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第64話 昭和34年6月25日の朝

 ユキナガがリンドウ丸を降船して、天覧試合がある東京の後楽園球場へ向かう朝。


 ヒメネス博士の元へ彼はあいさつに立ち寄った。


「アゲハ号では派手に出迎えられたらしいじゃないか。そんな感じになるとは知らないで適当に許可のハンコを押しちゃったよ」

「ああいうのが好きな人というのは、いつの時代もいるようで」


「そのうえまたムニョスと遊びに行くとは。ずいぶん仲が良くなったね。妬けるぜ。わたしは複雑な気分だよ」

 彼女は冗談めかして言うが本心だったろう。


「しかし、そんなに面白いのかい、君たちが観に行く『天覧試合』というのは」


「ここでそのすべてを語るにはあまりにも時間が足りません。叶うならばあなたにも見せてあげたかった」


「ムニョスと違ってわたしは忙しくてね」


「図書室でここ最近、過去二回の時空遠征についての記録を読んでいました。だからヒメネス家のみなさんのことも知っています。僕が嫌なお願いをしているのは分かってはいるんだけど、申し訳ありません」


「……あれは時空移動技術の実験段階における事故だ。アゲハからも過失を認めて、公式な謝罪がされている。終わったことなのよ」

 ヒメネスはユキナガの言葉に対して、淡々と答えた。


「ハツは置いていきます」

「今日も連れて行くと思っていたが?」


「彼女はリンドウ丸での業務にやりがいを感じています。大事にしてやってください。では僕は行きます。じゃあねヒメネス」


「なれなれしいぞ、バカモン」


 マリア・ヒメネスはこれからどんな人生を歩むことになるのだろうか。

 博士のもとを後にして歩きながら、ユキナガは思った。


 公式な日程としては、天覧試合観戦後、その日のうちにユキナガ達はそれぞれの船に戻ることになっている。


 しかし戻らない。ユキナガとムニョス男爵は現地で逃亡する計画だった。

 二度と未来には戻らない。


 波乱の星の下に生まれたヒメネス博士の行く末を、ユキナガが知ることはない。


 遠い世界の、ユキナガにはまるで関係のない出来事となっていく。


 あいさつを、できる人にはしておいた。向こうはこれが最後になると思っていないが。


 ハツには会うことができなかった。


 ヒメネス博士の仕事の手伝いで彼女は忙しく、すれちがい続けた。


 しかし彼女の意志は聞いている。無理に会わなくともいいとユキナガは考えていた。


 海上に停泊するリンドウ丸からアゲハの小型船に移り、ムニョス一行と合流することになっていた。リンドウからの付き添いは一人。


 アゲハ主導で組まれた行事で、リンドウの対応は形式的だった。


 きっとこの計画はうまくいく。


 小型船へのタラップを踏んだユキナガは、リンドウ丸乗船口の方を最後に振り返った。


 しばらく眺めていたが、そこに誰かが現れることはなかった。


 このときユキナガが思い出していたのは、あの練習試合に飛び入りした時のハツの姿だった。


『しまっていこー!』


 両手を突き上げ、大きな声で、輝く笑顔でチームを鼓舞するキャッチャー。泥にまみれたユニフォーム。


 彼女とはあれが最後の日となった。悪くないお別れだ。


 誰もいない場所に向かってユキナガは語り掛けた。


「ハツ、たくさん役に立ってね。楽しく生きてね。君を壊さずに次の誰かに託すことができて、僕はほっとしているよ」


 そして少年は、昭和34年6月25日の人ごみのなかへと消えていった。

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