第4話 クレーマー
製図の講義を受けていてもう一つ嫌なことが発覚した。時間帯が昼過ぎの1番太陽が昇るという事もあってもろに日差しが俺を射抜いて来る。それだけなら眩しいで済むのだが、どういう訳だかこの製図部屋にはエアコンが無い。正確には併設されている奥の部屋にはついているが、冷気など微塵も感じられない。
そのせいで連日続く暑い暑い夏の空気に加えて、この光線。先程から汗がダラダラと垂れて既に製図用紙に染み込んでしまっている。ここを消しゴムで擦ると穴が空いてしまう為濡れた箇所は実質的に一発勝負の添削不可状態へとなってしまう。
そんな最悪な状態に加えてこの面倒な設計。ホントに頭がどうかしてしまいそうだ。
「お願いします」
渡部が待つ部屋は驚くほど涼しかった。肌に張り付いた汗が多い分、気化熱で最早寒い程だ。
出来上がった製図を見るなり溜息を吐かれる。目元が痙攣し始めるのを感じた。
「なぁ、これ何?」
指さされた箇所を俺も覗く。特に間違いらしい間違いは見当たらない。
「…どこでしょうか」
「よく見ろよ、こーこ」
再度凝視するがそこにはただ矢印が書いてあるだけだ。
「…すみません、何か間違ってますか?」
「ここだよ端末記号。しっかり寸法線に繋げなよ…」
改めて再々度見る。どこからどう見ても繋がっており濃さも完璧。いちゃもんと言う他ない。
「他にもここ。やたらうっすい字だし…小せぇし」
いや、ただのクレームか。
「添削ありがとうございます」
感謝の言葉を吐き捨てる様に言い、用紙を受け取った。
席に戻り、改めてばつ印が付けられた箇所を見る。全くもって分からない。理解が出来なかった。製図的には何の問題もないはず。明らかな冷遇だった。
しかしこれが講師である渡部が出した結論なのだから受け止める他ない。別に指摘した所で、50数年恐らく碌な事に使われて来なかった脳味噌から捻くり出された反論に屈するだけ。何か言って評価を変えてもらっても、周りから贔屓と言われればそれはそれで面倒くさい。ならばもう潔く過ちを認めて切り替えるしかない。
雑念を掻き消すように消しゴムで指摘された箇所を消していく。擦る度に自分の時間をかけたものがふいになっていく喪失感が広がっていく上、時々紙が折れ曲がりぐちゃぐちゃになるのが余計に苛々を募らせていく。
そんな行き場はハッキリしているのにぶつけられない憤りに苛まれている修正の途中だった。
ふと俺は一つ純粋な疑問が湧き上がってくるのを感じた。
『ありがとうございます』
自分が先程口にした言葉。評価基準よりわからない事。
渡部に関してはあれが仕事なのだろう?丹精込めて作り上げた作品の批評を、暇潰し程度にしか思ってない奴に、感謝をしなければならない義理など一切ないじゃないか。
単位の為の教師受け?人間的な礼儀?自己満足?何の為にこんな奴を敬わなければいけないのか。
よく考える必要も無い。こんなのは踏ん反りながら、鼻唄を歌っても思いつく様なことだ
なぜ俺は今まで気を遣っていたのか。自身を卑下し、敬っていたのか。自分よりも知見があるのは年上なのだから当たり前だろう。そんな長らく生きてきた知識を鬱憤を晴らすために使う人間に敬意を払う意味など毛頭ない。
馬鹿馬鹿しい。なんて愚かだったんだ。
義務でもない上、疲れる事をわざわざやる必要など無いじゃないか。
なら、これからはもうやめるべきなんだろうか?
