1-9・事件の終わり、陰謀の始まり
午後四時半。
「さて」
朔夜氏がソファから立ち上がる。
「俺も報告書を書くことにするよ。議事録、完成したら教えて」
「ちょっと待てェい!」
私は見えないボタンを強く叩いて朔夜氏にツッコミ入れた。
「説明してください! どういうことですか!?」
腕時計を確認して「今から説明を始めると、君はたぶん、残業することになる」と冷徹に告げる朔夜氏。
「だとしても! たとえ残業するとしても! 真相を聞かなきゃ夜も眠れませんよ!」
「そう。何時まで残業できる?」
人の心とかないんか?
私は壁に掛けられた時計を見やった。
「……七時、とか」
「もう一声」
だから値切るなってば!
「……七時半! これが限界です!」
朔夜氏は「ふむ」と呟いて顎を撫でる。
「近くにうなぎ屋さんがあるの知ってる? 残業するなら出前を取ろうか」
「ウオオオオ! 九時まで行けますッ!」
朔夜氏は満足そうに微笑んで、ソファに座り直した。
「さっき預けた資料、もう一度出して」
薄野さんから受け取った、二枚のクリアファイルを取り出す。
朔夜氏はまず中傷文書を手渡してきた。
「印刷面、右上の端。ちょっとした汚れがついてるのがわかる?」
私は文書に顔を近付ける。たしかに、ちょっとした黒い汚れが印刷されている。二枚目にも、三枚目にも……五枚すべてに。
「プリンターの内部部品、たとえば給紙ローラー自体に汚れがついているんだろう。すべての中傷文書に同じ汚れがついていることから、これらは、すべて同じプリンターで印刷されたことがわかる」
続いて、①②の付箋が貼られたごく普通の仕事書類を取り出す。
「右上の端を確認して」
言われて、気付く。①の書類にそのような汚れはないのに、②には、中傷文書と同じ汚れがある。
「これって……!」
「そう、②の書類と中傷文書は同じプリンターで印刷されている」
間髪入れず、あの地図を渡される。経営企画部の席順と、①②のコピー機が……。
「あ!」
②のコピー機のそばに、見知った名前。米川、伯耆原、長尾、そして薄野。
そして②に一番近いのは……
「……ギリ、米川さんが近い、かな?」
「結論を出すのが早い。現時点でわかるのは、薄野さんへの中傷文書は経営企画部のコピー機②で印刷されたこと。そしてコピー機②の一番近くに座っているのが、チーム・コメットということだけ」
資料を元のとおりにしまいながら、朔夜氏は説明を続ける。
「では、コピー機②に一番近くて、なおかつ動機のありそうなチーム・コメットのメンバーを一人ずつ順番に見ていこう」
「お願いします」
「まず、長尾さん。彼には動機がない。というか、そもそも薄野さんへの関心が薄い。嫌がらせをするメリットがない」
長尾さんの顔を思い浮かべ、頷く。彼はチームの誰にも特別な関心を払っていない。自分の脳の形をしたAIの育成に夢中だった。
「次に、伯耆原さん。薄野さんは一番怪しんでいたけど……俺は違うと思っていた」
「なぜですか?」
「伯耆原さんは不満を感じたとき、すぐ言葉にして薄野さんにぶつけている様子だった。匿名性を保った形で中傷する必要が、そもそもない。直接言えばいい」
盲点だった。たしかに、中傷は匿名で行われている。
