1-7・どうでもいい愚痴が八割(カット済み)
午後二時半。
「随分と楽しそうですね」
そう言って、伯耆原女史は向かいのソファに無断で座った。
先程のやりとりを聞かれてしまったらしい。
「いや、あの」
咄嗟に言い訳しようと両手を浮かせた私を、朔夜氏が片手で制する。
「鴻さんは書記をお願い。聞き取りは俺がやる」
一瞬の逡巡。
「……承知しました」
指示に従い、パソコンの前に座り直す。
この部屋では朔夜氏こそルール。いくら気安い軽口を叩いても怒らない上司だが、業務に関しては別だ。仕事に手を抜く人間を、彼は決して信用しないだろう。
「約束どおり、来てもらって嬉しいです、伯耆原さん。何か飲みますか?」
「……では、コーヒーを。ブラックで構いません」
「わかりました」
朔夜氏はそのまま席を立ち、紙コップに伯耆原女史のコーヒーを淹れ始める。
朔夜氏が背中を向けた途端、伯耆原女史の表情が明らかに軟化した。赤い両頬に手を沿え、熱っぽく朔夜氏を見つめている。が、私の視線に気付くと、再び険しく睨みつけた。慌ててパソコンの影に身を竦める。
コーヒーを持った朔夜氏が近付くと、伯耆原女史は「ありがとうございます」と手を伸ばした。が、朔夜氏は直接渡さずテーブルに置く。
「さて、伯耆原さん。率直に、薄野さんの評価を教えてください」
朔夜氏がソファに腰掛ける。伯耆原女史は「ハァ……」と大袈裟にため息をついた。
「薄野さんには、正直、ほとほと困っています」
そうして女史は、薄野さんがいかに社会人失格か、どんなミスをしたか、それをいかに苦々しく思っているかを語り出した。
文字に起こしながら、あまりの下らなさ、どうでもよさに、だんだんとイライラしてくる。
一番悔しかったのは、その語り口に『悪いのは薄野さん』『自分はむしろ被害者である』という意識が透けて見えることだった。
一通り語り終えると、伯耆原女史は「まったく……わかってくださいますか?」とコーヒーを啜った。
「ははっ」
不意に朔夜氏が笑った。
「よくわかりました。大変そうですね」
「本当に! 本当に……大変なんです、チーム・コメットは」
伯耆原女史がチームの今後について憂うのをタイプしながら、朔夜氏を横目で見る。
今の不意の笑い声……嘲笑、か?
「ときに、伯耆原さん」
朔夜氏が話題の舵を切る。
「薄野さんに嫌がらせしてます?」
「は?」
「中傷文句を書いた紙を、彼女の机の上に置いたか聞いています」
「そんなこと……誰が? ワタシが?」
伯耆原女史は笑い出した。
「そんなことしません! どうして、わざわざ! 薄野さんが、そう言ったんですか?」
「はい」
「だとしたら、虚言です! ワタシを困らせようとしているんです!」
「つまり、あなたは犯人ではない?」
「当然! 大体、中傷だなんて! ワタシはただ、薄野さんに直してほしい部分を指摘してるだけです! 中傷なんかじゃありません!」
開き直りか? やりとりを打ち込みながら考える。
それとも、今回の事件について、伯耆原女史はなにも知らない……?
「ありがとうございます。次の話題にいきましょう」
詳しい追及はせず、朔夜氏は話題を切り替える。
「ほかのメンバーについても教えてください。まず、長尾さんについて。どう思います?」
伯耆原女史はため息をついた。
「長尾くんのことは、薄野さんに一任しています。その上で意見させてもらいますと、てんで駄目です」
「どうしてですか?」
「ずーっとスマホで遊んでるんですよ、あの人。薄野さんもちゃんと注意できてないみたいで。二人ともチーム・コメットのお荷物です」
「あなたからは注意しないんですか?」
「してます! でも、駄目。長尾くんについては、もう諦めてます」
見限られている……。
気持ちはわかる。が、長尾さんに関しては、先程希望が芽生えたところだ。今後の働きに期待したい。
「では、米川さんについては?」
「彼はよくやってくれています! チーム・コメットの良心です!」
これまでと一転、急に機嫌が良くなる伯耆原女史。
「仕事もできるし、気も利くし! なにより明るく、元気がいい! 米川くんがいるだけで場が華やぎます!」
「チームメンバーとも仲がいい?」
「そうですね、でも、一番打ち解けているのはワタシだと思います!」
「長尾さんとは?」
「まあ……そうですね。長尾くんにとって一番話せるチームメンバーは、米川くんでしょう。同性ですし」
朔夜氏は少しだけ目を細めた。
「薄野さんとは?」
伯耆原女史は、ため息とともに大きく肩を落とした。
