1-4・絶対食事領域
朔夜氏が食堂の列に並んだ瞬間、事件が起きた。
前に並んでいた女性社員の集団が、朔夜氏に順番を譲ろうとした。
それに気付いた、更に前に並んでいた男性社員も、譲ろうかと動く。
そう、列全体が朔夜氏に忖度し、先頭まで送り出そうとしたのだ!
朔夜氏は、状況を理解できなかったのか小首をかしげ、私に訊いた。
「役員待遇って、食堂でも有効なの?」
「そんなわけないでしょう! あってたまるか! 食堂において、社員はみな平等です! 並んで待ちます! それこそルール! かつ、マナー!」
朔夜氏は私の言葉に納得したらしく、順番を譲ろうとした女性社員たちに向け爽やかに微笑んだ。
「ありがとう。でも、遠慮しておくね」
女性社員たちは一瞬で色めき立ち、黄色い悲鳴こそないものの、きゃいきゃいと嬉しそうな雰囲気で背後に立つ色男を盗み見た。
気持ちはわかる。八月に辞令が来るまで、私もそちら側だったのだ。
でも、みなさん、落ち着いて。
もし私がいなかったら、この男は、列の先頭まで進んでいたかもしれないんですよ?
耐えられますか? 毎日行列をスキップする役員待遇の部長に。
私なら耐えられない。
「オススメのメニューとかある?」
朔夜氏からの当然の疑問に、私は頷く。
「毎月AB二種の提供の『今月ランチ』シリーズは外せません。今月はA・梅肉挟みチキンカツ定食、B・ほっけ定食。七〇〇円と価格がもっとも抑えられた費用対効果・最高品であるため、まず月初に二種とも堪能し、週一頻度で交互にリピ。給料日前には毎日ABローテを組むこともある王道の主力メニューです」
「今日は君の奢りだから、費用対効果は考慮しなくてもいいよ」
「で、あれば! 弊社食堂における特別メシ! 最高価格記録をここ三年保持し続けるステーキ重は外せません! お値段、一八〇〇円! 大きな仕事を達成した、給料日直後、自分にご褒美をあげたい……そんなとき! ステーキ重はいつでも私たちの空腹を癒す最強メニューとして君臨しているのです!」
「その一八〇〇円は君の負担になりそうだけど、大丈夫?」
「必要経費です! 美味しさの前に、お金は手段でしかありません!」
食堂の列を進むと、やがてキッチンスペースが現れた。弊社食堂はまず、注文をタッチパネルに入力するところから始まる。以降、順番飛ばしは厳禁だ。長いキッチンスペースの棚には、よりどり小鉢が並んでいる。一人二つまで無料、三つ目からは追加料金。ご飯&味噌汁付き。なにより嬉しいのが、ご飯の量が大・中・小から選択可能で料金据え置きという点だ。もちろん、ご飯(大)一択である。
今日の私の選択は、メイン『鯖の味噌煮』サブ『ひじき煮』『冷ややっこ』ご飯(大)に味噌汁。さらに、三つめの小鉢として『ホイップ冠プリン』をいただくことにした。カラースプレーとホイップクリームで彩られた、数量限定、シェフの気まぐれ隠しメニュー。ラスイチだった。朔夜氏には悪いが、先に並んでいた私にこそ権利がある。
列の最後にメインを受け取り――出来立ての温かい皿を受け取る瞬間って、最高――カードをスキャンして二人分の会計を済ます。
表示された金額に思わずギョッした。
慌てて確認すると、朔夜氏のトレーに乗っていたのは今月ランチB・ほっけ定食だった。ステーキの影はどこにもない。しかも、朔夜氏は小鉢を『ほうれん草の胡麻和え』一つしか取得していなかった。ご飯も小盛。私の小鉢三つ盛りと比べ、なんと寂しいトレーだろうか。
「さ、朔夜部長!? ステーキは!? それに、なんでほうれん草しか取ってないんですか!? 小鉢は最大二つまでと、きちんと説明しましたよね!?」
「昼からステーキは重いよ。それに、小鉢も二つもいらない。そんなに食べられない」
「でっ……でも! 小鉢は最大数を取得するのがもっとも……!」
「コスパがいい。けど、過剰在庫を抱えてまで求めるのは本末転倒。君は手段を目的化している」
完・全・論・破。ぐうの音も出ない。
立ち尽くしていると、一人の女性社員が近付いてくる。
「あの、さ、朔夜部長」
肩まで届く長い茶髪を高い位置で結んだ、二十代中盤の女性社員だ。白いシャツに紺色スカートのオフィスカジュアル・スタイル。リップと化粧はごくごく控えめ。両手にはトレーを抱えており、メニューは今月ランチA・梅肉挟みチキンカツ定食。
女性は私に気付くと、控えめに頭を下げる。
「経営企画部、薄野です」
「財務管理部、鴻です」
私も頭を下げ返す。
彼女が今回の相談者か。
