第二話 あなたのことが気に入りましたの
アイオニックの手から、紙袋がぼとりと床へ落ちた。
「……はい?」
「ですから、わたくしと同棲を」
「な、なぜですか!?」
「あなたが誠実で、素直な方だとわかりましたので」
「食い逃げをした男ですよ!?」
「ええ。そこは少し問題ですけれど」
「少し!?」
「けれど、わたくしの家に婿入りするのであれば、あなたが何度食い逃げをなさったとしても、我が家の使用人がすぐに見つけてくれますわ」
「そういう問題ではないと思うのですが……!」
「では、同棲ではなく婚約にいたしましょうか?」
「もっと話が進んでいませんか!?」
カレンは、扇を閉じながらにっこりと笑った。
「わたくし、あなたのことが気に入りましたの」
アイオニックは真っ赤になったまま、口をぱくぱくと動かした。
結局その日、彼は懐中時計を受け取り、侯爵家からの申し出については、家族と相談してから返事をすると言って帰っていった。
ただし、翌日には大きな荷物を抱えて、エインズワース侯爵邸へ戻ってきた。
「――というわけで、アイオニック様は屋敷を出て、婚約者様のもとに転がり込んだそうです」
ヴァンス子爵家の執務室で、執事が淡々と報告した。
当主であるヴァンス子爵は、額に手を当てた。
「馬鹿な。まだ出会って数日だぞ」
「エインズワース侯爵令嬢も、大層その気になられているとのことでございます。侯爵様からも、『どうぞよろしく頼む』とのお手紙が届いております」
「……そんな勢いで、大事なことを決めるのか」
「アイオニック様も、勢いに流されやすいお方ですので、お似合いかと」
「そこは否定できんな……」
その頃、当のアイオニックは侯爵邸の客間で、優雅にお茶を振る舞われていた。
向かいに座るカレンへ、彼は周囲を気にしながら、こっそり耳打ちする。
「あの、カレン様。僕、本当は……食い逃げした理由について、まだお話ししていないことがありまして」
「あら、まだ何か隠し事でも?」
カレンはティーカップをソーサーへ戻し、彼を見つめた。
「実は、あなたとお話しするのが楽しすぎて、普段は飲まない量を飲んでしまったのです」
「まあ」
「それで、だんだん意識が朦朧としてきて……お手洗いへ行くつもりで店の外へ出たら、そのまま足が勝手に動いてしまって。気がついたら、家に帰っていたみたいで……」
カレンは、優雅にティーカップを傾けたまま、しばし彼を見つめた。
「――つまり、わたくしとの会話が楽しすぎて前後不覚になり、無意識のうちに帰宅なさったと?」
「は、はい……。お恥ずかしい話です」
「アホですわね」
「はい……」
「でも、大好きですわ」
アイオニックは飲みかけていた紅茶を、思い切り噴き出した。
その後、二人の婚約は驚くほど早く進められた。
アイオニックはヴァンス子爵家の三男としての身分を保ちながら、エインズワース侯爵家へ婿入りすることに。
本人は最後まで、「僕が侯爵家に婿入りなんて、本当にいいのでしょうか」と挙動不審になっていたが、カレンはそのたびに、楽しそうに笑った。
そして、二人が出会ってからひと月後。
王都の教会に、祝福の鐘が鳴り響いた。
純白のドレスに身を包んだカレンの隣で、アイオニックは緊張のあまり、誓いの言葉を三度も噛んだ。
「は、はいっ!ちか、ち、誓い……誓い、まず……誓います!」
参列した侯爵夫妻も、ヴァンス子爵夫妻も、揃って天を仰ぐ。
けれど、カレンだけは、こらえきれないようにくすくすと笑っていた。
彼女はアイオニックの耳元へ顔を寄せ、誰にも聞こえない声で囁く。
「よろしいのですよ。あなたのそういうところに、わたくしは惚れたのですから」
「……カレン様」
「もう妻ですわ。様付けはおやめになって」
「では……カレン」
「はい」
「僕は、あなたを一生大切にします」
今度は、言葉を噛まなかった。
カレンは嬉しそうに微笑むと、彼の手をきゅっと握り返した。
「ええ。わたくしも、あなたを一生逃がしませんわ」
その言葉を聞いたアイオニックは、なぜか食い逃げしたときと同じような顔で、再び真っ赤になった。
最後までお付き合いありがとうございました。
超ハイスピードなハッピーエンドのお話しでした!
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