「そうですね、まあ、米川くんからよく声をかけています。私の前では厳しい態度を取っているようですけれど、薄野さん、裏で色目でも使っているんじゃないかしら。そうとしか考えられない」
「どうしてそう思うんですか?」
「仕事帰り、駅まで送ろうかと、米川さんが提案している場面を見てしまったんです。ワタシには、そんなこと言ってくれたこともないのに」
「薄野さんは、なんて?」
「断ってましたよ。まあ、ワタシの存在に気付いていたからでしょうけど。当然です! 職場の仲間と、プライベートでも仲良くするなんて。不純です」
朔夜氏は「よくわかりました」と頷いた。
「今日はありがとうございました。もう戻ってもらって構いません」
見送るためだろう、朔夜氏が立ち上がる。
「ええ? もうよろしいんですか?」
名残惜しいのか、立ち上がる気配のない伯耆原女史。
「まだ、もっと話せます。それとも、ワタシから質問しても? 朔夜部長って、社内でもかなりミステリアスというか……」
「いえ、もう大丈夫です。戻ってもらって構いません」
朔夜氏は出入り口まで歩いていって、扉を開けた。
女史はあからさまにムッとした様子で
「そうですか。では、失礼します」
と刺々しく言い、ソファから立った。
部屋を出ていくすれ違いざま、朔夜氏が声をかける。
「コーヒー、どうでした?」
「ええ、美味しかったです」
「ちなみに、毒が入っているとは思いませんでしたか?」
「……ハ?」
部屋を出てすぐ振り向いた女史の姿は、即座に遮られた。朔夜氏が扉を閉めたのだ。そして鍵をかける。
「ちょっ……ちょっと!? 朔夜部長!? どういうことです!?」
扉のノブがガチャガチャ回され、強いノック音が響く。
が、朔夜氏はすでにデスクへ舞い戻り、受話器を取って内線をかけていた。
「もしもし、警備室? 財務管理部の黒繰朔夜です。部長室前で女性社員が暴れているようなんですが、ヘルプ頼めますか? ええ、いつもすみません」
マジかコイツ。
手短で慣れたやりとりのあと、受話器を置いた朔夜氏は私に微笑みかけた。
「確認だけど、鴻さん。警備の人に毒がどうのと訊かれたら、なんて答える?」
無抵抗を示すため、両手を挙げて答える。
「私のコーヒーに入っていたことはありません、マイマスター」
「よろしい」
やがて、警備の人間が来たのだろう。部長室前にはもとの静けさが戻った。
「手慣れていますね」
「実は、社内には俺の非公式ファンクラブがあるんだ。知ってた?」
「存じ上げています」
私は得意げに笑うと、お菓子をひとつ手に取った。
「絶縁状を叩きつけてやりましたよ。写真も返還済みです。私が件のファンクラブと通じることは決してありません。ご安心を」
朔夜氏はお菓子を頬張る私をじっと見つめた。
やがて右手で口元を押さえ、俯き、肩を震わせ始める。
おっと、流石に感動で泣いちゃったか~?
「どうです、五人目の秘書は? 頼もしいでしょう?」
などと勝ち誇っていると、朔夜氏は「く、くく、ふふふ――」と声を漏らし始める。
……もしかして、笑ってる?
「鴻さん……買ってたんだ、俺の写真……」
おおーーーっと!
急激に顔が熱い! なんてことだ! 私は、弩級の失言を!
朔夜氏は笑みを抑えきれないまま「鴻さん、実は、俺の顔好き?」と言って、手をどけて顔を見せてくる。初めて見る、心からの笑顔。楽しそうで、嬉しそうな、少年の如き無邪気な笑み。ただし、からかい百パーセント。
「う、うるせー! 朔夜氏の顔を嫌いな女は少数派じゃい!」
この反論で耐え切れなくなったらしく、その場にうずくまってしまう。
大きくはないが、抑えた、確かな笑い声が聞こえてくる。たまに咳き込んでもいる。
我慢する必要はない。もう十分馬鹿にされているのだから、私の羞恥心など気にせず、大声で笑えばいいのだ。コンチクショウ。
笑い声を我慢する朔夜氏を背景に、私は目の前のお菓子をヤケ食いした。テーブルはあっという間に更地と化した。
結局、一つも食べなかったな、朔夜氏。
なんて思っていると、復帰したらしい氏がこちらに戻って来る。
「あー、久しぶりにこんなに笑った」
隣に座りながら、右手で目元を拭う。
「《《当たり》》だ、鴻さん。五人目にして、俺はようやく君という《《当たり》》を引いた」
「ふふん……恐縮です」
私は再度、勝ち誇る。
ついに朔夜氏に認められた、初めての秘書となったのだ。
見てるか非公式ファンクラブ。与えられた仕事を真面目にこなしたほうが、朔夜氏からの好感度は高いぞ。
「可能な限りずっと秘書をしてほしい。引き抜きの話が来たら教えて。より好条件で君を引き留める」
しかも、滅茶苦茶気に入られてる!?
