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ケヴィンの部屋は、大学から1kmも離れていないレンガ壁の古いアパートの2階にあった。今回の件で家主と顔見知りなったミセス・オブライエンが、鍵を借りて来てドアを開ける。イナンナと日向は、婦人に続いて中に入った。
いわゆる1LDKの部屋。壁際にベッドが置かれ、並んでデスクがあり、その上に本やノートパソコンが置かれている。書物は大学で使用する教科書やノート、論文のコピー類だ。キッチンには小さな冷蔵庫。ケヴィン一人が食べるのに必要なだけの食器は、きちんと洗って片付けられている。
質素で何も無い。
極端な言い方かも知れないが、部屋に入った時に日向はそう思った。壁に掛けられたコルクボードにピン止めされた小さな写真に目が行く。近寄って見てみると、石の壁に掲げられた円形の板の様な物が写っている。大きなダーツの的にも見える。
「アーサー王の円卓ね。」
隣に来て、日向が見ている写真を覗き込んだイナンナが教えてくれる。
「へー、これが。」
あの有名な円卓の騎士が使った円卓なのか。
「勿論、偽物。12世紀になって作られた物だって話よ。ウィンチェスター城にある。…見に行きたい?」
イナンナはぞんざいに言う。これは、見に行こうという雰囲気じゃない。第一、そんな余裕は無い。
「1、2、3…」
円形のテーブルを放射状に区切り、交互に色が塗り分けられている。そこに座る人の名前も書かれている様だ。日向はその数を数える。
「…24。アーサー王を除いて24だ。円卓の騎士って24人なんだっけ?」
「え?」彼のデスクを調べ始めていたイナンナが振り返る。「…ああ、諸説あるわ。中には千人を超える話まで。勿論、12人と言う説もある。」
イナンナが妖しく微笑む。
これも12にまつわる話か…。
「それよりも、こっち。」
イナンナがデスクを指でトントンと叩いて、日向の注意を向けさせる。机の上には、こげ茶色のノート。使い込まれて角が丸くなり、毛羽立っている。イナンナがデスクの上の本やノートの中から探し出したのだろう。日向はデスクに近寄る。
「このノート、見た事があるよ。いつだったか、フィンが持っていた。」
日向はノートを見下ろして、そっとその表面に手を伸ばす。
「私もよ。」
イナンナが意味有り気に日向を見る。
あの時、日向がこのノートの覗き込もうとしたら、ケヴィンは慌てて鞄にしまったっけ。きっと何かある。
日向もイナンナを見て、小さく頷く。
「ミセス・オブライエン。」
ノートを取り上げると、イナンナは婦人の所に行き、交渉を始める。その間に、日向はデスクの上を更に調べる。試しにノートパソコンの電源を入れてみる。ブートパスワードが設定されている。きっとこの中には、手掛かりが山の様に入っているのに違いないが、これでは手が出せない。パスワードを破ってまで侵入するのは、警察じゃない自分達にはやり過ぎだろう。次にデスク上に積まれた教科書とノートをパラパラとめくってみる。取り立てておかしな所は見付からない。背を持って振ってみても、ページ間に挟まっている物が落ちて来る様な事も無い。
「…ありがとうございます。」
婦人とイナンナの交渉は終わった様だ。イナンナは笑顔だ。上手く交渉成立したのだろう。彼女の腕には、さっきの古びたこげ茶色のノートが抱き締められている。日向達はその後も、冷蔵庫の中から、ベッドのマットレスの下まで調べたが、怪しい物は見付けられなかった。
結局、成果はノート一冊だけ。調査を終えて引き上げようとした時、玄関ドアの内側に紋章旗が張り付けてあるのに気付く。水色の地を背景にして、嘴と翼を持った怪獣の横向きの姿が描かれている。
「これ、なんだ?」
立ち止まった日向の口から思わず声が漏れる。
「何かの紋章旗。」イナンナも日向の隣で止まり、旗を眺める。「私も知らない。」
「これは、アーサー王の紋章。」
婦人が声を上げる。イナンナと日向が婦人を振り返る。旗を見る婦人の顔は、どこか誇らしげだ。
「青は、王の気高さの象徴。そして、グリフィンは、神が認めた王統の証。」
淡い微笑みを以って旗に見取れる婦人の表情を、日向は何か不思議な気持ちで見つめた。
ミセス・オブライエンをホテルに送り届けた後、車で日向の泊まっているホテルに向かう。
「ノートは私が管理するのが条件だって。」
イナンナが揶揄う様な横目で日向を見る。日向は西洋人が良くする様に肩をすくめてみせる。
「構わないさ。どうせ僕には読み解けない。」
さっき問題のノートを開いてみたが、お世辞にも綺麗とは言えない手書きの英文で埋まっていた。綺麗にタイピングされた文章ですら、読むのに苦労する日向には到底手が出せない代物だ。
「ナンが中身をチェックして、気になるところをピックアップしてくれよ。」
「私の勘に頼って良いの?」
「勿論!僕の勘よりも数倍優れていると思う。」
「それじゃ、今日、これを持って帰って目を通してみるから、明日、ヒューのホテルで話し合うので良いかしら。」
「OK。」
「あとは何かやっておく必要有る?」
「やっておく事じゃないが」日向の声のトーンが一段下がる。「さっきのフィンの部屋、気にならなかったか?」
「何が?」
「綺麗に整理整頓され過ぎてるって。」
