広がっていた。ここに、チュニスという町があった。
帝都から離れた田舎の属州で、農地が広がる牧歌的な景観の他は、取り立てて書くべき特徴もない小さな町である。故に、これまでその名はあまり知られてはこなかった。しかし、後に「チュニスの屈辱」と呼ばれる大きな事件の舞台となったことで、その名を歴史に刻むことになる。
帝国軍がハーラントへ侵攻した丁度その頃、国内が手薄となった隙を突くように、「天の意思に従う民」たちの集団は突如、この肥沃な土地を狙ってチュニス近郊へ現れた。
チュニスを治めている領主は、グラシウスという名の初老の貴族だった。中肉中背で白髪の多い頭髪に少し伸びた顎髭を持ち、眉間にはいつも皺を刻んでいるような男だった。彼はこれまでの人生で特に目立った功績を上げたことはなかったが、その堅実な領地運営には定評があり、帝国内でも一目置かれる存在であった。
ハーラントで戦役が起こったとき、彼の領地がハーラント国境から遠く離れていたことと、彼自身の年齢を考慮され、軍役を免除されていた。そこへ、唐突に反乱奴隷の集団が迫ってきたとの報が飛び込んできたため、急いで500人ほどの手勢を集め、チュニスの西の平原へと急行したのであった。そこで初めて敵と相対した時、グラシウスは異様な雰囲気を感じ、思わず戦慄を禁じ得なかったのである。
抜けるような青空の下、赤土の荒野が広がっている。はじめ地平線の向こうに、もやのように砂埃が立ち上っているのが見えた。その砂埃を背景に、人影が一人、また一人と、蜃気楼のようにゆらめきながら現れた。それらは時とともに数を増やし、やがて何万ともつかぬ大きな集団となって、こちらへ向かって進み続けていた。さながら巨大な猛獣が静かに近づいてくるような、恐ろしい威圧感があった。
チュニスの兵たちは、この光景に圧倒され、著しく動揺した。
グラシウスも、想像をはるかに超える敵の数を前にして、思わず目を見開いた。だが彼は、かろうじて冷静さを保っていた。
彼は決して勇猛ではなかったが、賢明な領主ではあった。この時も、自分が何をすべきかをよくわかっていた。グラシウスは兵たちの様子を見て、すかさず声を張り上げて彼らを鼓舞したのである。
「皆の者、怯むでないぞ!奴らはまともな武器も持たぬ寄せ集めの奴隷どもに過ぎぬ!気高きカレンツァの兵の敵ではない!一人残らず屈服させ、皇帝陛下へ忠義を示すのだ!今この時が、我らの名を上げる好機と心得よ!」
この檄に兵たちは大いに奮い立ち、横陣を組んで相対した。これを見て、迫り来る民たちも足を止め、両者は互いに睨みあった。
グラシウスの言う通り、彼らはろくな武器を持っていなかった。手にしていたのは、最も原始的な武器、すなわち石つぶてに過ぎなかったのである。だが、その事実は些かも彼らを怯ませることはなかった。
彼らは常に、大いなる存在の加護の下にいた。目の前の敵が、軍隊だろうが悪魔だろうが、恐れる必要などなかったのである。
その目は常に前を向いていた。
石を握る手には、力がみなぎっていた。
戦場に冷たい風が吹き始めた。この時「天の民」の先頭には、ネロがいた。彼はチュニスの方角を指し示し、全員に聞こえるように大声を張り上げた。
「今こそ!」
広い平原にネロの声が響き渡る。
「今こそ、決別しよう!奪われるしかなかった日々と。怯えるしかなかった日々と!踏み出そう、天の示す道の先へ!誰にも奪われることのない、安寧の地へ!何者が立ちはだかろうと恐れることはない!天が示す道の上では、如何な障壁も必ず崩れ去る!忘れるな!天は常に、我らと共にある!」
戦場に、大歓声が広がった。みな腕を突き上げて、あらん限りの咆哮を上げた。そして天の民たちは前へ出て、次々と手に持った石を投げ始めたのだった。




