1-6・恐怖! 常在スマホ男
午後一時半。
最初にやって来たのは、長い黒髪を一つに束ねた三十代中盤男性だった。青いストライプ柄の半袖シャツに、ダークネイビーのスラックス、緩んだネクタイ。右手にはスマホを握っている。
「失礼しまーす。経営企画部、長尾です」
朔夜氏が自分のデスクから立ち上がる。
「財務管理部、黒繰朔夜です。さ、座って」
促され、来客用複数人掛けソファの真ん中に座る長尾さん。スマホはテーブルに置かず、持ったままだ。
朔夜氏も来客用ソファの対面、真ん中に腰を下ろす。こちら側のソファの端こそ私の簡易デスクスペースであり、定位置でもある。どうやら隣り合って書記することになるらしい。
「書記を務めます、部長付アシスタント、鴻です」
パソコンの画面は開いたまま、長尾さんに軽く会釈する。
「で? なんのご用件で?」
長尾さんが私と朔夜氏を見比べた。私はパソコンに向き直り、彼らの言葉を文字起こしし始める。
「経営企画部の内情について、聞かせてもらおうと思って。君の所属チームは、たしか……」
「コメットです。チーム・コメット。ダセェ名前ッスよね」
朔夜氏は少しだけ微笑む。
「君は、気に入ってない?」
「まあね。米川サンとはたまに話合うんスけど、基本テンション高くてうるさいし、伯耆原サンは存在がウザいし……薄野サンも細かい注意ばっかで、しつこい。もっと輝ける職場が欲しいッス」
朔夜氏は微笑んだまま「なるほど」と頷いた。
「これって監査ッスか?」
長尾さんが身を乗り出す。
「内通者にはボーナス出たりします?」
「通報内容によるかな」
「あー、でもザンネン。ウチのチーム、仕事はそこそこ真面目なんで着服してそうなキャラ皆無なんスよね」
ソファに倒れ込み、残念そうに天を仰ぐ。
「着服以外の通報でも大丈夫だよ。たとえば、チーム内の人間関係、プライベートでの交際相手とか」
「伯耆原サンは旦那さんいるみたいなんですけど、冷え切ってんでしょうね~、米川サンにデレデレッス。それから、薄野サンも彼氏いるって言ってましたよ。流石に社外だと思いますが。米川サンは……」
ここで、長尾さんはくくっと喉を鳴らして嗤った。
「米川サン、ショージキ薄野サンのこと狙ってるでしょ。露骨すぎます」
朔夜氏は微笑みを崩さず「そうなんだ」と言った。
「ちなみにオレは絶賛彼女募集中ですね。朔夜部長、誰か紹介してもらえないスか? このとおり!」
ガバ! と頭を下げる長尾さん。
よく入れたな、ウチに。
私から長尾さんへの率直な印象である。
下げられた頭を完全に無視して、朔夜氏は続ける。
「チーム内での不和やトラブルについて聞きたいな」
長尾さんが顔を上げる。
「それって、伯耆原サンと薄野サンのことでしょ。ハハ、あの二人相性最悪ッスよ! 薄野サンって結構アイデアマンっぽいんスけど、伯耆原サンが圧かけるから最近では全然。オレの教育でも忙しそうだし、ありゃもうダメです。そのうち辞めますよ~、賭けてもいいです」
「なにを賭ける? 君が勝ったら、女性を紹介しよう」
突然のことに、私も長尾さんもギョッとして身を竦めた。
「は? え? マジで言ってる?」
「マジだよ。なにを賭ける?」
長尾さんは真剣な顔で考え込んだ。
「……タバコ1カートン?」
「いらない。もっと欲しいものがある」
「オレ、朔夜部長が欲しがるようなモン持ってないッスよ」
「そのスマホをちょうだい」
長尾さんが固まった。
「え……? いや……」
「ずっと持ってるよね。大事なものなんでしょ?」
「ち、違うんスよ! これ、常に会話を録音してて……」
思わず「録音!?」と大声が出る。
長尾さんは私に向かって「ですです」と頷いた。
「知らないスか? 最近、時代はやっぱAIなんスよ。普段の俺の思考、言動や会話の全部を録音して食わせると、AIが俺の脳の形に育つんです。だから、流石にスマホは賭けられないッスわ。AI育成中なんで」