「なにより、伯耆原さんは他者からの悪意に鈍感すぎる。後ろめたいことをやっていると思ってない。罪悪感がないんだ。だから『コーヒーに毒を入れられるかも』転じて『仕返しされるかも』という警戒すらしない。一方、匿名の中傷犯には『バレるとマズいことをしている』自覚がある。たとえば……証言が議事録として残ることを恐れ、理由も聞かずに処分を受け入れたり、ね」
私は唾を飲み込んだ。
「つまり、犯人は――」
「十中八九、米川さんだ。チームメンバーへの聞き取り内容を覚えてる? 彼は薄野さんに、帰り道に駅まで送ろうと提案して、断られている。そして長尾さんの見立てでは、薄野さんに好意を抱いている」
「でも、それだけじゃ……」
「それだけじゃない。薄野さんはチーム内で唯一、米川さんに今回の嫌がらせについて相談している。が」
朔夜氏は鋭く目を細める。
「《《高角経営企画部長は》》、《《今回の事件をそもそも把握していなかった》》。薄野さんは米川さんに相談した。でもその米川さんは、高角部長に報告を上げていなかった。薄野さんの相談を握り潰した。大事にしたくなかった」
「なぜなら、米川さんこそ犯人だから……?」
だとしたら朔夜氏は《《最初から》》米川さんを疑っていたことになる。高角部長と話をしたのは、食堂で薄野さんの相談を聞いた直後だけだからだ。
頭をフル回転させ、反論を捻り出す。
「部長に報告するほどの事案じゃないと思った、とかじゃなくて……?」
「だとしたら無能の証明だ。謹慎一週間だけじゃとても足りない。チームリーダーからも降格させないと」
犯人じゃなかった場合のほうが処分が重いのはおかしいだろ。
「でも、動機は? それに、流石に自分にまで相談が来たら、これ以上はマズいと思って中傷を止めるんじゃないですか?」
朔夜氏が私に微笑みかける。
「自分に相談させること、それ自体が動機だったとしたら?」
「え……?」
朔夜氏はコーヒーを一口飲んで「一番上手くいった場合について考えてみよう」と提案する。
「嫌がらせに困った薄野さんが米川さんに相談する。米川さんは帰り道、駅まで送ることを提案する。薄野さんは快諾、二人は一緒に帰って仲を深める。やがて嫌がらせが止む。薄野さんは、米川さんのおかげだと感謝する。薄野さんもまた、米川さんに好意を寄せる……」
「ちょーっと待った! うまく行き過ぎです! 現実には、薄野さんには恋人がいらっしゃるのでは!?」
朔夜氏が「そのとおり」と頷く。
「現実には、すでに恋人のいる薄野さんが米川さんになびくことはなく、むしろ相談という行動自体を後悔している。米川さんは失敗した。だから、嫌がらせは止むことなく継続した」
「思いどおりの結果になるまで中傷してやろうって? 性根が腐ってますよ!」
「あるいは、米川さんの動機はすでに反転しているんだ」
朔夜氏が手のひらをくるりと返した。
「ここまでお膳立てしてやったのに、思いどおりにならないなんて。俺のプライドはズタズタだ。そうだ、この女に復讐してやろう」
背筋にゾッと悪寒が走る。
加害者による復讐だって?
「そんな……身勝手な! そもそも米川さんが始めたことでしょう!?」
「そうだね。でも鴻さん。困ったことに証拠がない」
「あるでしょ! コピー機の汚れとか、相談を握り潰してたりとか!」
「すべて状況証拠だ。物的、あるいは決定的な証拠じゃない」
悔しさに奥歯を噛む。
なんてことだ。決定的な証拠がなければ、米川さんを追及し切れない!