「デスクの上の教科書やノートは乱雑に積まれていたけど。」
「そうじゃなくて、余計な物が何もないって感じだった。普通に生活していれば、何気ない無駄な物がそこらに散乱しないか?例えば、そうだな…、テーブルの上に買い物のレシートが丸めて置きっ放しになっていたり、干し忘れた靴下が洗濯籠の中に残っていたり。」
「ヒューって、そんなだらしない生活しているの?」
「いやいや、僕の生活態度をチェックして欲しい訳じゃなくて…」
「でも、そうね。どこか生活感が無かったかも。」
「フィンは、部屋を整理してから出掛けて行ったんじゃないかな。長期間、戻って来なくても良い様にしてから。もしかすると、フィン自身が居なくなった後に、こうやって誰かが部屋に来る事を想定していたかも知れない。」
「最初から消息を絶つつもりでいたって事?」
「根拠のない仮説だけど、フィンは自分の意志で出て行った。自分の足跡を追跡されたくないと思うなら、手掛かりになりそうな物は、徹底的に始末してある筈だ。」
「それじゃ、これも役に立たないって訳?」
イナンナは運転しながら、片手で自分の脇に置いた手提げ鞄を叩く。中にはケヴィンのノートが入っている。
「分からない…。人間完璧に行動するなんて土台無理な話だからね。本当は、ノートを持って行くつもりだったのに忘れたって事だってあり得る。」
「それじゃ、それに賭けようかな。」
イナンナは嬉しそうだ。このノートが重要だと考えているのに違いない。
「何か、その自信に繋がる根拠があるのかい?」
「どういう事?」
「ナンは、どうしてそのノートの事を知ったんだ?」
「フィンは、何でも自分が正しいと思っているタイプ。彼は、彼の考えているあらゆる事を相手が誰だろうと構わずに主張するから、他人とぶつかる事もしょっちゅう。そういうところを見せつけられて、フィンと距離を置く様になった仲間は沢山いるわ…。」
ノートの事を訊いたのに、イナンナが話し始めた中身はケヴィンの話だ。でも、何か意図があるのだろうと、日向は口を挟むのを我慢して、彼女の話を聞く。
「…そうやって、何でも自己主張したがるフィンが、そのノートだけは、私に見せようとしなかった。いつも鞄の中に入れていて、時々取り出して、難しい顔をしているくせに。」
「成る程、そうだったんだ。僕も、図書館でそのノートを広げているフィンに声を掛けたら、彼、直ぐノートを鞄にしまったんだ。その時は気にしなかったけど、今思えば、おかしな行動だった。」
「きっと、何か彼にとって秘密にしたい大事な事が書かれてあるのよ。」
「それじゃ、もう一度考えてみよう。そんな大事なノートだったなら、どうして部屋に残して行ったんだろう。」
「だから、急いでいて忘れたんじゃない?」
「いつも鞄に入れて持ち歩いていたなら、鞄だけ持ち出して、ノートを忘れる可能性は低いかな。」
「じゃあ…もう、必要なくなったとか?」
「それはあり得る。そのノートを使って考えていた課題が解決したから、次の段階に向けて出て行ったとか。」
「他には、どんな可能性がある?」
「…優先順位の問題だったかも知れない。」
「どういう事?」
「そのノートには、彼にとって大切な何かが書かれている。でも、もっと重要な、あるいは緊急を要する事柄ができてしまった。だから、大事なノートをなくさない様に部屋に置いておいて、そっちの問題に集中したのかも。問題が解決したら戻って来るつもりで、置いて行ったって事。」
「もしそうなら、このノートを調べても、フィンの行方には結びつかないわ。」
「うん、そうだね。」
そうじゃない事を祈るしかない。
「フィンって、何でも自分が正しいと思っているんだ。」
日向はさっきのイナンナの言葉を蒸し返す。
「え?…ああ、そう。ヒューは一緒に居て、そうは感じなかった?」
「そう言われて思い返せば、そう思う点はある。」
「…昨日、ミセス・オブライエンを説得する時、ヒューは留学した最初、独りぼっちだったって言ったでしょ?」
「あ、ああ。」
他人からそう言われると、何だか恥ずかしい。
「フィンも同じ。自分の主張ばかりするから、煙たがってみんな深く関わろうとしない。本当に親しい友人はいなかった。状況はヒューと同じだったのよ。」
「なんか、そう言われると否定したくなる。僕は、日本に沢山友達がいるよ。」
「御免なさい。」イナンナは笑う。「ヒューがフィンと違う性格なのは良く分かっているわ。」
日向の泊まっているホテルの前で車から降り、イナンナにおやすみの挨拶をする。一人ホテルの部屋に入り、ベッドの上に上半身を投げ出す。日向の目には部屋の天井が映っている。
イナンナの気持ちが良く分からなくなった。
イナンナは、ケヴィンの性格を冷静に語っていた。とても客観的に、一切感情を交えずに。対象が自分の恋人なら、感情移入するのが普通だろう。のろけが入ったり、欠点をあげつらっても、同時にフォローする言葉が少しくらい入るものじゃないだろうか。彼女は頭が良い。でも、自分の恋人をまるで赤の他人の様に評価する様な、そんな冷徹な感情の持ち主とは思えない。これは、惚れた日向の欲目だろうか。むしろ、冷静な判断が下せなくなっているのは自分の方かも知れない。
日向は苦笑いと共に上体を起こすと、シャワーを浴びる事にした。




