第一話 食い逃げ、ですわね
「――は?」
カレン・フォン・エインズワースは、目の前の空いた椅子を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
王都で今流行しているのは、「身分秘匿型・お見合いサロン」だ。
互いの家名を伏せたまま食事をともにし、気が合えば正体を明かす。貴族の社交としては、随分と気の利いた出会いの場である。
侯爵家の跡取り娘として、幼い頃から数え切れないほどの縁談を持ち込まれてきたカレンは、少々うんざりしていた。
そんな彼女に、侍女が勧めてきたのが、このお見合いサロンだった。
家柄も爵位も関係なく、ひとりの女性として自分を見てくれる相手と出会えるかもしれませんよ、と。
その言葉に惹かれ、カレンは身分を隠して、こっそり足を運んだのだ。
相手の男は、感じが良かった。
物腰は柔らかく、話も面白い。
貴族同士の堅苦しい会話ではなく、最近王都で流行している芝居の話や、人気の菓子店についての話など、取り留めのない話題で自然に盛り上がった。
ワインを三杯ほど空けたあたりまでは。
そして今、彼はいない。
テーブルの上には、二人分の食事代が記された伝票だけが、寂しく残されている。
「……食い逃げ、ですわね」
カレンは深く息を吐くと、店員を呼んで会計を済ませた。
いくら身分を隠していたとはいえ、侯爵令嬢が食い逃げ犯を追いかけて騒ぎを起こすわけにもいかない。
そう考えて店を出ようとしたとき、椅子の下に何かが落ちていることに気づいた。
拾い上げてみると、それは見事な細工の施された懐中時計。
裏側には、どこか見覚えのある家紋が彫られている。
「置き土産、ということかしら」
カレンの口角が、ほんの少しだけ上がった。
家紋を調べてみると、それはエインズワース侯爵家と縁のある、ヴァンス子爵家のものだった。
カレンは侍女に命じ、丁重な手紙を一通したためた。
『昨晩、お忘れになった品をお預かりしております。明日の昼、エインズワース邸までお越しいただけますでしょうか』
翌日の昼。
屋敷の門番から「大変挙動不審な殿方がいらっしゃいました」と報告を受けたカレンは、応接間で彼を迎えた。
男の名は、アイオニック・ヴァンス。
ヴァンス子爵家の三男だという。
彼は応接間に入るなり、床に膝をつかんばかりの勢いで頭を下げた。
「本当に、本当に申し訳ございません!飲みすぎて、気づいたら家のベッドの上で……!こんなことは、生まれて初めてで……!」
「あら、初めて」
カレンは扇の陰で目を細めた。
初めてにしては、謝罪の言葉も頭の下げ方も、ずいぶん堂に入っている。
「よろしいのですよ、アイオニック様。人間、誰しも過ちはございますもの」
顔には出さず、優雅に微笑む。
「ありがとうございます……!昨晩のお食事代も、もちろんお返しいたします!それから、これはお詫びの品です!」
アイオニックが差し出したのは、上等な紙袋だった。
中には、見たこともないほど美しい魔法花が入っている。
一夜で萎れることのない、王都でも滅多に手に入らない希少種だ。
カレンが花を受け取ろうと手を伸ばしたとき、紙袋の持ち手が、じっとりと濡れていることに気づいた。
「……アイオニック様。この持ち手、なぜ濡れておりますの?」
「その……朝一番で花畑まで走ったもので、露で濡れてしまって……。あと、緊張で手汗も……」
アイオニックは頬を赤らめ、気まずそうに目を逸らした。
その瞬間、カレンの中で何かが、ぱちん、と音を立てて弾けた。
なんて素直な殿方なのだろう。
見栄も体裁もかなぐり捨て、朝露と冷や汗にまみれた紙袋を差し出している。
侯爵令嬢に取り入ろうと、甘い言葉を並べる貴公子たちにはない、不器用な誠実さだった。
「アイオニック様」
「は、はい!」
「わたくしと、同棲いたしませんこと?」
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