誇らしさよりも気恥ずかしさが勝ってしまい、急に落ち着きを失くしてしまう。
へへ……と笑って、鼻の下をこする。おいおい朔夜氏……おいおい……へへへ……。
「ねえ、鴻さん」
朔夜氏が、私に向け身を乗り出した。驚いて身を引く。朔夜氏の右腕がソファの背もたれを掴み、なおも近付く。ソファのひじ掛けに手をつく。朔夜氏が、私の瞳を覗き込む。距離が近い。逃げ切れないほどに。
なにかがおかしい。
「君にお願いがある」
心臓が警鐘を鳴らす。トキメキではない。これは――
朔夜氏が微笑む。
「絶対に俺を裏切らないで。もし裏切れば君を地獄の果てまで追い詰めて破滅させる。わかった?」
美しい、絶対零度の微笑み。
声が出ない。鼓動がうるさい。トキメキでは断じてない。
これは、恐怖。
もし裏切ったら、この男は必ず私を破滅させる。手段は選ばない。
もう、逃げられない。
なんとか、首を縦に振る。首の骨が錆びついてしまったみたいに、ぎこちなく頷く。
「ありがとう。末永くよろしくね」
氷で作られたような冷たい感謝だった。
話が終わったのか、朔夜氏は身を引いて立ち上がった。そのまま背を向け、デスクへと向かう。
後ろに倒れ過ぎた身体を起こす。ソファに手をつき、胸を押さえて鼓動を落ち着けようとする。浅い呼吸を、無理矢理鎮める。
しまった。これは、相当まずい。私は間違えたのだ。
この男に認められてはいけなかった。気に入られては。もう。
落ち着け! 駄目だ、呑まれるな!
私の仕事は彼のご機嫌取りではない。もちろん、仕事はちゃんとする。堅実で誠実な仕事だ。しかし、過度に媚びへつらう必要はない。最初からそう思ってここに来たではないか! 脅されたとして、恐れたからとて、自分の信念を曲げたくない。
私は、仕事をするためここにいる。
「もしもし、高角部長。準備はできたでしょうか?」
朔夜氏の話し声が遠く聞こえた。それだけで、反射的に肩が跳ねた。
「では、そろそろ呼び出したいのですが……ええ、すぐ済みます。よろしくお願いします」
受話器が置かれる。朔夜氏が戻ってくる。
「どうしたの?」
ソファに崩れる私へ、不思議そうに尋ねてくる。
深呼吸。吸って、吐いて。
顔を上げる。
「……あなたのご機嫌取りは、私の仕事ではありません」
宣言する。
朔夜氏は微笑む。
「それでいいよ。ただ、俺を裏切るような真似はしないで。常に俺を助けて。失望させないで。この仕事を辞めないで」
「お言葉ですが」
無理矢理にでも言葉をねじ込む。
「恐怖による支配は、コスパが悪いです」
きょとん、と朔夜氏。
「圧力には屈しません。恐怖政治を続けるおつもりなら、私は、職を辞します」
恐ろしいまでの、静寂。
朔夜氏がゆっくりと瞬きする。二度、三度。
「怖かった? 俺が?」
確認するような声色だった。
私は頷く。
「そう……」
彼は寂しそうに目を半分伏せた。
「ごめんね。今度からは気を付ける」
だから辞めないで。そう言っている気がした。
息を長く吐き、自力で身体を起こす。
「反省してるなら、もういいです」
「君には本当に期待してるんだ」
朔夜氏は静かなトーンで言った。
「でも、その期待が重かったんだよね、きっと」
一往復分の深呼吸をしてから、きっぱりと告げた。
「あなたのさっきの言動は期待じゃない。圧力です」
朔夜氏は黙った。
口元に手をやり、なにか考える。
やがて言った。
「その二つは、どう違うの?」
目の前が《《ぐわん》》と揺れた。
思わず、また胸を掴む。息が詰まって肺が痛んだ。
同じなのだ。期待と圧力は。朔夜氏にとって。
悔しい。
直感的にそう感じた。が、すぐに違うと気付く。
途端、私を見下ろす朔夜氏の心配そうな表情が目に映った。
私は――悲しいのか。
朔夜氏の優しさ、素直さ、真面目さは恐らく生来のものだろう。
だからこそ、後付けの怪物性がこんなに苦しい。
そのとき、誰かが扉をノックした。
「おっと、来たみたいだ」
朔夜氏が扉に歩み寄り、鍵を開ける。
「失礼します」
入ってきたのは意外な人物――すでに面談は終わったと思い込んでいた――薄野さんだった。




