1-8・今回の調査における一番大切な話
午後三時半。
薄野さんは手にクリアファイルを持っていた。中には数枚の白い紙。
「あの、大丈夫ですか?」
ソファに座るより先に、薄野さんが私に声をかけた。
「ああ! ええ! 大丈夫です! ちょっと、動悸が!」
慌てて両手を振り、無事を伝える。髪を手櫛で直し、パソコンの前に座り直す。
「君も座って、薄野さん。コーヒーに砂糖とミルクはどのくらい?」
「え!? ええと……じゃあ、砂糖一つで」
コーヒーを淹れる朔夜氏を、薄野さんは珍しいものを見る顔でまじまじと眺めていた。
「どうぞ」
紙コップをテーブルに置くと、朔夜氏が私の隣、定位置に座る。
「例の資料は持ってきてくれた?」
「はい。これです」
薄野さんは二種類のファイルを朔夜氏に手渡した。
最初の中身はすぐにわかった。これが件の、嫌がらせ文書だ。
真っ白なコピー用紙、真ん中に大きな文字で『アバズレ』『反省しろ』『仕事しろ』などの中傷が印刷されている。全部で五枚。朔夜氏は一枚ずつ丁寧に、隅々まで確認した。裏返して文字が透ける白紙部分まで確認した。私は朔夜氏の見終わった紙を雑に渡され、それらを眺めてから元のファイルにしまった。
次のファイルには、何の変哲もない仕事の資料が入っていた。最初の二枚には、『①』『②』と書かれた付箋が貼ってある。三枚目の資料は経営企画部の地図のようだった。デスクの位置、コピー機の位置、資料棚の位置が描かれ、どこに誰が座っているのかの記名と、コピー機に①②の番号が振られている。
「ありがとう、よくわかった。この資料、預かっても?」
「はい。というか、差し上げます。私が持ってても、捨ててしまうだけですから」
朔夜氏は私に横流しした資料類に「スキャンして議事録に添付して」と指示した。
「なんのための資料なんですか?」
最初のファイルはわかる。中傷の実態と証拠資料だ。
しかし、二つ目のファイルは……?
「さて、薄野さん」
朔夜氏は私の疑問をガン無視して、薄野さんに向き直る。
「今回の調査における、一番大切な話をしよう。君のキャリア設計についてだ」
「え? あ、はあ」
薄野さんが居住まいを正す。
「結論から言って、異動願いを出すことをオススメする」
「ちょっ!」
私は大声を上げた。
「待ってください! 薄野さんは、被害者ですよ!? どうして異動しなくちゃいけないんです!」
「理由は三つある」
朔夜氏は、あくまで薄野さんを見つめながら人差し指を立てた。
「一つ。嫌がらせが止んでも、君と伯耆原さんの不和が解消しなければ、あまり意味がない。嫌がらせうんぬん以前に、君は伯耆原さんによってかなり参っている。嫌がらせと伯耆原さん、二つの問題を解決するには、もう君が部署を異動したほうが早い」
「それは……そうかもしれませんが」
薄野さんが唇を噛み俯く。
「でも、嫌がらせの犯人は伯耆原さんですよね? じゃあ、伯耆原さんが異動すればいいんじゃないですか……?」
「二つ目」
薄野さんの当然の疑問を黙殺し、朔夜氏がピースサインを作る。
「今回の問題を解決するため、俺はいろいろな人間から話を聞いている。君の受けた嫌がらせが部署内で噂になるのは、時間の問題だと思う。嫌な気分になる前に去ったほうがいい」
薄野さんが驚いたように顔を上げる。
「そんな……! それ……それって、朔夜部長のせいなんじゃないですか……!? なんで、私が異動させられなきゃいけないんですか……!?」
「三つ目」
三本目の指が立てられる。
「思うに、薄野さん。君がもっとも輝ける部署は経営企画部じゃない。人事には話を通しておくから、気に入る部署を探してきてほしい」
薄野さんが息を呑む。瞳が揺れ、膝の上で手を握りしめる。
「そ……れ、それって……?」
「部署が君を選ぶんじゃなくて、君が部署を選ぶってこと。俺からのオススメは広報部、あるいは新規事業開発室。君は本来アイデアマンで、気が利き、我慢強い。君の発想力を活かせる部署に栄転してほしい。それとも」
朔夜氏は右手を下ろした。
「なにが未練なの?」
薄野さんは再度俯き、何度も深く呼吸した。
「逃げる、みたいで……」
「そうだね。君は経営企画部から逃げる、という戦略を取る。なにが問題なの?」
「こんな……伯耆原さんに、負けるみたいな……」
朔夜氏が大きくため息をつく。
「……いいかい、薄野さん。君は、プライドをかけた勝負には負ける。けれど、人生で勝つ」
薄野さんが、目を見開いてゆっくりと顔を上げた。
朔夜氏が、ソファから身を乗り出し薄野さんを見つめる。
「経営企画部での戦いは、場外乱闘だった。逃げて当然、戦う価値もない。そして新しい部署で、君の本当の仕事が――人生がリスタートする」
「人生……朔夜部長は」
薄野さんが瞬きすると、瞳から涙が落ちた。
「私の、人生まで考えてくれて……?」
朔夜氏が優しく顔をほころばせる。
「言ったでしょ。今回の調査における、一番大切な話。それは君のキャリア設計についてだ」
「……!」
薄野さんが両手で口を覆い、目を伏せ、俯く。
私は慌てて立ち上がり、コーヒーマシンの横に常備された箱ティッシュを掴む。そのままそっと、彼女の手の届く位置に置いた。
薄野さんの手が、ティッシュを取り出し顔を押さえる。
「わた、私……異動願いを、出します……ありがとうございます、朔夜部長……」
朔夜氏は優しい声で「君の前途を祈るよ」と微笑んだ。
「それから……鴻さんも」
突然呼ばれて驚いて、薄野さんを凝視する。
彼女は涙に濡れながら、しっかりと私を見据えていた。
動揺した。私は今回、特に、なにも……書記くらいしか。
そう思っていると、薄野さんは語り出した。
「お昼に……私のために、伯耆原さんに立ち向かってくれた、でしょ? あれ……本当に、びっくりして……でも、嬉しかった」
薄野さんは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で私に笑いかけた。
「ありがとうございました」
「……どっ、どう、いたしまして……!」
薄野さんへ軽く頭を下げる。
嬉しいやら恥ずかしいやらで、手が汗ばんでくる。嬉しいやないかい。
「私も、薄野さんの今後を応援してます! 大変でしょうけど、頑張ってくださいね!」
「はい……本当に、ありがとうございました」
薄野さんは、我々に向け深く頭を下げた。
午後四時十五分。
薄野さんは涙が落ち着くまでここで休憩したあと、結論を報告するため経営企画部に戻っていった。
きっと、これでよかったのだ。
少なくとも今後、薄野さんが嫌がらせに悩むことはなくなるのだろう。
ソファにもたれ、両腕を天井に伸ばす。
あれ? でも、これで『終わり』でいいんだっけ……?