「業務に関する話だから鴻さんにも同席してもらおうと思ってるけど、大丈夫かな?」
朔夜氏が尋ねると、薄野さんは躊躇いがちに視線を彷徨わせ「ええ、まあ」と曖昧に頷いた。
「よし、席を探そう」
朔夜氏を先頭に、我々は窓際のテーブル席に辿り着く。
そこに
「あの、ご一緒してもいいですよね!?」
と女性社員の集団がどこからともなく現れた。
八人掛けのテーブルが一瞬で埋まる。
「朔夜部長、食堂にいらっしゃるの珍しいですよね!」
「ヤバ、距離近すぎる! カッコイイ~!」
「あのっ写真撮ってもらえませんか!?」
「ズルい! 私も!」
お、おう。
トレーを手に立ち尽くす、私と薄野さん。
よく見ると、先程、列の順番を譲ろうとした女性社員たちだと気付く。
あとをつけてきたのか。
朔夜氏は、私と薄野さんが立ったままなのを顧みて、ファン集団に向き直った。
「ごめんね。ご一緒されると困る」
「え~!」「いいじゃないですか!」「もっと朔夜部長と話した~い!」
騒ぐファンたちを黙らせるように、朔夜氏が右手を挙げる。
「悪いけど、俺と話したいなら、そこに立っている秘書の鴻さんにアポイントを申請してほしい」
薄い笑顔の朔夜氏が私を振り向く。
同時に、テーブルに座る全員が私を見た。
女性たちの能面のような無表情に、口の端が引きつるのを感じた。
「ちなみに、鴻さん。仕事に関する話だけアポイントを通してね。写真撮影とか、プライベートへの詮索とか、ゴマ擦りとか、下らない雑談はいつもどおり全部却下して」
女性社員の一人が「そんな~!」と声を上げた。
が、朔夜氏が冷たい視線を向けると、射竦められたように黙った。
「悪いけど、席を外してほしい。仕事の話をしたいから」
リーダー格と思しき、朔夜氏の隣に座っていた女性が立ち上がる。
「行こう」
そうすると、ほかの女性たちも渋々と席を立った。
すれ違いざま、誰かが私の耳元で「調子に乗ってんじゃねーよ」と低く呟いた。
ひ、ひえ~~~!
私は縮こまりながら、テーブルの一番端、朔夜氏から一つ分空けた位置にトレーを下ろす。
調子に乗っているわけでは決してなかったが、ここで隣に座ったら、そう思われても仕方がない。
三歩後ろをついていく、そのくらいでちょうどいいのかもしれなかった。
テーブルの端でしおしおになっていると、朔夜氏は、椅子から立ち上がり私の隣へスライド移動した。
「な、なんで隣に!?」
驚き半分で文句をつけると、朔夜氏はきょとんとした顔で私を見た。
「君も薄野さんの話を聞くんだよ。仕事の話だ。離れて座るのはおかしいでしょ」
「だとしても! 今の一連の流れ見てたでしょう!?」
「見てたけど、なに? 君はいちいち負け犬の遠吠えに耳を痛めるタイプ?」
「わー! バカバカ! 聞かれたらどうするんですっ!」
朔夜氏は私を怪訝そうに睨んだ。
「どうして俺や君が遠慮しなきゃいけないの? 不躾なのは向こうでしょ。それとも、強そうな相手のご機嫌取りが君の生存戦略なの?」
そんなわけあるか!
とは、即座に言い返せなかった。
読み取るべき場の空気というものも一定数ある。が、たしかに。朔夜氏の意見にも一理あった。
私は、女性たちの圧力に屈しかけたのだ。
「それで、薄野さん。相談って? 食べながら話そう」
朔夜氏が正面へと座った薄野さんへ呼びかける。
ああ、もう話が切り替わった。
私はもやもやと悔しい気持ちを抱えながら「いただきます」を唱える。
甘い味噌で煮込まれた鯖は箸で簡単に崩れた。ほろほろの白い身を、黄金に輝く味噌だれを絡めて口に運ぶ。優しい甘さが消えぬうちに、湯気立つご飯をかきこんだ。ほっと息つく、幸せの味。日本人のDNAに刻まれた絶対的美味しさ。
味噌汁が欲しくなり、軽く箸先でかき混ぜて啜る。温かさが喉を通って、胸を、身体をかけ巡る。
温かくて美味しいご飯に、気持ちがふっと軽くなったように感じた。
「今からする相談は、どうか、内密に……。社内で噂になると、困りますから……」
薄野さんが、数口食べただけで箸を置く。
私は息を呑んだ。サクサクの衣に爽やかな梅肉が夏を運ぶ、この時期もっともアツい揚げ物のひとつ、梅肉挟みチキンカツを前に、箸を置くほどの相談とは。
綺麗な箸捌きでほっけを解体しながら「わかった」と頷く朔夜氏。
薄野さんが自らの腕をかき抱く。
「私……今の部署で、嫌がらせに遭っているみたいで」
「ふむ、嫌がらせ」
「でも! 大事にしたくはなくて」
無理矢理深呼吸して、薄野さんは言った。
「犯人は、わかっているので」