聞いたこともない持論をスラスラと語る長尾さん。何を言ってるのか全然わからない。
顔を引きつらせて朔夜氏を盗み見る。どれだけ無茶を言っても全然怒らない人だが、長尾さんのこの態度には、流石に思うところがあるはずだ。
しかし朔夜氏は。
激怒するどころか、その笑みを深く、本当に楽しそうに長尾さんを眺めていた。
見ていて背筋が冷たく凍る、そんな笑顔だった。
「そうなんだ。ますます欲しくなっちゃうな、君のスマホ」
「だからダメですって! いくら課金してると思ってんスか!」
「女性を紹介するだけじゃ釣り合わないよね。じゃあ、女性と遊べる場所の提供と、遊興費もつけよう」
朔夜氏は「紙とペンをちょうだい」と私に指示した。
急いでペンと、何の変哲もないコピー用紙を用意する。
「期限は一ヶ月。一ヶ月以内に薄野さんが会社を辞めたら、俺は君に女性と高級クラブを紹介し、遊興費として百万円支給する」
「ひゃっ!?」
長尾さんが声を裏返しながら立ち上がった。
「一ヶ月たっても薄野さんが辞めていなければ、君はそのスマホを俺に渡す。その際、初期化することは禁じる。使っているそのままを渡して。パスコードやフェイスIDだけ外しておいてね」
「は!? ちょ、ちょっと待て! そんなもんオレの個人情報が……」
「君の個人情報には興味ない。俺が欲しいのは、君のAIにアクセスできる端末だ」
「え? え? え?」
立ち上がったまま狼狽える長尾さんに、朔夜氏は容赦なく笑いかける。
「君の脳の形をしたAIがあれば、君という人間は、もう必要ない。さあ、契約書が書けたよ。サインして」
長尾さんは後ずさろうとして、ソファに足を取られ、どさりと座り込む。
「な、なんッ」
「もう一度だけ言うね。サインして」
朔夜氏が、ペンを長尾さんのほうに向けて置いた。
「ふ……ふざけんな! できねーって言ってんだろッ!」
長尾さんが震える声で怒鳴る。
途端、朔夜氏の表情から笑みが消えた。
「わかった。じゃあ今回は君のスマホは諦める。代わりに忠告してあげよう」
冷たい無表情が真っ直ぐに長尾さんを見据えている。
「二度と職場にスマホを持ってこないことだ。もし次に会ったとき、まだ君がスマホを持っていたら、俺はきっと問答無用で取り上げる。高角部長に懲戒解雇を進言し、君の給与という名のコストを削減する。君がやるはずだった業務のすべては、君のAIにやってもらう。わかった?」
長尾さんの手からスマホが滑り落ちた。
真っ青な顔は朔夜氏に釘付けになっている。
「返事は?」
「ッ! は、はいッ! わかりましたッ! おっしゃるとおりにッ!」
長尾さんは背筋を正し、スマホをスラックスの尻ポケットにしまった。
「じゃあ、質疑応答を続けてもいいかな?」
「はいッ、もちろんッ」
以降、朔夜氏に笑顔が戻ることはなく、聞き取りは淡々と、スムーズに進んだ。
長尾さんから聞き取った情報は以下の通りだ。
・薄野さんへの嫌がらせの話は知らなかった。聞いたこともない。自分は犯人ではない。
・犯人はどうせ伯耆原さんだと思う。それだけ、二人は仲が悪い。
「面談は以上だよ。内容については他言無用。誰にも言わないで」
「……承知いたしました。では、失礼します……」
長尾さんは大人しく頭を下げ、帰っていった。
朔夜氏は軽く伸びをして「コーヒー淹れようかな」と立ち上がる。
「君も飲む?」
「え!? 淹れていただけるってことですか!?」
「ついでだからね。砂糖は二個、ミルク入りでよかったよね?」
「はい! お願いします! ついでにお菓子も持ってきてください!」
朔夜氏はびっくりしたように私を見た。
「強欲。いや、暴食か。お菓子までは持ち切れないよ」
「往復してくださいよ! 朔夜部長も食べていいですから!」
「傲慢。怠惰。ちょっとだけ憤怒。一人で全部コンプリートしそうだ」
