1-10・エピローグ ~うなぎと共に去りぬ~
私は会社を早退し、朔夜氏の呼んでくれたタクシーで自宅へ帰り着いた。うなぎを持って。
荷物を全部床に、うなぎだけはテーブルに置いて、ソファに腰掛ける。硬い。職場の高級ソファに完全に慣れてしまった。家のソファはまるでお煎餅だ。
天井を仰ぎ見る。私は、落ち込んでいた。大きな失敗だった。
薄野さんにも、米川さんにも、合わせる顔がない。
薄野さんは、まだいい。納得しての異動だ。きっと彼女の人生は、朔夜氏の言うとおり新しい部署でリスタートする。
しかし、米川さんはどうだ? 仕事を続ける限り、朔夜氏の言うことに逆らえない人生って。私が抗った恐怖政治を米川さんには適用するってこと? 全然理解してないじゃないか、あの怪物上司。脳内コマンドが『支配』『圧力』『利用』『管理』しかないのか? いくら今回の犯人だからといって、ここまでの仕打ちを受けていいはずがない。
意識的に深呼吸をしてみる。が、駄目だ。
漂ううなぎのいい匂いに、どうしても心が惹かれてしまう。
身体を起こし、早めの晩御飯を見つめる。
テーブルの中心に置かれた、緑色の風呂敷包み。結び目を解くと、高級感のある四角い器が黒い光りを放っていた。まだほんのり温かい。蓋を開けると、白飯の見える隙間もないほど大きなうなぎがドンと乗っていた。
生唾を飲み込む。この食欲を、もはや止められなかった。
割り箸を取り出し、パチン、と開く。
箸先でうなぎを崩し、一口分にする。タレの絡んだ白米と共に、口に運んだ。
ふっくらと焼き上がったうなぎに、濃いタレの味が絡む。なんてことだ。一口食べたら、もう止まらない。二口、三口。頬張るたびに食欲と元気が湧いてくる。
なんて美味しいんだろう。
目に涙が滲んでいた。美味しかったし、嬉しかった。朔夜部長はこんなに美味しいうなぎを差し入れた上、早退の許可までくれる人なのだ。一方で、事件をうやむやに終わらせて、米川さんを絶対服従させる人。そのために被害者であるはずの薄野さんを異動させる人。おかしいだろ。温度差で風邪を引きそうだった。
気が付くと、黒い重箱は空になっていた。まさにぺろり、至福である。
満腹になって落ち着いてくると、急に『なんとかなるか』という気がしてきた。
そもそも、米川さんと朔夜氏、両者間の問題だ。私の出る幕ではない。米川さんは米川さんの行動の責任を引き受けるだけだし、朔夜氏は、それを利用するだけ。私はそれを知っているだけ、見ているだけ。どうすることもできないし、どうにかすべきではない。それは私の仕事ではない。
RIP、米川さん。今後のご活躍をお祈り申し上げます。
食器を洗い、洗濯機を回し、ついでにお風呂に入ってしまうことにする。夏は暑いのでシャワーで済ませ、ジャージとTシャツに着替え、扇風機の前で髪を乾かす。しばし身体の熱気を冷ましてから、やれやれと立ち上がって洗濯物を干した。
現在時刻、驚きの午後八時。
あとは、もう寝るだけ。それまで自由時間。アニメを見てもいい。マンガを読んでもいい。ゲームで遊んでもいい。なんなら、仕事をしても――……
頭に朔夜氏の顔が浮かぶ。職場に一人残してきてしまった。本当なら、九時までオトモする予定だったのに。
彼はまだ残業しているのだろうか?
床に置かれた仕事鞄を見やる。立ち上がり、鞄からノートパソコンを取り出す。テーブルの上に開いて電源を付け、メーラーを起動させる。
朔夜氏宛てのメールに本文を打ち込もうとして、一瞬、指が止まる。
いや、確認するだけだ。まだ残業しているのかどうか。
『お疲れ様です。まだ会社ですか? ご帰宅の場合、返信は不要です』
朔夜氏にメールを送信すると、ため息とともにパソコンを閉じた。これでいい。マンガでも読んで待っていよう。今夜中に返信がないことを祈る。
直後、メーラーの通知音が響いた。
慌ててパソコンを開き、宛先を確認。朔夜氏だ。
『お疲れ様。体調はもう大丈夫? 来週からもよろしくね』
「即返信ってことはまだ職場やないかい!」
勢いよくツッコんだら、ふつふつと怒りが湧いてきた。
ジャージと柄付きTシャツを脱ぎ捨て、無地の白Tシャツとビジネスカジュアルボトムに着替える。パソコンを鞄にしまい、適当な靴下を履き、スニーカーへ足を突っ込み、家を出た。
駅で快速に飛び乗り、座るのも惜しく、立ったまま過ごす。
駅から外に出た途端、ベタつく熱気が襲い掛かってくる。振り払うように職場へ走った。息が切れ、汗が滴り、頭が熱暴走を起こしそうに暑い。
裏側通用口から社屋へ入り、エレベーターへ。この隙に呼吸を整え、今度は財務管理部・部長室へ向かって薄暗い社内を駆ける。私の動きを感知して、廊下の電気がついたり消えたりした。
「朔夜部長ォァッ!」
「うおっ」
いつものように眼鏡をかけ、部長室デスクに座って仕事をしている朔夜氏と目が合った。
現在時刻、午後八時半。
「ど、どうしたの……? 体調は、もう大丈夫そう……?」
「うなぎパゥワーで、なんとか」
私はローテーブルに鞄を置き、ソファに座り込んだ。汗でベトベトだ。折角お風呂に入ったのに。それでも、室内はエアコンがほどよく効いて快適だ。なんなら、ちょっと暑いくらい。
朔夜氏がデスクから立ち上がり、ソファの隣に腰掛ける。