「だから俺は、さっきの面談で鎌をかけた」
一瞬、理解が遅れた。
「彼はまんまと引っかかった。あの反応、まず間違いなく犯人だ。米川さんが謹慎する一週間、薄野さんに嫌がらせ被害が発生しなければ、より強い補強材料となるだろう。そして再来週の月曜、朝一。口を開けて待っていれば、彼は勝手に自白文書を持ってくる。これ以上ない決定的証拠をね」
私は、あんぐりと口を開けて固まった。
じゃあ、あれはハッタリだったのか。ここに呼ばれた理由を語らず、思い至らせることで、犯人であると逆説的に認めさせた。そして、自白文書の提出を約束させる。
「す、すごい……完全犯罪だ」
「犯罪ではないでしょ」
それはそうだが、やっていることはほぼモリアーティ教授である。
「いや、待てよ……それじゃあ朔夜部長、今日残業する必要なくないですか? 報告書が完成するのは、自白文書が提出される再来週の月曜朝以降ですよね?」
何時まで残業できるか聞かれたので、てっきり一緒に残って報告書を書き上げるのだと思っていた。
しかし来週月曜まで未完成確定なら、無理に残業しなくていい。
そう思っての発言だったが、朔夜氏は、なぜかここに来て「ん……?」と急に理解力を低下させた。
「だから、高角部長への報告書は、自白文書を添付することで完成するじゃないですか」
朔夜氏は沈黙した。不自然なほどに。
「朔夜部長?」
尋ねると、朔夜氏は目を逸らして何か考え、咳払いを一つした。
「あのね、鴻さん。ここからの話は誰にも内緒にしてほしいんだけど」
「勿体ぶりますね」
「絶対に誰にも言わないと誓ってほしいんだけど」
怖……。
顔が引きつるのを感じながら「わ……かりました」と頷く。
ここで引き下がれるほど、私の好奇心は従順じゃない。
朔夜氏は「よし、約束ね」と念押ししてから、なんてことないように告げた。
「今回の件、米川さんが犯人だったという事実は隠蔽しようと思ってる」
自分の喉がひゅ、と鳴った。
「高角部長には、調査の結果、犯人はわからなかったと報告する。ただ、チームリーダーの米川さんにだけは、高角部長への報告を怠った処罰として一週間の謹慎を命じたことにする」
おい、なんだと? おかしいだろ。
しかし反論は言葉にならなかった。口内が乾く。心臓が痛いほど鼓動している。
「犯人が誰かわからなかったから、薄野さんに異動を薦めた……ということになるかな。そして薄野さんからはすでに快諾の返事をもらっている。今回の問題は、実はすでに解決しているんだ」
冷たい汗が背筋を伝う。
やはり、薄野さんは間違えたのではないだろうか?
この男に相談してはいけなかったのでは?
「どう……して?」
ようやく、呟くように尋ねる。
釘付けにされたように、朔夜氏から目が離せない。
「わからない?」
朔夜氏が美しく微笑む。
「事件をうやむやに終わらせて、米川くんを助けてあげるんだよ。そして自白文書を提出させる。そうすると――彼は一生、俺に逆らわない」
息を呑む。あまりの緊張感に、指一本すら動かせない。
私は、いま、墓まで持って行かねばならない秘密を共有されていた。
そうして朔夜氏は、私に向け、少しだけ身体を傾けた。
「《《君のおかげだ》》」
ごきゅ、と喉が鳴る。
指先が白くなるほど手を握りしめる。力を込め過ぎて、いまにも震え出しそうだ。
「鴻さん、今日の午前中、俺に宿題を出したでしょ? 言われたとおり、俺は薄野さんに声をかけた。彼女の休日の趣味を聞いた。その流れで、今回の事件を拾ってきた」
随分前から呼吸が浅く、速い。酸素が足りない。視界が端からぼんやり白み、揺れているように錯覚する。
「君の言ったとおりになった。薄野さんは今後、俺たちに対して堅実で誠実な仕事をする。そして米川くんは、絶対的に服従してくれる。満足の結果だ。どれもこれも、全部、君のおかげだよ」
そんな。じゃあ、全部私のせいだ。
ぐらりと重心が傾いて、倒れ込みそうになる。
それを「おっと」と朔夜氏が支えた。
「大丈夫? ……もしかして今日、ずっと体調が悪かったりする? 残業、なしにしよっか。議事録は……来週の月曜日でも、いいよ」
朔夜氏が〆切を譲歩したのは、この二週間で初めてのことだった。
ぐらつく頭を押さえ、なんとか身体を起こす。
「……早退って、アリですか?」
「わかった。タクシーを呼ぶ? それとも、救急車かな?」
「タクシーで」
「手配する。横になって待つ?」
「いえ……座って休みます」
ふかふかソファに身体を預け、天を仰ぐ。
なんてことだ……。朔夜氏の怪物性を、あろうことかこの私が助長してしまっただなんて。
薄野さんが異動になったのは、きっと私のせいなのだ。
そして米川さんに『一週間の謹慎』以上の処分は、もう下されない。
目を閉じる。申し訳なさで胸がいっぱいになっていた。
今日は、もう帰ろう。
「晩御飯用にうなぎの出前を取ったら、食べられそう? それとも――」
「食べられますッ!」
即答。文字どおりの食い気味であった。




