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ノアの終焉  作者: 齋藤昴
第1部
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第五章 フレスデンの戦い(4)

 夜になり、暗闇が視界を遮る頃を待って、リフローネは兵士たちを率いて動き出した。まずは敵に気付かれぬようにドニエクル河を南下し、両軍からかなり離れた下流の河岸まで移動した。河岸へ到着したら、マルコが対岸へ目を凝らして、敵の兵士がいないか注意深く探っていった。

 夜の闇の中では、河の対岸の様子までは人の目で見て取ることなどできないが、レニ族のマルコは目や耳が人よりも遥かに発達しており、暗闇の中でもはっきりと見渡すことができた。

「大丈夫。誰もいないよ」

 マルコの言葉を聞いて、兵士たちは素早く小舟を川面へ浮かべていく。各舟に船頭が一人ずつ乗り、続いて兵士たちが次々とそこへ乗り込んでいった。すべての舟が満ちると、それらは一艘ずつ岸から離れ、対岸へ向かって漕ぎ出していった。

 三日月が映る水面を、小舟の群れが音もなく滑ってゆく。

 進む先も、水の中も、暗闇に阻まれ殆ど見通すことができない。

 河の上流から冷たい風が吹いてきて、舳先を掴む指先がかじかんだ。

 静寂と暗黒の世界。まるで死者の国へと進んでいくかのような、不気味な景色。

 沈黙が語る。これから赴く場所こそは戦場なのだと。

 マルコを先頭に、リフローネたちを乗せた舟はゆっくりと対岸へ向かって進んでいった。マルコの目だけが、暗闇の中の景色をしっかりと捉えていた。舟は無事に対岸へ到着すると、リフローネたちをそこに下ろし、船頭の手によってまた元の岸へと戻っていった。

 ここから、さらに敵陣の方へ向かって慎重に北上を開始する。ここでもマルコを先頭にして、リフローネたちが後に続いた。

 マルコの目と耳こそが、リフローネの秘策に他ならなかった。

 レニ族は、小柄で力の弱い種族である。自然界で彼らは、非常に優れた視聴覚を備えることで生存を有利にしてきた。

 マルコは、星の僅かな明かりでも、真昼のように辺りを見通すことができた。また、静けさの訪れる夜では、より遠くの音を聞き分けることができるため、昼よりもなお広い範囲の様子を探ることができた。彼のお蔭で敵に見つかる危険を回避しつつ、自由に進軍ができるのであった。

 しばらく歩いたところで、マルコが立ち止まった。それに合わせて隊列も足を止める。フレスデン城よりまだかなり手前の場所だ。マルコは、一心に耳を澄ませているようだった。

「向こうの方で、たくさんの人の足音が聴こえる」

 抑えた声で、マルコが言った。

 どうやら、帝国軍が城の南側にも陣を構えているらしかった。おそらくフレスデン城は、西のドニエクル河を背にして、帝国軍に包囲されているようだ。

 目指すエーテル橋は城を挟んで反対側にある。ここからでは、奇襲が成功しても橋まで到達することはほぼ不可能だ。こちらは精鋭でも寡兵ゆえ、援護がなくては厳しい。そしてその援護を与えてくれる兵力は、河のこちら側には一つもないのである。

「背後を回り込みましょう。マルコ、敵との距離を保ちながら迂回して橋に近づいて」

 このままここで夜が明けてしまえば、たちまち敵軍に発見され作戦は失敗する。奇襲に最適な場所を探すべく、隊列はマルコを先頭に河岸から離れる方向へ移動していった。

 リフローネは、進みながら心中の不安や焦りと戦っていた。

 困難な作戦になることは分かっていたことではないか。最後まで冷静さを失ってはいけない。慎重に、最も良い時機を見つけ一気に突き崩す、そのための最良の場所を、探さねば。

 リフローネ達の部隊は、フレスデンの町から離れた小道を辿り、敵軍を大きく迂回して移動した。この辺りは田園が広がっていたが、今は雪が薄く積もって真っ白な平原となっている。雪明かりのため、マルコでなくとも少しは視界が効いた。彼らはエーテル橋へ接近できる場所を探し、雪の中の農道をひたすら歩いた。

 だが、敵陣になかなか隙は見つからなかった。やはり1万の軍勢は厚く、フレスデン城とエーテル橋を抜け目なく包囲している。

 夜の闇はいよいよ深く、冷気が足元から染み込んでくる。

 進退極まったかに思われたその時、マルコはあることに気が付いた。

「ねえ、微かなんだけど、この上の方からも人の気配がするんだ」

 マルコのその言葉を聞き、リフローネ達は急いで辺りを見回した。

 その時初めて気が付いたのだが、彼女たちが進んできた農道から右手の方へ別れる道があり、その道は緩やかな勾配を登って小高い丘の上へ続いていた。そこはフレスデン城を包囲している帝国軍よりも後方の北東にあたる場所である。マルコは、その丘の頂上付近を指し示していた。

「頂上の様子がわかるのか?」

 ナジャがマルコに尋ねると、マルコは背を低くして注意深く丘を上り、上の様子を探った。やがて彼は戻ってくると、見えたものを報告した。

「幾つも旗が立っていた。立派な天幕も見えた。敵の兵隊が見張りについているみたいだけど、数はあまり多くないみたい」

 これを聞いて、リフローネとナジャは顔を見合わせた。もしかすると、偶然にも大きな幸運を掴んだのかもしれない。

 この丘の上からは、ちょうどフレスデン城とエーテル橋を一望できる場所となっている。そう、正に、敵の司令部が本陣を構えるのに最適な場所なのだ。そして今、敵の兵力の大半は、フレスデン城の包囲とエーテル橋の防衛のために前衛へ展開している。

「丘の上の兵数は、どのくらい?」

「天幕の中で眠っている人数までは詳しく分からないけど、多分全部合わせて、300か400だと思う。」

「丘の上以外に兵はいる?」

「いないよ。ここにいるだけで全部だよ」

 マルコは淀みなく答える。自信があるようだ。

 リフローネは考えた。不意を突けば十分に勝機はある。敵の司令官を討ち取れば、軍全体に大きな動揺を与えることもできるだろう。

 彼女は心を決めた。

「みんな、攻撃の準備をして。気づかれないように背後から上り、合図ととも一気に敵将を討ち取りましょう」

 リフローネは兵士たちに指示を与えると、両手を自身の胸に重ねて祈った。

「私たちに、女神ノアのご加護がありますように」

 夜明けが近づいていた。

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