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ノアの終焉  作者: 齋藤昴
第2部
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第一章 ネロ(1)

 ネロは奴隷の子だった。父の顔は知らない。母は、彼が少年の頃に別れ、その消息は不明である。

 少年のネロが連れて行かれたのは、ある下級貴族の農場だった。彼はそこで働かされることになった。赤土の混じる荒れた土地を耕し、種を蒔き、麦や芋などを育てた。照りつける日差しの中、来る日も来る日も水を運び、畑に撒いた。

 ネロの主人は、太った赤ら顔の男だった。横柄で癇癪持ちで、ネロが何か粗相をするとすぐに怒って棒で打ち付けてくるような男だった。機嫌が悪い時も、彼に棒を振るった。そうやって昼間彼を働かせ、痛めつけて、日が暮れると彼を小屋に閉じ込め、扉の外から閂をかけてゆくのであった。

 奴隷の子は生まれながらにして奴隷である。ネロ自身、不遇の身に憤りを覚えることもあったが、努めて考えぬようにして苦しみをやり過ごしていた。彼が青年になる頃には、顔は日に焼けて険しくなり、手の指は節くれだっていった。

 およそまともな食べ物も寝床も与えられたことはなかった。この境遇を生き抜くために彼が会得したのは、ただひたすらに心を虚無に保つ術であった。黙々と土を掘り、荷を運び、日が暮れるまで働いた。夏は飛び交う虫の群れを手で払いながら、冬はひび割れた手足をさすりながら。そんな日々が、何年も続いた。

 ある日、彼の主人が新たに一人の奴隷を連れてきた。短い髪の、小柄な少女のようであった。左右の耳の頂上が尖っており、そこが目を引いた。少女は常に暗い表情をして、一言も言葉を話さなかった。

 翌日から、少女もネロの仕事に加わった。彼女は力はなかったが、畑の雑草を抜いたり、作物の収穫を手伝ったり、道具の修繕をしたりと、様々な仕事を器用にこなした。ネロは仕事以外で少女に声をかけることはしなかったが、時折彼女の様子を気にするようになった。

 彼らの主人は、この少女にも容赦なく棒を振るった。彼女が打擲(ちょうちゃく)を受けるのを見る時、ネロは次第に自身が叩かれる時とは異なる、奇妙な苦しさを感じるようになった。時には彼女の失敗を隠し、自分が代わりに折檻を受けたこともあった。

 ネロは、少女の過去を知らなかった。また、取り立てて聞き出すこともしなかった。ただ、自分と同じ境遇の少女に、どことなく親しみを感じるようになっていった。


 ある蒸し暑い日の夜、一日の仕事を終えたネロたちが休んでいる小屋の中へ、突然彼らの主人が、何かをわめきたてながら荒々しく飛び込んできた。強い酒の匂いをさせ、ひどく興奮しているようだった。何かあって家人と揉めたのであろうか。酒と怒りで一段と赤くなった顔で、暴言を吐き散らかしながら、主人はネロを見つけると腹いせに彼を思い切り殴りつけた。一度ならず二度三度と殴った。ネロは背中を丸め、黙ってそれに耐えた。

 主人はネロを痛めつけた後、今度は小屋の隅で怯えている少女の方へゆき、その右腕を掴んで乱暴に引っ張りあげた。少女の顔が、痛みと恐怖で大きく歪んだ。主人は構わず、彼女を引きずるように小屋の外へと連れ出していった。

 その光景を目にした時、ネロは胸の中を激しくかき乱されるような、これまで感じたことのない強い感情に襲われた。次の瞬間、彼は二人を追って扉の外へ飛び出し、主人の背中に飛びかかっていた。不意の出来事に主人は驚き、少女の腕を離してネロに抵抗したが、ネロは無我夢中で足元の石を拾い上げ、男の頭へ力一杯に振り下ろした。

 鈍い音がして、男は地面に倒れ込んだ。

 その上から、さらにネロは繰り返し石を振り下ろした。

 彼らの主人は頭から血を流し、地面に突っ伏したまま、動かなくなった。

 少女は地面にへたり込んで、呆然とその光景を見ていた。

 ネロも、荒い呼吸のまましばらく呆然としていたが、やがて少女の手を取り、二人で夜の闇の中へ駆け出して行った。

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