第85話 はなれがたき、この世界
ヒメネス博士は、愚王ムニョスを倒した。
この先、世界に新たな歴史の教科書が作られるときにはそう記されることだろう。
その場合、年号はどう表記されるのだろうか。戦闘が行われた時代は昭和34年ではあるが。
アゲハ船団は降伏した。
このときアゲハの最高司令長官ムニョスは戦死、ナンバー2のエンリケ少将は行方がわからず、三番目の席次にあたるものが降伏の意志を示し、戦後処理にも当たった。
昭和34年の世界から数百年後の未来まで通信する手段というものは見つかっていない。
航行可能なリンドウの軍艦が未来へ帰り何が起こったかを報告し、過去世界への救助隊を待つことになった。
日本政府との話し合いが行われ、負傷者は日本国内の病院に振り分けられて療養することが決まった。
救助船に乗る準備が整うまでには、最初に想定したよりも倍の時間がかかった。
ヒメネス博士は無事であるとの通達が出ていたが、公の場には一切出てこなかった。グスタフがヒメネス博士の指示を受けて実務の代行にあたった。
クララは横須賀の病院にいた。
合戦のあと、彼女はリンドウ丸ブリッジにて意識を失った状態で発見された。
彼女には個室が割り当てられた。病室の入り口には偽名が表示された。クララでも、一ノ瀬アンでも、マリア・ヒメネスでもない、まるで関係ない名前。
数か月の入院生活。
ある日クララが目を覚ますと、ベッドの傍らの椅子に座っている者がいた。彼は本を読んでいた。自分が起きるのをいつから待っていたのだろう。少しだけ開いた病室のガラス窓から流れ込む海風が、彼のつんつん頭をそよそよと揺らしていた。
「……ユキナガ。何を読んでいるの?」
クララはぼんやりとした頭で、ユキナガに尋ねた。
「ああ、おはよう。ひさしぶりだね」
クララはユキナガの顔を注意深く眺めた。その表情からは答えが見つからず、仕方なく彼女は尋ねた。
「あなたにとって、わたしは誰?」
「ん? どういう意味だろう。君は一ノ瀬アンだと思うよ?」
「……そう」
午後になると風はもう冷たい。季節は秋へと移り変わっていた。
「君が入院している場所がここだと教えてはもらったんだけど、知らない名前だったから入るのにちょっと躊躇したよ」
「わたしはムニョスの側近という立場だったもの、本名は出せない」
そのことは一ノ瀬アンという人格にこれから一生ついて回る。
「この旅の最中にわたしがずっと書いていた小説は、合戦のときに無くしてしまった」
「それは残念だったね」
「また書くわ」
「それがいい。アンが書いていたのはどんな小説だったの?」
「わたしの家族の話よ。何も起こらない。毎日みんなでご飯を食べて、姉妹がいて。たまに友達の男の子と三人で遊びに行って、ただ年をとっていくだけの話」
「同じものを書き直す?」
「それもいいけれど、新しい何かを書いてみたいと思う」
「善きかな」
ユキナガは微笑んだ。それからすっと立ち上がって、ガラス窓を静かに閉めた。
ハツは病院の中には入らなかった。
自分は外で待っている、ごゆっくり。そうユキナガに告げて、彼女は病院の中庭を散歩していた。
茶色と黒のチェック柄のプリーツスカートと紺色の上着、焦げ茶色のベレー帽という昭和30年代の秋の装い。ハツはすっかりこの時代になじんでいた。
黄色いイチョウの葉を拾ってくるくると回しながら歩いていると、向こうにスーツ姿で金髪の少年がいた。
「グスタフくん」
中庭には木製のベンチがいくつかあって、そのひとつにハツとグスタフは並んで座った。
「あなたも無事修復が済んだみたいね」
「まだ出せる力は80%といったところだがな」
グスタフは物憂げだった。ハツは彼の横顔をしばし眺めた。ハツよりもまつげが長い。
「クララの計画では『一ノ瀬アン』は戦闘の最中に死んだことにして、それからはヒメネス博士としてのみ生きていくつもりだったそうだ」
「両方の姿でずっと生きていくことは、確かに現実的じゃないものね」
「しかし彼女は今いろいろ悩んでいる」
「ふうん」
「田中ハツ、お前があのときやったことは、リンドウの一部の人間のみだが把握している。リンドウ丸からアゲハ号に、簡易ワームホール機能で移動した。それだけではない、ムニョスを看取ったあとの脱出の仕方がまたすごかった。まさかあんなことをするとは」
沈んでいくアゲハ号からユキナガとともに脱出するために、ハツは『リンドウ丸に』助けを求めた。
『リンドウ丸、助けに来て!』
『ハツ、うまくいきそうか?』
『すげー困ってます。こっちはこっちで沈みそうなんだけどもって。あ、でも来てくれる』
『君のコミュ力やば』
あのときハツはしっぽが生えた状態。リミッターが取り払われた状態だった。その後しっぽは自然とハツの体の中に戻っていった。普段はそこまでの芸当はできない。
「あれはいったいどういう理屈の所業だったのだ?」
「ユキナガくんが言うには、『AI同士のSNSみたいなもの』らしいわ。その意味は例によってよくわからないのだけど。『友達申請』をするとAIツール同士で意思の疎通ができる。わたしはその機能がとても優れているらしいの。制限なく誰とでも友達申請できる。たぶんあなたも使ったことがないだけで、わたしみたいな一部機種とはできると思う」
「なるほど……それは知らなかったな」
「おーい、ハツー」
遠くからユキナガの声がした。
「お見舞いは済んだようだわ。それじゃ行くね、グスタフくん」
「ああ」
ハツはベンチから立ち上がり、ユキナガのほうへ小走りで向かった。
「ハツ、お待たせ」
「行きましょう。明日はいよいよ後楽園球場で巨人と南海との日本シリーズ。とても楽しみね」
ふたりで並んで歩き始めた、しかしハツがふと立ち止まる。
「おや。友達申請がありました」
「え、誰から?」
「グスタフくん」
ユキナガとハツは振り返った。グスタフは向こうへ去っていくところだった。
「拒否しておきますね」
「まじか」
ハツがきゅぴーん、とつぶやくと、グスタフが立ち止まり、それからこちらを向いた。
何か言いたそうな顔をしていることが、遠目からでもわかった。
ハツは彼に向けて親しげに手を振った。




