1-3・食堂へ行こう
昼休憩直前、十一時四十五分。朔夜氏はようやく部長室へ帰還した。
この二時間、ハラハラして仕事にならなかった。いつもなら一時間ほどで帰ってきて、確認が終わったことを簡単に報告して、急を要しないはずの仕事に忙しそうに戻っていたはずなのに。
しかも。
「鴻さん、昼休憩はヒマ? 一緒に食堂まで来てくれる?」
ランチのお誘い!? これは一体、どういうことだ!?
「ええ、まあ、ウチの社員食堂は絶品ですから、もちろん、オトモさせてはいただきますが……」
「そうなの? 俺、食堂で食べたことないかも」
「食堂で食べたことないかも!?」
思わず大声を出しながら立ち上がっていた。
信じられない。大学就活時代、職場訪問のたびに食堂に通って調査内容をファイリングしていた身としては戦慄する思いだ。弊社の食堂は、これまで経験した中でもトップ・ファイブの逸材。価格はやや高めだが、裏打ちされた味付け、満足感、そして十分な給与の支給によってプラマイ加点五億。実質、社員食堂狙いで入社したと言って過言ではない。
そんな社員食堂に、今まで行ったことがない? この男は入社してから三年間、一体なにをやっていたのだ!
「いいですか、朔夜部長」
私は彼に歩み寄り、社員証を裏返しで掲げて見せた。
「食堂専用プリペイドカードです。まず、このカードを購入してください。そして、入金。月二万円ほど必要です。平均ランチ価格は一〇〇〇円前後。お高め設定ですが、その分の給与は出ていますし、なにより、美味しい。シェフの出来立てを味わえます。向かいましょう。食堂の『すべて』をご説明します」
朔夜氏はポカンとした顔でしばし棒立ちになっていた。
「どうしました?」
「君を見誤っていた」
今度は、朔夜氏から私に一歩近づいて、私の手を取った。
「ぎゃあ!」
なんだ!? やめろ! 慣れてはきたが、ご自身の顔がべらぼうに良いのをお忘れか!?
朔夜氏は、距離を取ろうと退く私を逃すまいと、自らの顔の前まで私の左手を引き寄せる。目は爛々と輝き、うっすらと笑みを浮かべている。
「近い近い近い! 近過ぎて滅!」
「そのやる気、どうやったら仕事に転化できる?」
「は!?」
なに!? 仕事の話!? この距離で!?
「いまのプレゼン、完璧だった。自信と威厳に満ちた的確な説明。『このプレゼンターは俺の知らない食堂の魅力を教えてくれる』そういうワクワク感があった。俺は君を、見くびっていた。仕事は相応にできるが、必要以上の熱意はないものかと。でも、そうじゃないんだね」
な、何を言っているんだ、この男!?
「た、食べることは、生きることなので……」
「仕事をすることも、生きることじゃない?」
「ぜぜ全然違います!」
マズい! もしかしてこの男、食べることを愛するように仕事を愛せよと言っているのか!?
「仕事は私にとってお金を稼ぐ一手段でしかありません! 仕事へ情熱を注ぐことは、手段の目的化を招く危険思想です! 無理です! 諦めてください!」
朔夜氏はじっと私を見つめていたが、やがて手を離した。
「そう……」
残念そうに呟いて、視線を外す。その黒い瞳に熱はもうなく、一瞬で興味が冷めていることが見てとれた。
高鳴る胸を押さえ、数度の深呼吸。落ち着け。大丈夫、朔夜氏は私の仕事における可能性に興味を示しただけ。私自身への興味ではない。こんなことで心を奪われてはいけない。
弊社食堂の美味しさに気付かない、否、興味すらない人格破綻者に、顔の良さだけで沼りたくない。
「食堂に向かうにあたって、必要なものはある?」
朔夜氏からの実務質問にハッとして、背筋を正す。
「初期投資費用と社員証があれば十分です」
「なるほど」
「食堂カードは一枚五百円、月額料金を今日一気にチャージすると考えれば、初期投資金額は約二万円です」
「いや、別に毎日通うわけじゃないから。二千円あれば十分の計算なんだけど」
我が耳を疑った。この男、今日という一食分を賄えさえすれば、もう食堂に興味がない!?
