第56話 ナゴヤ
アンのもとへ、ユキナガとみゆみゆはもどった。
アンは公園のベンチで文庫本を読んでいた。本の世界に没頭するその姿はとても様になっていた。
(1977年の世界は、未来に生まれた彼女にとって珍しいものにあふれているだろうに。目もくれず本か)
それはとても良い過ごし方だ。ユキナガは思った。
「あら、もういいの?」
「うん。待たせたね、ありがとう」
「いいのよ。ユキちゃんと本屋をめぐって、映画を観て過ごしても楽しかったかもしれないけどね。ねえねえ、ユキちゃんはほんとにヒメネスのことを怒ってないのよね? 嫌いじゃないのよね?」
「何度も言っている。怒ってないよ。むしろ好きだ」
「それを聞いて安心したわ」
一ノ瀬アンの表情は、安心とは少し違うもののようにも見えた。
「さあ、楽しい現実逃避の時間は終わり。わたしは倒さなければならない相手がいる」
彼女はそう言い残して、どこかに行ってしまった。
そしてユキナガはツアーに合流した。夕暮れが近づき、ユキナガが提案した名古屋ツアーのメインイベントが始まろうとしていた。
野球のある世界で新たな人生を始めることをあきらめるつもりはなかったが、今日のところはこの件に集中しようとユキナガは思っていた。
「アン、非現実はむしろこれからだよ」
一行は、まぶしい光をたたえたスタジアムに着いた。
ユキナガはハツとともにゲートをくぐった。
ユキナガは未来世界でただ一人のキャッチャーである彼女に、この場所を一番見せたかった。
観客たちが広いスタンドを埋めている。焼き鳥かなにかの香ばしいにおいが漂う。
芝生と土のグラウンド。選ばれたものでなければ立ち入ることができない場所。
右中間に設置された、手書きのスコアボード。
活気のあるざわめき。太鼓の音が遠くに響く。
僕は夢のなかにいる。ユキナガは思った。
「これが名古屋球場」
「ハツ、名古屋じゃない、ナゴヤだ」
「わたし、そういわなかった?」
未来からの来訪者たちは内野席に座った。
どこかから戻って来たヒメネス博士。ムニョス男爵と隣の席に座っている。
最重要VIPの二人を囲む重臣たち。
野球を知らず、野球場というものに初めて来た彼らは、どうふるまえばいいのかわからずにいる。
ロッテおばさんも戸惑っていた。良いツアーガイドである彼女も野球は知らない。ここで何を話せばいいか勝手がわからない。
中日ドラゴンズ対広島東洋カープの公式戦。
この試合を選んだのはユキナガだ。しかし彼は試合の結果を知らない。誰がスタメンかも知らない。
調べる方法はあったかもしれないが、前情報ゼロ、一切のネタバレなしでユキナガはこの試合を観たかった。
何も知らないツアー参加者に自分で説明をして、少しでも野球の良さを知ってもらいたくもあったが、まずは転生してから初めてのプロ野球観戦をこころゆくまで楽しみたかった。
選手紹介が始まる。ユキナガはハツにいろいろ教えながら場内のアナウンスを聞いた。
「広島の四番バッターは山本浩二。ミスター赤ヘル、凄いホームランバッターだよ。配球を読んで打つタイプだから、ハツも参考になると思う」
「へえ、それは楽しみ」
場内アナウンスが中日ドラゴンズの先発投手の名を告げた。
観客たちから大きな歓声があがる。
ユキナガも一緒に声が出た。来てよかったと彼は心から思った。
「え、何?」
横にいたハツは少し驚く。
星野仙一がナゴヤ球場のマウンドに立った。