「鴻さん、気が抜けちゃった?」
隣で、コーヒーを啜りながら朔夜氏。
「忘れないで、君は書記。議事録の提出は今日中だよ」
「わかってます~! と言っても、六時の終業まであと約二時間ありますからね。今から整えれば、なんとかなりますよ!」
朔夜氏が眉根を寄せた。
「面談、あと一人分あるけど」
「え?」
室内にノック音が響いた。
「ほら来た」
「失礼します!」
ハキハキと、元気のいい男性が入ってきた。
年齢はおよそ三十代前半。短く刈られた黒髪、日に焼けた肌に白い歯、大きな黒縁眼鏡。白い半袖シャツにネイビーのスラックス、そしてネクタイをきちんと締めた、フォーマル寄り社会人だ。右手には畳んだハンカチを持っていて、緊張しているらしく、しきりに額の汗を拭っている。
「経営企画部、米川です!」
「財務管理部、黒繰朔夜です。どうぞ、座って」
「恐縮です!」
向かいのソファに腰を下ろした米川さんに向かって「書記を務めます、部長付アシスタント、鴻です」と軽く頭を下げる。米川さんも「どうも」と軽く頭を下げ返した。
さて、場には気まずい沈黙が満ちた。
今回も朔夜氏がコーヒーを振る舞うのだろうか、などと呑気に考えていた私は、目の前の米川さんに対し一言も話題を切り出さないボスに面食らって二度見した。
場の主導権を掌握する朔夜氏は、無言で。微動だにせず。なんの感情も映さない黒い瞳は米川さんを射貫くように見つめているだけ。声を発する気配は微塵もない。
最初は緊張感を持って朔夜氏と見つめ合っていた米川さんも、次第に、不安そうに目を泳がせた。
「……あの?」
米川さんから問われても、朔夜氏は反応しない。
どうしていいかわからない様子で、米川さんは私を見た。バッチリと目が合ってしまう。もしや、私がコーヒーを淹れるべきか? 私は視線を彷徨わせ「な、なにか飲みます?」と立ち上がろうとした。
「動かないで、鴻さん。君の仕事はお茶汲みじゃない。書記だ」
条件反射で硬直し、ゆっくりと、巻き戻すようにソファに座り直す。
「あの、今日は、なんのお話で……?」
米川さんがごくごく不安そうに尋ねる。
朔夜氏はようやく動いた。身体を前傾させ、膝の上で両手を組む。
「米川さん。俺は本件に関して、調査だけでなく裁量権をも持っています。具体的には、社員を処罰する権限を持ちます。このことは高角経営企画部長からも承認を得ています」
「は、はあ。わかりました」
米川さんは背筋をピンと伸ばして同じく前傾姿勢を取った。
「なんでも聞いてください」
「聞き取りは必要ありません、米川さん。今から話すのはあなたの処遇についてです」
「は? え?」
混乱する米川さん。私も同じ気持ちだった。聞き取りもせず、処遇の話?
なんだ、なにが起きている?
「一週間の謹慎処分を命じます」
淡々と、朔夜氏が裁定を下す。
「一週間かけて、自分の行いについての反省を命じます。自分が一体なにをしたのか、どうしてそんなことをしたのか、今後、どういった行動を取っていきたいのか。報告書としてまとめて、二週間後の月曜日、朝一で俺に提出してください」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
米川さんが立ち上がる。
「意味が、よく……どうして」
朔夜氏は、隣で呆けている私を手で示した。
「彼女は鴻さん。書記を務めています。この場で話し合われたすべてを議事録としてまとめてくれます」
朔夜氏は米川さんに向け、獰猛に笑いかけた。
「どうして謹慎を言い渡されたのか、理由が聞きたいですか?」
「待っ! 待ってください! わかりました!」
冷や汗を滝のように流しながら、米川さんは言った。
「おっしゃるとおりに、いたします」
「では、面談は以上です。今日はもう、何もせず帰って構いません。再来週の月曜、朝一でここに来てください。お待ちしています」
「はい、どうも……失礼しました」
米川さんは深く頭を下げ、逃げるように、部長室から出ていった。




