第一章 ネロ(3)
マラーヤータの元には、ネロたちのようにカレンツァ帝国の各地から逃亡してきた奴隷たちが集まってきていた。多くは、風の噂に「天の啓示」を授かった者の話を耳にし、支配からの救世主を求めるようにして集まってきたのだった。
しかしその逃亡の道のりは、想像を絶する過酷なものだった。逃げきれずに捕えられ連れ戻された者や、逃げる途中に命を落とした者も多かった。それでも、彼の元には日に日に人が増えていった。
ネロとルルムも彼らに合流し、その日から共同生活が始まった。
集団の中では、誰しもに役割が与えられた。ネロたちにもそれぞれ仕事が割り振られた。それは川の水を汲んで運んだり、木の枝を切り落として薪にしたり、山中へ入って木の実をあつめたりと、どれも決して楽な仕事ではなかったが、奴隷の時と違い全て彼ら自身のための仕事だったので、二人にとってずっと楽しいものだった。集団の中で毎日を過ごすうち、ネロとルルムは少しずつ周囲と打ち解けていった。
マラーヤータと行動する『天の意思に従う民』たちは、暮らしやすい土地を見つけると、しばらくそこへ住み着いたが、長くは留まらなかった。彼らが自由の身でいることを許さぬ者たちが、その暮らしを常に脅かしていたからだった。追手が迫って来たことを察すると、民たちはその土地を捨てて新たな棲みかを探さなければならなかった。
そのような暮らしを何年も続けるうち、やがて新たな棲みかを見つけることも難しくなり、あてもなく彷徨う日々が増えていった。食べるものを手に入れることも大変になり、仲間内でいざこざが起こることも増えていった。
季節が冬へ差し掛かると、事態はより一層深刻となった。老人や子どもは寒さと飢餓で病に倒れ、命を落とす者も出始めた。民は皆、終わりの見えぬ放浪の日々に、疲弊しきっていた。
夜になると、布や板切れをつなぎ合わせただけのみすぼらしい天幕には、容赦なく冷気が入り込んできた。暗闇の中、ぼろ布にくるまって体を丸めて眠るルルムの横顔を、ネロは心配そうに眺めることが増えた。
ある夜ネロは、誰かがそっと天幕の外へ出てゆくのを見た。
ネロはそれが誰であるかを確かめるため、ルルムを起こさぬよう静かに天幕の外へ出て、辺りを窺った。
空気は凍えるように寒かった。頭上には、いつか見たのと同じ星の海が広がっている。
しばらく辺りを探すと、やがて石の上に腰かけて夜空を見上げている一人の人影を見つけた。
その者は微動だにせず、夜空を見つめ続けていた。
その光景を見たとき、ネロは途方もなく神聖な場所に不意に迷い込んでしまったかのような、言いようのない畏れを抱いた。ここは宇宙の中心で、その者は今まさに天と一体となり、その意思を聞いているのである。神秘的で、静謐で、厳かな空気が、その場に満ちていた。
邪魔をしてはならぬと思い、ネロはしばらく静かに見守っていたが、体の芯まで凍えるような寒さを感じ、意を決して声をかけた。
「マラーヤータ」
ネロが呼び掛けると、人影はまるで今呼吸を思い出したかのように、ゆっくりと息を吐き出した。星明かりに、白く曇った息が重なる。
「お邪魔をして申し訳ありません。お体を冷やしてはいけないと思いまして」
「ありがとう」
マラーヤータは返事をしつつ、杖をついて石から腰を上げた。
「『声』を聞かれていたのですか?『天』は何と?」
ネロの問いかけに、マラーヤータは夜空を見上げてしばし考えていたようだったが、やがて短くこう答えた。
「『進み続けよ』ということだろう」
ネロには、その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。しかし、マラーヤータの横顔には、何か大きな決意が宿っているように見えた。
その時だった。
天上の星々が、次々と光の尾を引いて滑り落ちていった。まるで光の雨が降り注ぐように、夜空を横切って消えていく。
ネロは、このような光景を初めて見た。ただただ驚き、目を見開いて食い入るように夜空を見続けた。
しばらくすると、星の雨は止み、先程と同じ星空へと戻った。
「い、今のは・・・?」
何が起こったのか理解できず、ネロは思わずマラーヤータへ尋ねていた。
「西の大地で、大きな動きが起ころうとしている」
マラーヤータは光の消えた先をじっと眺めた後、静かに言った。
「行こう。我々も進む時だ」
はっきりと、声に力がこもっていた。
「ネロよ。私がかつて君に話したことを覚えているだろうか。『我々は、生きるために罪を犯さなくてはならなかった』と」
「はい、覚えています」
ネロはマラーヤータの瞳を真っ直ぐに見て答えた。
「今、またその時が来ているようだ。それも、かつてなく、己の罪深さにおののくほどに」
マラーヤータの言葉に、自然とネロも表情が引き締まってくる。
「私たちは、これから東へ向かう。安寧の土地を、手に入れる」
「安寧の地、それは一体・・・!」
思わずネロは聞き返した。
流浪の民たちがこれまで渇望し続けた安住の地。どこまで旅をしても、見いだすことはできなかった、憧れの場所。だが今、自分達の指導者は、それが手に入ると言っている。
「我らが生きて自由を手にする、それが天の意思だ。私たちが天に従い進む限り、その道にいかな困難が立ちふさがろうと、天は必ずそれを取り除かれる。今こそ、決断する時だ」
その言葉を聞き、ネロは再び驚いた。それと同時に、彼はマラーヤータの強い決意の正体を知った。
生きるため、守るために、戦って奪い取る。そうしなければ生きられない。
分かっていたことだ。ただ今までのネロであれば、逡巡していたことだろう。
だが今は、彼にも決意があった。
「分かりました。確かに、皆に伝えます。それが天の意思なのだと」
ネロはそう言って力強くうなずいた。




