第70話 後楽園球場
ユキナガとムニョスは昭和34年6月25日の後楽園球場にいた。開門と同時に入場。
天覧試合が始まる。
二人の席はレフトポールに近い内野席。後楽園球場のスタンドが人でだんだんと埋まっていく様子を眺めていた。
東京の空が少しずつ夕暮れ時へと移り変わっていく。
「美しい」
ムニョスはため息とともに呟いた。
アゲハからのお付きの者が、独り言のようにささやいた。
「この席は、この前のナゴヤのときよりも少し遠いですな」
「ここでいいいんだよ」
ムニョスが振り向いて答えたので、お付きの者はひどく驚いたようだった。いつもならば軽々しく言葉を交わすことなど許されないのだろう。今日という日は特別。
「長嶋茂雄のサヨナラホームランが、この席ならば良く見える」
ムニョスの言葉。それを引き継いでとなりのユキナガがうなずく。
「レフトポール際の打球、打たれたタイガースの投手、村山実は『あれはファールだった』と生涯言っていた。真相が分からないというのも夢があって好きだけど、せっかくこんな機会が巡って来たんだ。特等席で確かめよう」
そして試合のあと、興奮冷めやらぬスタンドから、そのどさくさに紛れてユキナガとムニョスはいなくなる。
さきほどの従者は定時連絡のために、ほかの者に任せて一度ムニョスのそばを離れた。
ユキナガとムニョスはスタンドの柵に両肘でもたれて、球場の様子をぼんやり眺めていた。
「昭和30年代の日本はさ」
「ん-?」
けだるそうな声で話を始めたユキナガ。ムニョスもまた眠そうな声で返事をした。
「そのあとの時代の人から見たら、娯楽が少なく見えるかもしれない。でもこの時代の人々は長嶋茂雄のプレーを見ることができたんだ」
「ふむ。やはり長嶋茂雄はそれほど特別なのか?」
「そうだね。野村克也が長嶋茂雄を評して言ったことがある。『あいつが手抜きのプレーをするのを見たことがない』これがどれほどすごいことか分かる?」
「逆に言えば、手抜きする選手もいるということか」
「長嶋だって楽をしたい時があったと思う。でも彼はしなかった。彼を支えていたのはファンを思う気持ち。この時代、地方から上京してプロ野球を観戦するなんて簡単にできることじゃなかった。一生に一度の贅沢として、何か月も前から、俺は後楽園球場に行くんだ、長嶋茂雄を観に行くんだと、それだけを心の支えに日々の苦しい労働に耐えた人が日本中にたくさんいた。毎試合毎試合、客席にはきっとそういう人がいた。その人のことを思うと手を抜くわけにいかなかった。だから大チャンスで打順が回ってくると、長嶋茂雄は緊張するどころかほっとしたそうだよ。『これでお客さんにいい場面を見てもらえる。きっと誰かにとっての一生の思い出にしてもらえる』ってね」
ムニョスは息をひとつついた。
「夏目殿は語りがうまいね。俺、わくわくしてきた。試合が待ちきれなくなってきたよ」
少し会話が途切れた。ムニョスはふとたずねた。
「夏目殿はさ、この世界で何をするの?」
「野球をやるよ。どうやら歴史を変えても未来に影響はないらしいから、文字通り野球の歴史を塗り替える。俺がONの前に立ちはだかってやるんだ。そうだ野村克也さんとバッテリーを組むのもいいな」
「なるほど、いいね。俺はそうだな、悲しいことに立場があるから、目立つ生き方はしないべきだろう。どこかでこつこつ働いて、いつか夏目殿が投げる試合を観に行く」
「たまに会おうよ?」
「嬉しい申し出だが、できれば俺を知るものが誰もいない場所に行きたい。過去を忘れたいのだ。無数にある平行世界のどこかには、俺が誰も殺さなかった世界線というのもあるのかな」
「今日のこの日から、いいことが続くかもしれない。先のことは年を取ってみないと確かめられない。お前、長生きしなよ」
それは高校生のユキナガが大人のムニョスに言うには不思議なセリフだったが、ユキナガにとっては自然なことであり、ムニョスも違和感がなかったので、彼は「うん」と素直に返事した。
アゲハのお付きの者が戻って来た。なぜかあきらかに慌てている。彼がムニョスに耳打ちする。ムニョスの表情が変わった。
「やってしまったか」
「どうしたの?」
祝祭の雰囲気に浸っていたユキナガは気軽にムニョスに声をかけたが、すぐに異変に気付いた。
「……何かあったね?」
ユキナガが重苦しさとともに問い直すと、ムニョスは小さくうなずいた。
「我がアゲハ船団は、リンドウ船団と交戦状態に入った」