「もしかして、走って来たの? どうして? 議事録は、来週でいいよ?」
私は呼吸を整え終わり、朔夜氏のほうを向いた。
「朔夜部長。今日は何時まで残業するご予定ですか?」
「十時くらいまでかな」
「九時ですらないんかい! どのくらいの頻度で残業されてます?」
「週四か五くらい」
「ほぼ毎日やないかい!」
私は、朔夜氏の前でクソデカため息をついた。
「帰りましょう、朔夜部長」
「いや、俺はもう少し……」
「新しい宿題を用意してきました」
朔夜氏は一度、名残惜しそうにデスクを見てから「なに?」と私へ向き直った。
「動画配信サービスにおいて、配信されているアニメを最低一つ以上完走してください」
「そ、それ、俺にメリットある?」
過去一当惑している朔夜氏に私は笑顔で頷いた。
「もちろん! 私も、同じタイトルを視聴します。出勤したら、まず、私とアニメの感想を語り合ってください。一日一話、週五ペースです」
「それを続けたらどうなるの?」
「社員たちとの話題が、ひとつ増えるでしょう」
朔夜氏は顔をしかめた。コストとメリットが見合わないと感じているのだ。
「いいですか、朔夜部長」
目を見て、言って聞かせる。
私の武器は自信と威厳に満ちた的確な説明。『このプレゼンターは自分の知らない世界の魅力を教えてくれる』そういうワクワク感だ。
「現代日本において、流行りのアニメを押さえておくことは営業戦略としてマストです。仕事が出来るだけでは駄目なんです。仕事以外の人間味の部分、たとえば共通の話題で白熱したとき、人間は他者に惹かれます。朔夜部長にはそれが欠けている」
「誤解だったら申し訳ないんだけど、君は、俺に人間的な魅力が足りないって話をしてるのかな?」
「そのとおりです」
朔夜氏は、ポカンと呆けた顔つきになった。
「……受けたことのない評価だ」
「しかし! 私からの宿題をこなせば、あなたは! 人間的な魅力を増していく! いま受けた不名誉な評価を覆せる! かも! しれません!」
朔夜氏は黙って俯いた。考えている様子だ。
営業から聞いたテクを思い出す。まず、考えさせる時間を与えては駄目だ。
「朔夜部長、パソコンはもう閉じても大丈夫ですか?」
尋ねながら立ち上がると、朔夜氏は「自分でやる」とソファを立った。作業を保存し、シャットダウンさせ、画面を閉じる。
「忘れ物はありませんか~?」
自分の鞄を手に尋ねると、朔夜氏はパソコンを鞄にしまい、ハンガーのジャケットを羽織り、帰り支度をし始める。
「眼鏡眼鏡」
「おっと」
かけていたブルーライトカットの仕事眼鏡を外し、ケースに入れてから引き出しにしまう。
「電気消しまーす」
足早に入口まで駆けてくる朔夜氏。
私はエアコンを止め、最後に電気を切った。二人、並んで廊下を歩く。
「何のアニメが見たいかは、朔夜部長が選んでくださいね」
「最近のアニメをよく知らないんだけど」
「では、候補をリスト化して明日にでも送ります」
「今日。今夜中」
「薄野さんのオススメ本は、もう読み終わりました?」
朔夜氏は一拍黙って「まだ途中」と言った。
「じゃ、アニメのリストは明日で構いませんね」
言い返せなかったらしく、朔夜氏は舌打ちした。
「ほかには? ほかの宿題。並行してやったほうが効率が良い」
「宿題はひとつずつです。過度な効率化は仕事人間度が高いですよ~?」
「でも、本だけだとすぐヒマになっちゃうよ」
私は「うーん」と考えるフリで朔夜氏を焦らした。
「じゃあ、こうしましょう。気になるアニメの一話をいくつかザッピングするんです。その中で、一番気に入ったアニメを継続視聴する。これは毎日アニメとは別枠です」
「わかった。報告会はどうする?」
「ただ見るだけで大丈夫です。たまに感想は聞きますけど。アニメ以外でも大丈夫ですよ」
「たとえば?」
「映画とか、ドラマとか、マンガとか、ゲームとか。それこそ本でもいいと思いますよ」
朔夜氏はため息をついた。
「注文の多い秘書」
どの口が言ってるんですか。
社屋を出る前、我々は警備室に立ち寄り、もう帰ることを告げた。
警備の人は「今日は早いね!」と笑顔で言った。
早くはないだろ。
私は満面の笑顔で「今後は控えさせます」と宣言した。
朔夜氏と警備の人は、驚いたように顔を見合わせた。
外に出ると、むっとした熱波に煽られる。
我々はそのまま最寄り駅まで歩いていく。
「さて、朔夜部長。残業は毎日一~二時間に調整して、帰宅後はアニメを見るなどしてくださいね。週に一日は定時退社デーとします。特に、財務管理はいま閑散期ですからね」
朔夜氏が頭を振った。
「信じられない……」
「休日の宿題として、カフェ巡りも実装予定です」
「クラクラしてきた」
「そういえば朔夜部長、晩御飯には何を食べました?」
「まだ。これから」
「今すぐ何か食べに行きましょう!」
このあと、朔夜氏と入ったファミレスでサイドメニューを複数頼んだら「うなぎを食べたあとなんだよね?」と驚かれることとなる。
こちとら全力疾走のあとで、小腹が空いてるんですけど!?
なにが問題なんですか!?
割り勘のつもりだったのだが、朔夜氏は笑いを噛み殺しながら伝票を手元に引き寄せた。
「鴻さんって本当に面白いね」
もちろんデザートも注文した。
◆第一話「認めてください、朔夜部長!」 了




