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ノアの終焉  作者: 齋藤昴
第2部
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第一章 ネロ(2)

 ネロは少女の腕を引きながら走った。彼に引っ張られ、少女も息を切らしながら走り続けた。ネロは彼女の様子を気にかけながらも、一方では誰かが自分達を追ってくるのではないかと気が気でなかった。あの屋敷の誰かが庭に横たわる主人の死体を見つけたら、間違いなくネロが殺したことに気づくだろう。すぐに何人もの男達が篝火(かがりび)を灯して、姿を消した奴隷たちの行方を追うに違いなかった。だから、ネロは必死に逃げた。

 屋敷の灯りが見えなくなるところまで走って、ようやくネロは走るのをやめた。そして少女の腕を離すと、その場に座り込んで、大きく息をした。少女の方も、地面に膝と両手をついて、しばらく肩で呼吸をしていた。

 少女の顔は暗闇でよく見えなかった。だがおそらく、突然起こった出来事に混乱し、怯えているに違いない。ネロは彼女に対し、なぜだかすごく申し訳ない気持ちになった。

 しばらくして、段々と呼吸が落ち着いてくると、周囲を見渡す余裕が出てきた。そこで初めてネロは、自分の頭上に無数の光が輝いていることに気が付いた。

 顔を上げると、目の前一杯に、星の海が広がっていた。彼はしばし、それに目を奪われた。

 思えば、ネロはこれまで下ばかりを向いて生きてきたものだった。辛い仕事も、ひどい罰も、いつもうつむいて耐え続けてきた。だが今彼は、初めて空を見上げ、まばゆいばかりに輝く星空を見つけたのだった。

 気がつくと、彼のすぐ傍で、少女も同じ夜空を見上げていた。

 しばらくは二人とも声を発することなく、雄大な景色に見入っていた。そうすると、不思議と心が落ち着いていった。

 やがて、ネロは立ち上がり、一言「行こう」と少女に声をかけた。

 二人は、星の光に導かれるように、再び夜の大地を歩き出した。


 二人は夜通し歩いた。追手を気にしながら、どこをどう歩いたのか、二人ともよく覚えていなかった。気がつくと夜は明け、林の中の小さな小川のほとりへとたどり着いていた。

 草木の間を清らかなせせらぎが流れている。

 ネロも少女もすっかり歩き疲れ、咽も乾ききっていた。ネロは川岸に膝をついて、両手で冷たい水を救い上げ、咽へ流し込んだ。冷たい水は火照った体に沁みわたるように、彼の疲れを癒してくれた。

 ネロは川面から顔を上げ、あたりを見回した。川岸に蓮の葉が生えているのを見つけ、ネロはその一枚を摘み取り、器のように丸めるとそこに川の水を汲んで、少女のもとに運んでいった。

「君も飲むといい」

 差し出された水を見て、少女は少し驚いた様子を見せたが、素直にそれを受け取って飲み干した。その様子をみて、ネロは満足したように微笑み、川岸に腰を下ろして体を休めることにした。

 朝日が差し込む林の中に聞こえるのは、小川の流れる音と、遠くから響いてくる鳥の鳴き声だけだ。穏やかで、澄んだ空気が満ちている。息を吸い込むと、涼しくて湿った空気が鼻の奥へと流れて込んできた。

 ネロはぼんやりと、これまでのことを思い出してみた。

 静かな林の中にいると、まるで昨日までの出来事が、悪い夢ででもあったかのように思えてくる。

 いっそ、夢であったと思ってしまいたい。

 しかし、視線を落とし自分の腕が目に入った瞬間、彼はすぐに残酷な現実を思い知らされた。

 彼の左腕には、幼い時から、奴隷の身分であることを示す刺青が、呪いのように刻まれていたのである。青黒い印が、いついかなるときも、「お前は死ぬまで奴隷なのだ」と嘲笑っているかのように、冷酷にそこに居座っていた。

 彼とともに逃げてきた少女にも、同じ刺青があった。

 この刺青がある限り、どこへ行っても彼らは永遠に奴隷の運命から逃れられないのだ。

 ネロの胸中には、再び暗澹とした気持ちが広がっていった。

 その時、不意に川の向こう岸に人が現れ、ネロははっと身構えた。

 現れたのは、顔の半分を覆う程の髭をたくわえた、初老の男であった。右手に杖をつき、じっとこちらを見つめている。

 ネロは驚いた。その男の腕にも、彼と同じ刺青が彫られていたのである。

「君たちも、逃げてきたのか」

 男は落ち着いた声で、ネロたちに語りかけてきた。

「あなたは、一体何者ですか?あなたも、奴隷なのですか?」

 ネロが尋ねると、男はゆっくりと首を横に振った。

「かつては、そうだった。しかし今は、『天の意思』に従い、仲間たちと旅をしている。彼らは私のことを、『マラーヤータ』と呼んでいる」

「『天の意思』・・・?」

 ネロが聞き返すと、マラーヤータと名乗った男は、今度は首を縦に振って答えた。

「天は世界の全てを創造し、司っている。天の下では生きとし生けるもの全てが等しくある。天の理に従い生きること。それを、私は伝えるために旅をしている」

 ネロは再び驚いた。「生きとし生けるもの全てが等しい」などとは、これまで全く考えたことがなかった。ならば自分たちも自由に生きるべきだと言うのだろうか。

 しかし、ネロはそこでうなだれた。

「私は、罪人なのです。正しい道には戻れません」

 脳裏に、夕べの主人の姿が浮かんでくる。ネロは、悲しい声で男に訴えた。

 男は、優しい目付きでネロを見つめ、諭すように言った。

「同じだよ。私も、私の仲間たちも、生きるために罪を犯さなくてはならなかった。罪人にならなくては、死を待つしかなかった。天は、全ての罪を見ている。包み隠すことはできない。しかし、罪人が行うどのような償いも、一つも漏らさず見えている。私たちは生かされたのだ。だから、生きねばならない。生きながら、天の意思に従い、罪を贖うのだ。天は偉大だ。その懐は無限だ。許されぬ罪人など、一人もいない」

 ネロの瞳から、涙がこぼれ落ちた。

「私も、連れていって戴けますか?」

 マラーヤータは、再び頷いた。

「名前は何と?」

「ネロと言います」

「では同志ネロよ、私たちとともに生きよ。覚えておきなさい。あなたの主は、あなた自身である。これからは、あなたの命は、あなた自身のために使いなさい」

 そしてゆっくりと少女の方にも向いて話しかけた。

「君も来るかね?」

 少女も、小さく頷いた。

「君の名は?」

「・・・ルルム」

 少女は、ポツリと呟くように答えた。この時、ネロは初めて少女の名を知った。

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