第十七章 もう少し
第十七章 もう少し
午後九時。
三日月書店の文庫棚の前で、藤井は本を開いていた。
佐伯はレジの中から、その姿を見た。
いつもの黒い髪。いつもの服。
鼻先と紙の距離も、いつもどおり近かった。
「埋没読みはおやめくださーい」
藤井が顔を上げた。
「今、ちょっと面白いところ」
「それは何よりです」
「もう少しだから」
そう言って、また目を落とす。
佐伯はカウンターを出た。
平台の端で止まり、表紙の並びを眺める。
新しく入った本が二冊あった。
その隣には、以前からある本。
昨日は五冊あったものが、今夜は四冊になっていた。
「一冊、減りましたね」
「売れた?」
藤井が、本から目を上げずに聞いた。
「だと、嬉しいですね」
「だね」
佐伯は背表紙をそろえた。
*
藤井が顔を上げたのは、しばらくしてからだった。
「読み終わった」
「いかがでした?」
「よかった。家の留守番、頼まれるやつ」
青い表紙をこちらへ向ける。
あの夜、帰りの電車で読むはずだった本だった。
「留守番、終わったんですか」
「終わった。ちゃんと帰ってきたよ。家の人」
藤井は本を閉じ、膝に置いた。
佐伯は、その横に立った。
「……戻らないんですか」
言ってから、藤井の顔を見た。
藤井は、少し黙っていた。
閉じた本の端を、指でなぞる。
「もうちょっと」
佐伯は、息をついた。
「せっかく助けたのに」
藤井が姿勢を正した。
「その節は本当に、ありがとうございました」
「……そういうことではなくて」
「分かってる」
藤井は頭を上げた。
「帰る方法も、探すよ。家のことも、もう少し思い出したいし」
「はい」
「でも、今は、もう少し」
佐伯は頷いた。
帰り道を知っているのなら、教えただろう。
あいにく、二人ともまだ知らなかった。
それに、藤井がいつもの椅子にいることに、ほっとしていた。
「次は、何をお読みになるんですか」
そう尋ねると、藤井はすぐに棚を見た。
「まだ決めてない」
「珍しいですね」
「読みたいのが多すぎる」
「そちらですか」
佐伯が笑った。
藤井も笑い、文庫本を持って立ち上がった。
*
二人で、棚の間を歩いた。
榊条怜司のシリーズが並んでいる。
藤井は一冊抜きかけ、少し考えて戻した。
「それ、読んだら隣に来そうなんだよな」
「解説していただけるかもしれませんよ」
「先に答え言いそうだから」
次の棚では、クラリッサの本を見た。
「二冊」
「二冊ですね」
二人で小さく頷き、その先へ進んだ。
エレオノーラの表紙には、今夜も三人の男がいた。
リディアは、清楚に微笑んでいた。
藤井が少し笑う。
「何を考えてるんでしょうね」
「聞かないでおく」
佐伯も笑った。
そのとき、実用書の棚の向こうから、声がした。
「あの、すみません」
*
髪を後ろでひとつにまとめた女が、通路に立っていた。
見覚えのあるエプロン。
肘までまくった袖。
藤井は顔をほころばせた。
「肉じゃがさん?」
「いいえ。ミートボールです」
藤井は足を止めた。
「……やっと会えた」
「私を、ご存じで?」
「名前だけ。結構前から」
女は丁寧に頭を下げた。
「イタリアン風肉じゃがさんから、こちらでお世話になったと伺いまして」
「いえいえ。こちらこそ」
佐伯も頭を下げる。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
「今日は、ハンバーグさんの付き添いです」
ミートボールが、少し横へずれた。
後ろに、もう一人いた。
同じ顔だった。
髪の結び方も、エプロンも、袖をまくった位置まで同じだった。
藤井は、二人を交互に見た。
「……見分けつかないんだけど」
後ろにいた女が、一歩前へ出た。
「私は、三十八ページです」
佐伯が料理本を取った。
目次を開き、指先でたどる。
「三十八ページ。こちらですね」
藤井は感心した。
「ページで呼べばいいんだ」
「お名前も、ございますので」
「そっか。ハンバーグさん」
「はい」
呼ばれたほうが、嬉しそうに返事をした。
佐伯は本を開き、少し位置を変えた。
写真と材料欄が、藤井にも見える向きになった。
「……俺、今、次に読む本を探してたんだけど」
「ちょうど一冊、見つかりましたね」
「料理本じゃん」
ミートボールとハンバーグが、並んでこちらを見ていた。
藤井はため息をついた。
それから、開かれたページをのぞき込んだ。
「で、どうしたの?」
「実は、私――」
ハンバーグが口を開く。
佐伯が、その話を聞く顔になった。
藤井は最後に、もう一度だけ言った。
「俺、客だし」
「接客中でーす」
三日月書店は、とっくに閉店している。
利益は一切ございません。
今夜も、本から客が来る。