「じ、じゃあ逆に! 今日は初期投資ナシで行きましょう! 一食分のためだけに食堂カードを購入するのは、明らかに不採算投資です! 今日は、私が奢ります!」
朔夜氏の顔が歪む。秘書生活二週間目にして初めて見る表情だった。
「……鴻さん、なにか、俺に頼みたいことでもあるの?」
「今回に限って、下心はありません。が! もし、朔夜部長が弊社食堂をお気に召し、毎日通っていいと思えて、なおかつ食堂カードをご購入の暁には! 私に一食分を奢ってください!」
顔を歪めたまま絶句する朔夜氏。顔の良い男に見下されたい願望のファン層に深く刺さりそうな表情だ。
「どういうこと?」
「ずばり、布教活動です!」
社員証の裏の食堂カードを見せつけながら宣言する。
「弊社食堂は、本当に、かなり美味しい! 毎日通って飽きません! あなたに必要なのは、ずばり味見! この美味しさを知れば、きっと戻れない! 初学者を導くは先達の務め! よって! 一食目は財布を気にせず好きに食べてください! 私は確信しています、シェフのみなさんが、朔夜部長の胃袋を掴むと!」
朔夜氏は私を不信の目で見つめていたが、やがて「なるほど」と言った。
「イニシャルコストを君が支払うことで、俺のランニングコストへのハードルを極限まで下げるプレゼンね。君は俺が食堂を継続利用するほうに大きく賭けているわけだ」
イニシャルコスト=初期投資。
ランニングコスト=維持費用。
「わかった。今日はそれでいいよ」
朔夜氏はようやく頷いて、腕時計を確認した。
「早く行こう。人を待たせてる」
「おや、誘われランチだったんですか?」
それもそうか。入社後三年間、食堂に行かなかった男だ。
「経営企画部の薄野さん。相談があるんだって」
「へー、経営企画部にメシ友が」
「なに言ってるの?」
朔夜氏は眉根を寄せて私を見た。
「薄野さんとは友達でもなんでもない。今日初めて存在を知った。ロクに話したこともないよ」
流石に混乱した。初対面の社員と、ランチ? 私を伴って?
「薄野さん、休日は読書が趣味なんだって。俺はビジネス書しか読まないから、最近のオススメを聞いてみた。知らない作家の知らない本を紹介された。Kindleで購入したから、隙間時間に読んでみようと思ってる」
「ちょちょちょちょ?」
言語野がフリーズする。どゆこと?
「その流れで、いま仕事で困っていることがあると切り出された。続きは食堂で話すことにした。ちょうど、お昼休憩も近かったからね。社員の仕事に関する悩み相談、すなわち、業務の円滑化とも解釈できる。だから君に同行を頼んでる」
「あの、わかったようでわかりません。なぜ、薄野さんの休日の趣味について私に報告を? 薄野さんと朔夜部長のプライベートを邪魔するつもりはありません。どうぞ、お構いなく」
「いや、別に薄野さんとプライベートで仲良くするつもりはないけど」
「え? は?」
「薄野さんの趣味を聞いたのも、業務の円滑化だよ」
朔夜氏は顔色をひとつも変えず、淡々と告げる。
「君が言ったんだよ。経営企画部の人間一人以上から趣味を聞き出せ。その人物は以降、堅実で誠実な仕事をする」
私は絶句した。
この上司、部下の意見を採用することもあるんだ。
っていうか、ちゃんとした話として聞いてたんだ。
しかも、律儀に実行して帰って来たんだ。
もしかして、根は素直で真面目な人なのか?
「ほら、行くよ」
促され、半ば放心状態で部長室を出る。周囲に広がる好奇の目や噂の声は気にならなかった。このときの私の脳はすでに処理限界を迎えており、再起動には、食堂から漂う昼食のいい匂いが必要だったからだ。