朔夜氏は短い距離を往復して、いくつかお菓子を持ってきてくれた。
早速一つを手に取って、口に放り込む。
そんな私を、朔夜氏はしばし興味深そうに眺めていた。
「ちなみに、賭けのくだりどうします? 全部載せるとマズくないですか?」
「俺の方で改竄しておくから、君はあったことそのまま書いていいよ」
「……了解でーす」
一部単語は聞かなかったことにしよう。
「これは余談だけど、実は長尾さんって縁故採用なんだよね」
コーヒーを淹れるため、朔夜氏がソファのそばから離れていく。
「縁故じゃなかったら即刻懲戒解雇を進言してたけど、縁故だからこそ、あの態度の悪さなんだよね、きっと」
なるほど、そういう事情があったのか。
「まあ、俺もほぼ縁故採用みたいなものだから、他人のこと言えないけど」
「え? 朔夜部長の地位は実力では?」
朔夜氏は私の前にマグカップを置いて、自分の分を淹れるためだろう、再度離れていく。
「俺の場合、そもそも自分を売り込む機会自体が縁故でしょ。一般人が同じプレゼンをしても、この地位は得られないよ」
それはそうかもしれないが……釈然としない。
縁故に頼り切って努力を放棄した長尾さんと、縁故を利用して努力し続ける朔夜氏。きっかけは同じとしても、同列に語るのは明らかに過小評価だ。
「あのですね~……」
何を言おうか考えながらマグカップを手に取り、一口啜る。
「お、ンマい」
「よく飲めるね」
「どういう意味ですか!?」
感謝の気持ちが足りないことへの皮肉か!?
たしかに、コーヒーを受け取って第一声が「ンマい」は不敬だったかもしれないけど!
朔夜氏は自分のコーヒーを手に、隣に座り直した。
「もしかしたら毒が入ってるかもしれないのに」
思わず手元のカップに目を落とす。
「毒を入れたんですか?」
「入れてない」
なんだコイツ。私をからかっているのか?
厳しく睨みつけると、朔夜氏は言葉を足した。
「俺が淹れたコーヒーを警戒もせず飲んだから。図太いなと思って」
すぐには反論せず、朔夜氏の言葉の意味を考える。
私は朔夜氏の淹れたコーヒーを無警戒に飲んだ。
朔夜氏はそれを図太いと評価した。
いや――驚いた、のか。
朔夜氏にとって他人の淹れたコーヒーは『毒が入っているかもしれない』警戒対象だから。
もう一口分、コーヒーを啜る。普通に美味しい。毒が入っている様子はない。
「いや、コスト重すぎる!」
私は叫んだ。
「他人の淹れたコーヒーすべてに対して『毒が入っているかも』の仮定はランニングコストが高すぎます! やめましょう! 今すぐ!」
「必要経費だよ。それに、自分で淹れれば問題ない」
「かーッ! 偏屈上司め!」
私はその場に立ち上がり、左手を腰に、右手のカップを煽った。
「えっ? あの、鴻さん?」
困惑する朔夜氏を無視して、淹れてもらったコーヒーを一気に飲み干す。
そして空になったカップをローテーブルに乱暴に置き、勢いのままソファに座り直した。
朔夜氏は口を半分開けたまま私とカップを交互に見た。
「ど、どうして? 毒が入ってない確証はない。あるいは、俺が嘘をついているかも」
左手が宙に浮き、声に迷いと焦りが滲んでいる。狼狽とは珍しい。
私はクソデカため息をついた。
「私がどうしてコーヒーを一気できたか、考えてみてください。新しい宿題です」
虚をつかれた朔夜氏はしばらく固まっていたが、やがて言った。
「君が愚かだから」
「違う! 再提出!」
「迂闊だから。蛮勇だから。見栄っ張りだから」
「豊富な罵倒語彙! 全部違います!」
「いや、俺が見る限り、君はかなり迂闊だ」
「ただの罵倒になってますけど!?」
ここで、部屋の外から神経質なノック音が響いた。
ぎくりと硬直する私。
即座に切り替えて、外面のいい綺麗な微笑みを浮かべる朔夜氏。
「どうぞ、入ってください」
「失礼します」
次の面談者――伯耆原女史は眉根を寄せた険しい表情で私を睨みつけていた。