折り合いをつけれる事も出来ず、かと言って製図に集中することも叶わず。
その日提出時の出来具合はいつもより数段悪く見えた。
「おっ、おはよー勢弥くん」
「おはようございます佐々山さん」
その日の夜、バイト先に行くといつもの様に佐々山がいた。ホールを見る限り客は極端に少ない為、今日は発注作業などの事務を手伝っているのだろうか。エクセルに何かを打ち込んでいた。
「今日は佐々山さんバックですか?」
「んー店長が最近忙しくて手が回ってないからさ。オーダーもまぁ捌けるし、それなら空いた時間で手伝おうかなって」
「ああ、そういう…」
気の抜けた返事が溢れる。もはや善行に勤しむ事が佐々山の中では癖になっているんだろう。今更変だとは思わない。
着替えて名札を付けて、身嗜みを確認しているとベルが鳴った。9番テーブルから注文が入ったようだ。
「すみませんオーダー行ってきますね」
「あ、勢弥くんちょっと待って。私が行くから大丈夫」
ホールに出ようとしたとき、佐々山が俺を引き留めた。
「いやでも、佐々山さんそっちの作業とかもあるじゃないですか」
「まぁこっちは最悪USBに移して家にでもやればいいよ。大丈夫大丈夫」
「それでも任せっきりなのも悪いのでいいですよ」
「任せっきりなのはお互い様だよー。だから大丈夫」
そう言って佐々山は俺の肩を叩きながらそのままホールへと出ていってしまった。話の切り上げ方が何処となく強引だったので、いつもの佐々山らしくないと思った。
他人に借りを作ることを厭う俺にとってあまり芳しい事では無かったが、倦怠そのものとも言える業務を佐々山自己満足でやるというのだから、意固地に働く理由も無い。あれは彼女の意思でやっているのだから任せてしまっても問題はない事だ。
とは言っても唯一のやる事が無くなってしまったのは少々深刻だ。
こういう暇な時は大概季節限定の新商品が入っていたりするので、メニューを読みながら配膳位置などを覚えたりするのだが、今の時期はそれすらも無い。客もパソコンをいじるサラリーマン、淡々と勉強をする眼鏡をかけた学生など恐らく退店するのはかなり先になる様な人間ばかり。更には新規に来る客もいない為出入りの音すら鳴る気配は無い。調理器具のメンテナンスも、厨房の薪浦に先を越されてしまっている。
ホントに暇だ。
仕方が無いので、先程キッチンで洗われていたリセット用に使うトレーでも消毒するか、と呑気に考えていたとき
「上を出せ!上を!」
劈くような怒号が耳に入った。
ホールからだ。
カウンターから顔を覗かせると、窓際のテーブル横にいる中年の男に佐々山が頭を何度も下げているのが見えた。何かを話している様だったがこちらからは一方通行の会話、要するに男の罵詈雑言しか聴こえてこないという事だ。
暫くして罵り言葉は徐々に波が引いていく様に鎮まり、佐々山は深々と一礼をしてその場を後にした。
「いやー、まいったまいった」
帰ってきた彼女の表情は想像とは大分違って、思いの外明るかった。
「…クレームですか?」
「あー…ライトミールに夏野菜盛りパスタってあるじゃん?アレの中のナスだけ除いてくれって言われて、それは出来ないって伝えたあと、今度はカルボナーラでいいから、キノコ抜いてくれって言われて…で、あんな感じ」
パスタ系は具材がソースと初めから混ざった状態で保存されているので、取り除くのは無理だ。要するに今回はタチの悪いクレームだという事なわけだが…
「あの客、いつぐらいに来たんですか?」
「んー…18時の半ばくらいだったかな?最初は水だけ飲みながら、新聞読んでたけどね」
佐々山の今日のシフトは18時から。丁度ホール担当の主婦と交替するタイミングでシフトが組まれている。
「ま、しょげてても仕方ないし、出来ない事は出来ないって伝えれたから多分大丈夫だとは思うけどね。一応次呼ばれたら私が行くよ」
「あの…佐々山。一応なんですけど、聞いていいですか?」
「んー?どうしたの?」
「分かってたんですよね。あの客がクレーマーって」
「ん?」
屈託の無い表情を浮かべる佐々山。
いや、作っているのだろう。
「あの客がクレーマーってわかってたから、俺に接客をさせない様にしたんですか?」
「…」
佐々山は何も言わなかった。ただ微笑んでいるだけだ。いや、微笑みというか、口角を無理矢理あげているだけに見える。
男がいる9番席を見ると、テーブルにはコーヒー用のカップが3つ置かれているのを他所に、脚を通路にはみ出しながら新聞を読み続けていた。
「あの入口付近の席に座ってる学生、普段は絶対窓際の席を使うんですよ。気分転換に窓を眺めていたりする所度々見るので。でも今日はその席ではなく、離れた喫煙席側の仕切り板の近くにいる。恐らくあの客の新聞を捲る音が鬱陶しいからでしょうね」
「…そうなんだ。私はあんまり客の事は覚えないから分かんないな」
佐々山は言葉を濁しながら作り笑顔を浮かべる。そんな彼女を見て、俺は哀れだと思った。
それと共にある事を思いつく。
「次、9番には俺が行くので大丈夫ですよ」
自分の中での価値観が切り替わる瞬間に、今俺は相まみえているのかもしれない。




