第6話【鷲宮みずき_ラッキーすけべになる魔法】②★★☆
人間、衝撃を受ける直前は世界がスローモーションに見えるというが、そんな事はない。
振り向いた瞬間、すでに躓いていたその女性を、僕は受け止めることも避けることもできず、ただ重力がなすがまま女性の体が僕を押しつぶす。
踊り場に仰向けに倒れた僕の上に、覆い被さるようにその女性がうずくまる。
「あ、あ、ごめんなさい。私急いでて!」
女性は、僕に覆い被さったままテンパった様子で謝罪する。
「どうしよう……頭とか打ってないですか」
僕が仰向けに倒れているのをみて、心配をしてくれるが、覆い被さったままのところを見るに、かなり動揺している。
だが、動揺しているのは僕も同じだった。
急に物理的な衝撃を受けたのはもちろんのこと、今まさに僕にのしかかっている女性の姿が何よりも強い衝撃となって脳を揺らしている。
なんと言っても、その女性は下着姿だったのだ。
マンションの公共部分である階段にいるには、ふさわしくない格好だ。
それに、下着姿とは言ったが、彼女の姿はランジェリーショップのマネキンのように単純な格好ではなかった。
ラグジュアリーなピンクセットのランジェリーに、ジャケットを羽織り、黒いストッキングを履いて、黒のパンプスを履いている。
OLのシャツとパンツが剥ぎ取られたような、チグハグな格好。
単に下着だけの姿よりも、そのチグハグさが余計に異質感を強める。
「私、昨日飲みすぎちゃって、朝起きたらもう8時で、会社に行くには8時10分の電車に乗らなきゃで、でももう間に合わなくて、少しでも遅刻を少なくしようと走ってて」
テンパったお姉さんは、聞いてもいないのに事情を説明してくれる。
いや、口を動かすことで落ち着こうとしてるのだろうか?
「昨日は土曜日なのに休日出勤で、さらに残業までして。それで、明日は休みだからって弱いくせにストロング酎ハイを開けたのが良くなくて、気がついたら床で寝てて、それで」
話しながら涙声になってきた。
二十代前半であろう年上の女性が泣きじゃくる姿を見るのは忍びない。いや、それ以前に公共の場で下着姿を見るのも忍びないのだが。
ん?というかこの人今なんて言った?
「体も痛いし、髪もボサボサだし、でも会社には行かなきゃだし、でもそんなこと言い訳にならないよね、ほんとにごめんなさい」
「あの、ちょっと待ってください。
今の話を聞くに、今日はお休みで会社はないんじゃないですか」
テンパって話しまくるお姉さんが、急に止まった。
僕の上にのしかかる臀部がブルブルと震え、お尻の穴をキュッと閉めるような動きを感じる。
「…った…」
お姉さんが小さく呟く。
「…かった…」
また、呟く。
「よかったー」
三度目は、大きな声で号泣した。
僕はまだ学生なので分からないが、社会人というのはこれほどまでに消耗し情緒が不安定になるものなのだろうか?
だとしたら大人になるのが少し怖い。
「おうち帰れる、寝れるよー
怒られないし、タスクに追われることもなく寝れるよー」
お姉さんは、両手で涙を拭いながら笑う。
「これじゃあ着替え損だよ……」
そこまでひとりごちて、固まる。
会社が休みだと気がついて高揚して赤くなっていた顔から血の気が引いていく。
「き、がえ…」
壊れた機械のような声を漏らしながら、ぎこちなく首を下に傾ける。
お姉さんの目が、自身の姿を捉える。
ピンクのランジェリーを見に纏い、黒いストッキングを履き、ジャケットを羽織り、黒いパンプを履き、それ以外は何もにみつけていない格好で、高校の制服を着た僕の上にのしかかっている。
痴女がいたいけな男子高校生を襲っているようにしか見えない。
「た、いほ?」
お姉さんは、そう呟いた直後、顔を真っ赤にしてジャケットの胸元を押さえる。
最も布面積の多いそれで、体を隠そうとしているのだ。
同時に、僕の上から飛び退き、踊り場に膝を前に突き出し足を外側に広げる割座の格好で座り込む。
「わ、私なんて格好で……」
懸命に隠そうとしているが、上半身はまだしも下半身は全く隠すことができず、黒いストッキングに覆われたピンクのパンツが、無機質なコンクリートに押し付けられる様がはっきりと見える。
僕はなんと声を掛ければいいか分からず、目の前の光景をただ見守るしかなかった。
だが、そんな時間も長くは続かない。
不意に、慌てふためいていたお姉さんの動きと声がピタッと止まる。
同時に、階段の下から複数の女性が話しながら上がってくる音が聞こえてきた。声の質から察するに、僕の親世代の主婦達だ。
お姉さんが、自身の上半身を抱き抱えるような姿勢のままガタガタと震え出した。
「こんなところ見られたら社会的な……シ?」
自身に迫り来る危機に、目が虚になっている。
「そんなこと言っている間に、早く部屋に戻ったほうがいいですよ」
僕はようやくお姉さんに声をかける。
お姉さんは、僕の顔を涙のたまった大きな瞳でまじまじと見つめる。
その二つのダムはやがて決壊し、両頬を流れる大河は乾いた黒タイツの大地に降り注ぐ。
ハラハラと涙を流すお姉さんは、静かに首を振った。
「できない、腰が抜けちゃったみたいで立ち上がれないの」
そう告げたお姉さんの顔は、まるで死刑執行を待つ受刑者のように、大量の恐怖とわずかな悟りに彩られていた。




